第3話

 その日以降も、女からは毎日Lineが来ていたけど、俺は放置していた。ブロックしたりしたら、逆切れして、散弾銃を持って乗り込んで来るといけないからだ。既読にしなければ、後で偶然会った時にLine使い慣れてないとか、間違ってアプリを消したと嘘をつくこともできる。


 しかし、そうやって余裕をかましていられたのは、せいぜい二週間くらいだった。


 ある日、いきなり会社に電話がかかって来た。どうして俺の勤務先を知っているかと聞くと、俺が歩いているのをたまたま見かけて、ついて行ったらわかったということだった。実際は一階にセキュリテーがあるから、俺がどこの会社に入ったかは分からない筈だった。多分、興信所などで調べたのだと思う。


「実は私…赤ちゃんができたの。会って話したいんだけど、うちに来てくれない?」

 俺はやってしまったと絶望的になった。ほかの人ならともかく、この女はないなという人だ。頭が真っ白になりながらも、直接会って、堕胎してくれるように頼むしかないと悟った。

「わかった」

 相手を怒らせないようにしなくてはいけない。慰謝料を含め、中絶には協力すると伝えなくては。


 俺が女の家に行ったのは、電話が来た日の夜だった。厄介なことは早く対応しなくてはと思っていた。俺は人に会うつもりで朝家を出ていないから、若干くたびれた格好をしていた。女の住むマンションのフロアにつくと、廊下にまたおかずの匂いが漂っていた。

 部屋に入ると、ダイニングテーブルの上に電子調理鍋が置かれていた。


「夕飯まだじゃない?」

「うん」

「食べて」

「ああ…ありがとう」

 それどころではないが、機嫌を損ねるのが怖くて断れなかった。俺が椅子に座っていると、女はてきぱきと準備を始めた。そして、テーブルに着いた。

「いい、お出汁が出てると思うんだ」

 また、イノシシ鍋が出てくると想像した。妊婦になっても肉食なのは変わらないらしい。


「いろいろすまなかった」俺は頭を下げて謝った。相手を説き伏せて、産まないという選択をしてもらう必要があったからだ。人生最大のピンチ。

「急に父親になるって言われてもきっと困るよね…」

「うん…今まで結婚なんて考えたことなくてさ。俺には家族を幸せにできる自信がないし。俺って本当にクズだから」

「そう言うだろうと思った」

「体は大丈夫?」

「うん。でも、今日、手術だったから」

「え?ってことは…。まじで?堕ろしたんだ?中絶って日帰りできんの?」

 取りあえず俺はほっとした。

「うん。さ、食べよう」


 女は鍋の蓋を開けた。

 湯気が出ているかと思ったら、そうではなかった。

 真ん中に赤紫の何かが置かれたいた。

 よく見ると、それは、昆布出汁に浸った赤ちゃんの死体だった。


「うわぁぁぁぁぁぁぁ!」

 俺はびっくりして、椅子を倒して立ち上がった。

「なんだよ!それ!」

 壁まで後ずさりしたが、もう、それ以上逃げ場がなかった。

 壁に這いつくばるようにして、女を見た。

「ふふふふふ」 

 女は面白がって笑っていた。ばっちり化粧をしていて、真っ赤な唇が耳まで裂けているように見えた。


「私たちの赤ちゃんだよ!ほら!食べてみて!」

「あんた、何言ってんだよ!狂ってるよ!」

「だって、かわいそうじゃない?せっかくお外に出て来たのに」

「あんた、頭おかしいよ!」

「ふふふふふ。はははははははぁぁぁ」


 女はまるで、電気椅子のスイッチを押すかのように、非情に鍋のスイッチを押した。


 次第に、お湯にぷつぷとと細かい水泡が出来て来て、真ん中にいる赤ん坊の周りを囲み始めた。俺は直視できなくて、目をそらした。意味もなく、両手で顔を塞いだ。


「よちよち。暖かいかなぁ…お湯。気持ちいい?よおし。よおし。いい子だね」

 女が裏返った声で話しかけている。完全にいかれている。

「ほら!ちょっと、ここに座んなさいよ!」

 俺は返事できずにいた。

「ほら…早く!言うこと聞かないと、撃つよ」


 女はテーブルの下から、ライフルを取り出した。

「うわぁぁぁぁぁぁぁ!やめろ!」

 俺は恐怖で腰が抜けた。

「早く座れって言ってんだよ!」

 女が立ち上がって、銃口を俺に向けた。

「やめろ!殺さないでくれ!」

 そして、俺は泣きながら失禁してしまった。尿の臭いが部屋中に充満した。

「じゃあ、早く」


 俺は泣きながら椅子を起こして、もう一度座り直した。鍋がぐつぐつ言い始めていた。悪い夢を見ているみたいだった。しかも、人生最悪の!


「私たち二人で作った生き物をまた体に戻すの!理にかなってるでしょ?」

「うっうつつ…」

 俺はもう泣くことしかできなかった。

「泣くなんて情けない!男なら、自分がしたことの責任取りなさいよ!」

「無理だ…。食えない」

 ウジ虫を食えと言われているのと同じくらい無理だった。倫理的には赤ちゃんの方がよほど罪だろうけど。

「ごめんなさい」

 俺はしゃくりあげながら謝った。

「じゃあ、結婚してくれる?」

「それは…ちょっと…」俺は殺すと言われても、そいつと結婚するのは無理だった。

「じゃあ、今すぐ食えよ!」

 俺はぐつぐつと茹っている鍋を見た。すると、赤ん坊の目鼻はもう見えなくなって、ハムの塊のようなものが真ん中にでんと置かれているだけになった。

「食えません」

「いいから食えって言ってんだよ!!!」

 女が怒鳴った。そして、しびれを切らした女は、自ら肉を切り分けて、俺の目の前に皿を置いた。

「早く食えよ!」

「無理だ。食えない」

 俺は鼻水を流してぐちゃぐちゃな顔になりながら、謝り続けた。

「人の心をもて遊んだ罰だ!食え!」

「どうしても無理です。ごめんなさい」

 俺はテーブルの上に突っ伏して泣いた。

「はっはっはっはっは!」

 女は高笑いした。

「あっはっはっは!受ける!」

「申し訳ありませんでした」

 俺はテーブルよりも頭を下にして謝った。

「食べさせてあげる。あーん」

 女は肉を箸で俺の口に運んだ。

「あーん。いい子ね!早く食べて」

 俺は口を開けなかった。熱い肉汁が俺の唇に押し当てられた。

「ダメな子ね。おもらしまでしちゃって」

 俺は恐怖と怒りと恥ずかしさで押し潰されそうになっていた。

「ははははは!」

「ごめん」

「いいの!いいの!」

 あ、よかった…。俺は目を開けた。

「赤ちゃん、まだおなかの中にいるんだ」

「え?」

「全部、嘘!まだ、おなかの中にいるんだ!まだ生きてるんだ!ちゃんと、責任取ってもらうからね!一生かけて償えよ!馬鹿が!」

 女はおなかを撫でながら言った。

 

「じゃあ、これは?」俺は鍋の中を見ながら言った。

「それはイノシシの赤ちゃん」

 俺は腰が抜けそうだった。ようやく涙は止まったが、もう立ち上がることもできなかった。その後、どうやって家に帰ったか覚えていない。


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