第3話
● ● ●
それが夢であることは明らかだ。
なぜなら、自分たち母子(おやこ)を捨てて京へともどった父が眼前にいたからだ。息子はふたり、娘はひとりいたにもかかわらず、彼らが切支丹の信仰を捨てて畿内にもどることを拒むと父、勘解由小路在昌(かげゆこうじあきまさ)は躊躇しなかった。
「なれば、わたしだけで京にもどる」
と宣言したのだ。
なぜ、そんなことができる、とメルショルは目が眩むほどの怒りに駆られかえって怒鳴ることすらできずに静かな声でたずねる。
「わたしが天竺宗の門徒となったのは、あくまで伴天連の持つ天文の知恵を欲っしたからだ。それは京にいた頃から変わらぬ。なに、習いに反するのは一度ではない。陰陽道の大家の者が切支丹となったのだ、されば宗門を捨てることもまたできぬことではない」
父の冷静な声は、天の理は信じても神仏は無論、伴天連の神デウスを崇拝していないことはあきらかだった。それどころか、心根までも信仰に染まった妻子に憐れむようなまなざしを向ける。
「わたしの読みでは、大友家はいずれ没落することとなる」「何をたわけたことを」
メルショルは嘲笑を浴びせた。
神を信じられないのは百歩ゆずって理解しよう。この乱世のこと、神にすがらねばやっていけない一方で、一向に御利益を発揮しない神仏に対し失望する者は多い。それが“新たな神”デウスへの信仰者が増える一因でもあった。
しかし、大友家の巨大さは目に見える。鎮西一の太守だ。その家中の大きさは日の本でも有数のものだ。
また、大友宗麟は織田信長に早くから名盆を贈るなどして通じる先見性を持っていた。それは切支丹の庇護の事由のひとつでもある。煙硝の入手のために伴天連を利用している側面も事実だ。
確かに家中に内紛、火種を抱えているがなにもそれは大友家だけではない。鎮西における大友家の敵といえば、“肥前の熊”龍造寺隆信、あるいは薩摩の島津家か。だから、この奴輩の力など大友家には遠く及ばない。もっと強大な近隣の敵である毛利家は織田家と争っている最中だ。しかも稀代の英傑、毛利元就はすでにこの世の者ではない。
「いま、こうして信じるものの違いから我らは“割れて”おるではないか」
自嘲するような笑みを在昌は浮かべる。
瞬間、メルショルは理解した。父はこう言いたいのだ、同じことが大友家で起こりやがてそれが深刻な事態を招くと。
だが、そんなことより彼は父の身勝手さに腸(はらわた)が熱く熱く煮えた。
元々、そういう人間だった。京で仏門の者と天文の知識を巡って衝突し、京洛にいられなくなるや妊娠しているにもかまわず妻を連れて“もはや学ぶべきもののなくなった京に用はなし”とばかりに飛び出したのだ。
そして今度は、南蛮から学ぶべきものがなくなり鎮西を、それも一家の反対を押し切ってはなれるという。
京では在昌を陰陽頭(おんみょうのかみ)の地位が待っている。乱世となり公家は力を失って久しいが、逆に不安の大きな世の中では呪いや卜占の類はよりいっそう必要とされる、ために私事で懐に入る金子はなかなかのものだ。
「それにな、織田信長公は尋常ではない」「織田?」
いきなり父が持ち出した名前についていけずメルショルは眉をひそめた。そんなやり取りを母と妹は諦めの表情で、弟は呆然と聞いている。
「おそらく、あの屋形は“天下布武”の言葉の通りのことをなしとげるであろう」
そういえば、父は信長と会ったことがあるのだ、とメルショルは思い出した。だがそれにしても、
「この麻のごとく乱れた天下を元は尾張の守護家の陪臣が統べる? 父上はまこと、頭患(つむりわずら)いになられてしまったようだ」
メルショルの嘲笑は深まるばかりだ。その表情は心の底からのものだ。知識を欲する者が愚鈍に陥ることほどの悲劇はないだろうと、いっそ父のことがとても憐れにすら思えてきた。
「どう受け取ろうが構わぬが、大友家はまずいずれは敗れようし、そののちには山陽道、山陰道を攻めしたがえた天下の覇者が鎮西に攻め寄せてくることになろうて」
しかし意に介さず父、在昌は言葉をかさねる。そこにあるのは京(みやこ)を出奔するに至るまで、そして今日まで変わっていない一貫した姿勢だ。腹は立つがその一本気さは認めねばなるまい。敬う気にはみじんもなれないが。
そして後日、宣言通りに宗門を捨てて鎮西から姿を去っていった。
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