第7話

久米は社員から店頭に並ぶ商品の説明を受けていた。本店のプティナンでは、店頭のショーケースにはマドレーヌやフィナンシェ、カヌレにマカロン、その隣にはパルミエやプロランタンなどの焼き菓子の詰め合わせ、ガラス窓の手前の商品棚にはクロワッサンなどの数種のブーランジェも扱っている。

久米は当店独自の商品陳列に新鮮さを感じたのか目を潤ませながら、商品名をすべて覚えていくように指導を受けていた。その後厨房へ行きパティシエとその社員に挨拶をして様子を見ていると、ある事に気がついてその香りを嗅いでいた。


「ダマンドの香ばしい香り……これってもしかしてあのアップルパイですか?」

「よくわかったね。そうだよ、イベントで提供した季節限定のアップルパイ。通常の一ホール型ではなくて、うちの本店のは四角く手包みにして焼いていくんだ」

「さっき試供品で焼いたものがあるから……ああ石崎さん、持ってきてもらって良いですか?」

「はい!食べたいです!」

「久米さん威勢が良いですね」

「食べるのも提供するのも大好きなんです」

「せっかくだから、登坂さんもいただいてください」

「じゃあちょっと試食させてもらうよ」


焼きたてのアップルパイ。リンゴの品種は紅玉やジョナゴールド、グラニースミスを使った希少なものだ。たっぷりのシナモンとシロップに漬け込み、それを何層もこねて重ねたパイ生地に包み込み、オーブンで焼いていく。店頭に並ぶとすぐに完売してしまうほどの人気の商品だ。皆でアップルパイを食べていくと、思わず笑みが零れた。


「焼いてから時間が経っているのにこんなにサクサクするんですね」

「シロップもあまり甘くなくでシナモンの量もちょうどいい。リンゴが噛むごとにしゃきしゃきして柔らかすぎずにほっこりする……ふふ、幸せな気分です」

「リンゴは長野から出荷してもらっているんです。限定品なので、この間の福島産のものとは違う食感なんです」

「久米さん。まだあるから他の焼き菓子と一緒に持って帰ってください。自宅でお客さんにどう説明して提供しようか考えてきてほしいんです」

「ただ食べれるだけじゃないことを身に持ってしっかり叩き込んでよ」

「も、もちろんです。頑張ります」


「ごちそうさまでした。じゃあ僕会社にもどるので、あとはお願いします」

「登坂さん。イベントの書類って持ってきていますか?」

「ああ悪い。こっちも食べているのに夢中になって頭から抜けていた」

「もうしっかりしてくださいよ」


「……これ、書類。マネージャーにも伝えておいてください」

「次の試作品も仕上がり次第連絡するので、もう少し時間ください」

「はい。お願いします。ではこれで……」


輝が店の外に出ると後ろから久米が声をかけてきて呼び止めた。


「驚かせてすみませんでした」

「一緒の系列で働けるのが嬉しいよ。他の店に負けないように、しっかり売り込んでいくようにしていってください」

「私、いつか本社にいけるようにここで土台を作ってスキルアップしていきたいです。だから、登坂さんにも認められるように……」


輝は彼女の口元についているパイ生地の欠片を見てクスリと笑い、ハンカチを渡した。


「口をちゃんと拭いて、身だしなみを整える。基本中の基本だ」

「すみません。気をつけます」

「その緊張感がいい。また店に来るから、次にどうスキルアップしているかどうか見させてもらうよ」

「たくさん勉強していきます。よろしくお願いします!」

「成果がでてきたら、夕飯でも食べに行こう」

「はい!」


地下鉄のホームで電車を待つ間、スマートフォンで撮ったプティナンの社員たちの画像を見て、彼らの笑顔が心からこの店の事を慕っているのだと感じ取ることができた。久米の表情もどことなく硬い感じにも見えたが、彼は彼女の行動力に関心を抱いていた。できれば近いうちに彼女に会いたいとも願っていた。

上京した祝いとしてどこかレストランにでも連れて行こうかと考えていた。この思いを私利私欲で満たすのではなく、彼女とともに共有したい。


純愛を抱くことは罪であろうか。


確かに一度の関係は持った。


それでも純粋に人間同士として今の状況下における混沌とした渡世さえままならない位置に立っているのに、自我が主張すべきところは相手にも向けていいのではないかと自身の中で葛藤する。輝は自分が正しいと生きてきた人間であると正論を訴え続けてきたつもりだったが、振り子に左右されても必死にしがみつきながら今の職種にも就けたと自負している。

ただ、その中で久米が現れた途端に砂でできた城が一気に崩れ落ちたが、それは決して魔に逆らったものではない。莉花には傷をつけてしまったが、自分だけしか持たない逆向に手を染めても黙秘さえ貫けば、誰も刃向かうことなどしないのだと浮足が立っている感覚にもなっていた。


自分だけの快楽、自分だけの戒め。もし誰かに気づかれてもあとはの事だと、わずかに他者を軽視していることも、このころから湧き上がっていたのだった。

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