第四章 悪意の夜会(※第一部 完結章)

一緒に眠りたい


「うう、また起きれなかった……」


 チュンチュンとすずめの鳴き声が響く、気持ちのいい朝。

 しかしトモエはため息をついていた。

 すでに冬夜は出発した後で、家のどこにもいない。


(せめて行ってらっしゃいませって、言いたいのに……)


 冬夜のために何かしたい。

 そう思い始めてから、トモエはせめて自分にできることを、と小さなことから始めようとしていた。

 一番簡単なことは、挨拶をすること。

 けれど朝の挨拶をして、見送りをするというただそれだけのことが、トモエには難しかった。


 冬夜の朝は、それこそ鬼のように早かったからだ。


     *


 鬼道家での日々は、とても穏やかにすぎていた。

 あのバルコニーでの一件以来、冬夜はさらにトモエに甘くなった。

 いや、今まで気づいていなかっただけで、冬夜はずっとそうだったのかもしれない。


 日中は基本的に留守にしているが、帰宅してからの時間は、それこそ全てトモエのために使う勢いだった。

 毎日トモエの食事に気遣い、何をしたのかを一日の終わりに全て聞き取る。髪を乾かして、トモエが眠るまで必ず一緒にいてくれた。

 トモエは冬夜がいると、なんだか安心してすぐに眠くなってしまう。

 桜狐家にいたときのように、虐げられないとわかっているからなのだろうか。


 トモエはせめて妻らしく、出発の見送りと、出迎えくらいはしようと心に決めていた。

 しかし冬夜の朝は早すぎる。

 トモエが眠ってからも、仕事場から持ち帰った書類を捌いたり、家政について聞き取りをしたり。さらにはどんなことがあっても必ず新聞には目を通し、帳簿や株式の目録を確認していた。


 一体どこにそんな体力があるのか。

 出立の時間から逆算すると、冬夜は下手をすれば、二、三時間程度しか眠っていないことにトモエは気づいてしまった。


 トモエはせめて見送りをしたくて、起こしてくれと頼んだが、冬夜は頷かなかった。


「あんたはゆっくり寝てろ。何もしなくていいんだよ、別に。出迎えだけあれば嬉しいけどな」


 何もしなくていい、というのが、冬夜の口癖だ。

 何かをしようとするたびそう言う。

 最初に聞いた時は、それはトモエを疎ましく思っての発言だと思っていた。

 けれど今は、トモエの体を心配しての発言だということを、トモエはよく理解していた。


     *


 その晩、トモエはいつものように髪を乾かしてもらった後、ベッドに腰をかけた。

 眠る前に、こうして冬夜と話すのだ。


「今日も見送りができませんでした」


「いいって言ってるだろ」


 隣に座った冬夜が笑った。

 早朝に、行ってくる、と囁かれて、額に口付けを落とされたことは覚えている。しかしあまりにもまぶたが重くて、ひたすらムニャムニャと言葉にもならい声を発しただけに終わってしまったのだ。

 それを見て、冬夜が小さく笑っていたのが、恥ずかしい。

 そのまま眠ってしまって、見送ることはできなかった。


「でも、冬夜様、私何もあなたの妻らしいことをしていません」


「してるだろうが、十分」


 そう言って、熱っぽい視線を向けられる。

 唇を指でなぞられて、トモエは慌てた。

 まだ話は終わっていない。


「あ、あの……その、そういうこと以外というか……」


「必要ない。十分すぎる」


 冬夜はそう言って、トモエの手を握った。


「今はただ、体をやすめてくれ。もう少ししたら、結婚式のことも考えよう」


「えっ?」


 トモエは驚いてしまった。


「……式はしないのでは、ないのですか?」

 

 そう言うと、冬夜は眉間にしわを寄せる。


「そんなわけないだろうが。どこに式をあげずに嫁ぐ令嬢がいるんだよ」


「で、でも、私たちの結婚は……」


「あんたの体調のことを考えて、先に籍だけ入れたんだ。とにかく、一刻も早く、あんたを手元におきたかった」


 そう言われて、トモエは赤くなった。


(ただ力が欲しかっただけなのかもしれないけど……必要とされる、ということは、こんなにも嬉しいことなんだ)


 それにしても知らなかった。

 そんな事情があったとは。


「俺も今は忙しいしな」


 冬夜は申し訳なさそうにそう言う。


 冬夜の忙しさは凄まじかった。

 独立特務隊は陸軍管轄下にあるが、規律は少しゆるめだ。

 本来は兵営で寝起きし、そのまま点呼や訓練に立ち会うのが一般的だが、冬夜は自宅へ戻ることを許可されていた。

 それがまた、冬夜の忙しさに拍車をかけているのではないかとトモエは思うのだ。


(私のために、家に帰ってきてくれているのかな。私がもっとしっかりしていれば、帰ってくる必要はない……?)


 冬夜は兵営にも自室がある。その部屋と家を行ったり来たりしている状態だ。

 しかしトモエがこの家をしっかり管理していれば、少なくとも平日は冬夜は向こうで暮らすことができるのだ。


(でも……でも、それだと私が、冬夜様に会えない……)


 毎日夜の時間を過ごすことは、トモエにとって、すでに楽しみに近いものになっていた。

 会えないことを考えると、胸がちくりと痛くなる。


「トモエ?」

 

 悩んでいると、冬夜に指で顎をつい、と持ち上げられた。


「何を悩んでいるんだ」


 言えば迷惑になってしまうだろうか。

 そう思うものの、冬夜は口をつぐむことを許さなかった。 

 仕方なく正直に話すと、冬夜はうなるように言った。

 

「家でこんなに癒されるとわかっているのに、誰があんなむさくるしい場所で寝るものか。気がやすまらん」


「で、でも、少しでも眠った方が……」


「これに関しては、間違いなく家に戻った方がいいから大丈夫だ。大体駐屯地はここから車で二十分くらいじゃないか」


 安心させるように、冬夜はトモエの頭を撫でた。


「トモエの寝顔を見ながら出発するのが趣味なんだ。むにゃむにゃ言っててかわいいしな」


「〜っ!」


 トモエは恥ずかしくて、顔を真っ赤にしてしまった。

 寝起きというのは、自分でもコントロールできず、意味不明なことを言ってしまうものだ。


「それとも、俺に帰って来てほしくないのか?」


「! ち、違います」


 トモエはぶんぶんと首を横に振った。


「私のせいで冬夜様を疲れさせたくなくて……でも、その、あ、会えないのも、嫌で……」


 わがままでごめんなさい、と言うと、冬夜は何かをこらえるような顔をした。

 それからトモエはベッドに押し倒される。


「頼むから、煽らないでくれ」


 トモエは不思議だった。

 口付けをするとき、冬夜はいつも、苦しそうなのだ。

 始まる前も、終わったときも。

 むしろ終わった後の方が苦しそうなのは、なぜなのだろう?


     *


 今日も終わった後は、やはり苦しそうだった。

 トモエだけを寝かせて、自分はベッドに腰をかけているだけだ。

 何かをこらえるように、組んだ手に額を乗せている。その表情は硬い。

 疲れてしまったのだろうか?


「冬夜様……」


 眠い目をこすって、つい、と冬夜の浴衣の袖を引っ張った。


「あの……一緒に眠りませんか?」


 苦しそうな冬夜を助けたくて、トモエはそう提案した。

 大体、ここは夫婦の寝室なので、トモエと冬夜は一緒に寝るべきなのではないか。

 そう思っていたのだが、冬夜の寝室は別にあるようで、あまり言い出せなかった。


「トモエ……俺が今こんなに頑張っているのに、あんたは……」


(が、がんばって……?)


 一体何の話かとトモエは戸惑う。


「そ、それならなおさら、ここで眠っても大丈夫ですよ……?」


 ぽふぽふと自身の隣をたたく。

 どちらかと言えば、トモエがそうしてほしかったのかもしれない。

 トモエの声はどこか駄々をこねる子どものようになってしまった。

 

「いや、ちょっと待ってくれ本当に。そ、それだと死ぬかもしれない」


「し、死ぬ……!? だ、誰がですか」


 トモエは焦った。


(わ、私の寝相が悪いってこと?)


「いや、すまん、俺の問題なんだ。我慢しすぎて一睡もできない上、下手をしたらあんたを……」


(何を我慢するの?)


 ますます分からない。

 しかし、とにかく一緒には眠れないのだとトモエは理解した。

 冬夜は神経質なのだろう。

 しんどいときに静かに一人で眠りたい気持ちは、トモエもよくわかる。


「……わがままを言ってしまってごめんなさい」


 目に見えてしょんぼりしてしまったトモエを見て、冬夜は何とも言えない表情でため息をついた。

 それから諦めたように、トモエを撫でる。


「……わかったよ。だが、医者の許可をとってからだ」


「?」


(な、なぜ一緒に眠るだけで、医者の許可が……?)


 トモエは冬夜が何をそんなに迷っているのか分からなくて、首を傾げた。


「念の為だ。ちょうど明日は通院日だろ。車を出すから、昼前には出れるよう準備しておけ」


「!」


 トモエは驚いた。

 冬夜の言うように、確かに明日は通院日だ。

 しかしトモエはいつも通り、一人で行こうかと考えていたからだ。


「一緒に行ってくださるのですか?」


 驚いたようにそう言えば、冬夜は眉を寄せた。


「どこの世界に、妻を一人で外に放り出す男がいるっていうんだ? それにあんたの治療方針も詳しく確認しないと」


 冬夜は呆れたようにトモエを見た。


(いつも一人で行っていたけれど……)


 トモエの通っている病院は、ここからはかなり離れた郊外にある大病院だった。そこへいつも、嫌味を言われながらお金だけを渡されて、一人で通っていたのだ。

 病院に一人で行くのは心細くて、いつも憂鬱だった。


(冬夜様に、あの発作のことがバレないといいけど……)


 不安に思っていると、冬夜がトモエを撫でながら言った。


「元気があれば、帰りに街に寄っていかないか?」


「……街に?」


「ああ。家にいてばかりじゃ退屈だろう。せっかくだから、あんたの好きなところによろう」


(好きなところ、というのがあるのかもわからないけど……)


 トモエは家と病院の往復だった。

 それ以外は、外出を許されず、ずっと家にこもりきり。

 小さな頃は両親とデパートに行った覚えもあるのだが、もう記憶もおぼろげになっている。


(こ、こういうのって、デートっていうのかな……)


 病院は憂鬱だったが、それでも、冬夜と一緒に街を歩けるのは、楽しそうだと思った。ゆっくりとトモエの胸に喜びが広がっていく。


 不思議だ。

 冬夜がついているだけで、嫌だったことも幸せなことになるのだから。


 

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