第2話

 俺は女がイノシシの睾丸を生で食べた話を聞いてますます引いてしまった。

「E型肝炎って人から人にうつったりしない?」

 この女がずっと1人なのは、他の男が本能的に避けているからなのかもしれない。

「うん。人から人への感染は今のところないんだって。もし、感染しても、ほとんどの人は自然に治るみたい。食べたのって1年くらい前だし。もう大丈夫だよ。で、さあ。イノシシの睾丸ってこんなに大きいんだよ」

 そう言って、女が嬉しそうにイノシシの睾丸を拳で再現してみた。俺は引きつる。男相手にイノシシを食わせて面白がってるなんて、何時代の人だろうかと思う。昭和の話か。


 女はもりもり食っていた。顔も汗と脂でテカテカしている。食い方が汚い訳ではないのだが、相当下品に見えた。既婚者で六十くらいの人なら、こういう女を喜ぶかもしれない。しかし、このまま鍋を食って帰れる訳でもないから、俺も開き直ってイノシシ肉を食い始めた。


「うまいね。味に深みがあるというか…」

「でしょ。イノシシって一度食べると癖になるんだ」

 女がテーブルの下で足を延ばして来たので、ぞっとした。

「でもさ、イノシシさばくのってかわいそうじゃない?」

「え、全然!どうして?イノシシって全然かわいくないんだよ。年賀状のイラストとは違うよ!」

「まあ、そうだろうけどさ」

 イノシシは走り出すと急に止まったり、横に曲がれないらしい。それに体毛はダニだらけだろう。そんな風に生前の醜悪な姿を想像すると、かわいそうだという気持ちが減退するのは確かだ。

「なんだろう。やつらは害獣だからさ。畑を荒らすし、罰を与えてるのに近い感覚かなぁ」女は当然のように言った。


 デスペナルティ。ファイナルファンタジーじゃないんだから、お前に何の資格があるというのだろうかと思う。 


「やばいね」俺には他に言葉が浮かばなかった。


 俺だってビーフステーキが好物なのに、野生のイノシシはかわいそうという感情は矛盾している。しかし、自らの手で撃って、さばくというのはやっぱりできない。俺が都会化し過ぎて、野生を失ってしまったからだろう。


 しかし、この人とわかり合うのは、どうしても不可能だという気がする。同じような価値観で生きている人がいれば、話が合うのかもしれない。もし、彼女が喋っていて、楽しい人だとしても、こういう趣味のある人は俺には受け入れがたい。


 彼女は周囲に変わり者で通っていて、美人なのにずっと男がいなかったそうだ。大体、セフレのような感じになって終わるそうだ。いきなりバサッと捨てられたり、急に連絡が来なくなるらしい。女は裏切られたと泣き叫ぶ。今までの男たちは、この頭の悪い女を搾取して、罰を与えていたのかもしれない。死んだ動物たちの代わりに。結局、男に愛されることのない女なのだ。


***


 俺がその女と出会ったのは、わずか二か月ほど前だった。土曜日の昼に都内で昼に食事に言って、夜にはホテルに直行していた。すんなり行き過ぎて怖いくらいだったが、最初は美人で魅力的に見えた。もちろん、結婚するつもりはなく、本人にもそう伝えた。お互い納得して、セフレとして交際していたのだ。独身でこういう人はちょっと珍しい。


 しかし、厄介だったのは、特に話題がないのに、女が毎晩Lineアプリから電話をかけて来ることだった。最初はよかったけれど、通話中でも無言になることが多かった。俺は話を広げられるタイプじゃないし、あっちも口下手だった。


 女は外資系の金融会社に勤めていて、自宅は渋谷区のマンションだった。かなり稼いでいたと思われる。最近は週の半分は在宅勤務だということだったが、夜は暇を持て余していた。


 お互いの自己紹介が終わると、本当に話すことがなかった。俺が自分の素性をあまり明かしたくなかったせいもある。俺はちょっと珍しい名前だから、本名を名乗っていなかった。勤務先の会社も嘘を教えていた。女性から見たら最悪だ。


 彼女の生い立ちはちょっと変わっていた。両親が小学校の頃に離婚。母親の彼氏と三人で暮らしていたそうだ。初体験はその人だったらしい。高校を卒業後、家出同然で東京に出て来て、大学時代からずっと一人暮らしということだった。東京ではバイト先の人と交際したりして、経験人数は三十人以上らしかった。

 友達もおらず、ちゃんとした彼氏がいたこともない。大体が二股、三股を掛けられていたということだ。俺と似たようなタイプなのかもしれない。

 ちょっと変わっていたとしても、せめて、二十代だったらと思わないこともなかった。四十くらいになると男も女も軌道修正が不可能になる。俺はそろそろ別れ話を切り出したいと思っていたが、女が有無を言わさない感じなので言い出せないままだった。


 しかし、次第に気付いたのは、女は俺と付き合っているつもりらしいということだった。好きだと言って来たり、俺の家に来たいとか、別荘に来ないかと誘われるようになった。もちろん断った。


「俺たちは最初から割り切った関係だから、君を好きっていう感情は俺にはないよ」

 俺は何度もそう伝えた。

「いつか変わってくれるのを待つ」

「無理だよ。俺は誰も好きにならないから。しつこいの嫌なんだよね」

 俺はそう答えた。


 しかし、女はしつこいし、俺も週末暇だったから、誘われると家に遊びに行っていた。


 ある晩のこと、俺がベッドの中で賢者モードになっていた時だった。女がさっきからしつこくまとわりついて来ると思ったら、いきなり面倒なことを言い始めた。

「江田さんって子ども好き?」

「どちらかというと嫌い」

「私は…たまにかわいいと思うんだ」

「そうなんだ」

 この年代の女性と子どもの話をすると、そろそろ出産が年齢的に厳しくなるから、産みたいという流れになることが多い。

「でも、子どもができたら、お父さんがいた方がいいと思うんだよね…かわいそうじゃない?」

「でもさ、君、結婚願望ないんだよね?」

「でも、時々、結婚出来たらいいなって思うとこもあるんだ」

「あ、そう。じゃあ、他の男探せば?」

 俺はベッドから起き上がった。

「待って!帰らないで!」

 女は泣き叫んだ。

「ごめん!」

 結婚願望がないと言っても、女は相手に情が移ってしまうものらしい。俺は構わずに服を着始めた。

「じゃあ、もう結婚の話なんかしないでくれる?明日、用事があるから、俺は今日はもう帰る」

 俺は服を着て出て行った。そろそろ、きちんと話さないといけない。潮時だ。このままにしておくと、ストーカーになりかねないタイプだ。俺たちは二カ月くらい続いていたけど、彼女にとってはそんなに長く付き合ったのは初めてだそうだ。俺が優柔不断だったお陰で、いつの間にか特別な存在に昇格してしまったらしい。


 俺はタクシーを拾って家に帰った。俺がタクシーに乗っている間も、ずっとLineが鳴り続けていた。


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