第二章 結婚生活の始まり
見知らぬ家
幼い頃の夢を見ていた。
入退院を繰り返していた頃の夢だ。
両親も帰ってしまった真夜中、熱で眠れず、コムギを抱えてベッドで泣いていると、病室の戸から小さく光が漏れた。
巡回の看護婦かと思っていたが、こっそりと入ってきた人を見て、トモエの涙はすっかり引っ込んでしまった。
「──くん!」
思わず声をあげると、しっと人影は唇に指をあてた。
トモエより、もう少し大きな男の子だった。
厚く掛かった雲から月が顔を覗かせる。
月光が照らし出すのは──……。
*
「……?」
まぶたをゆっくりと開けると、見慣れない天井が目に入った。
こんなに目覚めがいいのはいつぶりだろう。
深く、ぐっすりと眠ったあとの、自然な目覚めだった。
心なしか、体もいつもより軽い。
「え……?」
ほどなくして、その原因がわかった。
トモエは、ずいぶんと柔らかなベッドの上で眠っていたのだ。
いつも擦り切れて薄くなった煎餅布団で眠っていたから、違いがすぐにわかる。
広いベッドの上で、トモエは呆然とした。
「……ここ、どこ?」
その部屋は洋室だった。
天井は見たこともないほどに高く、広い部屋には柔らかなカーペットがしきつめられている。
大きな窓からは明るい光が降り注いでいた。
ふと自分の格好を見れば、いつの間にか重い着物は脱がされ、清潔な襦袢を着せられている。
(そうだ、私、魔性に襲われて……)
思わず頬をつねってみる。
一瞬、ここが俗に言う天国なのかと思ったが、しっかり痛みはある。
生きているのだろう。
(そういえば、あの男の人……)
魔性に襲われる直前、トモエは確かに、誰かに救われたのだ。
(あの人は、大丈夫だったの……?)
不思議と不安な気持ちに囚われなかったのは、彼がとても強い男だと肌で感じていたからだろう。彼の持つ力は、素人のトモエでもわかるくらに圧倒的だった。
力というのは、腕力や、肉体的なもののことではない。もちろん彼はそういう意味でも強かったのだろうが、トモエが感じていたのは、彼の純粋な霊力の高さだった。
(一体、どこの誰だったんだろう)
それにしても、今の状況はよくわからない。
病院とも違うようだし、ここは一体どこなのだろうか。
おそるおそるベッドから降りてみる。
ふわふわしたカーペットの上を歩いて、窓に近づく。
眩しい光に目を細めながら、窓を開け放った。
「!」
視界いっぱいに光が満ちる。それから、鮮やかな世界が目の前に広がった。
どうやらここは、洋風建築の邸宅の二階のようだった。
地面を見下ろすと、石畳のアプローチがまっすぐ門へと延びており、その先には木々に縁取られた通りが見える。
門の脇には、幅の狭い小川がさらさらと流れていて、苔むした橋がそっとそれを跨いでいた。さらにその向こうには、こぢんまりとした林が広がり、風に揺れる葉音が涼しげだった。
「すごい……」
市街地の方では味わうことのできないみずみずしい空気に、思わずトモエはため息を漏らした。
真下は、よく整えられた前庭だった。
朝の光を浴びて花がきらきらと輝いている。
石畳のアプローチの両脇には、低く刈り込まれたツゲの生垣が並び、その合間には彩り豊かな夏の花々が咲き誇っていた。
(……? あれって……)
ふと、奇妙なものが視界を横切った気がして、トモエは目を擦った。
庭を何か、小さな生き物たちが駆け回っているのだ。
犬や猫かと思ったが、それにしても奇妙な形をしている。
(まさか、勿怪?)
夢中になって外を眺めていたせいで、背後に人が立っていることに気づかなかった。
低い声が、トモエの耳をかすめた。
「おいおい、飛び降りるつもりか?」
「へ? ……きゃっ!」
ぐい、と急に腰をひかれて、引き寄せられた。
驚いて上を見上げれば、不機嫌そうな顔の男と目があった。
「! え、あ、あなたは……!」
トモエは驚いて、目をまんまるに見開いた。
「昨日の……!?」
トモエの腰を抱き寄せていたのは、昨晩、トモエを魔性から救った軍人の男だった。上着を脱いでラフな格好をしているが、その美しい顔は見間違えようもなかった。
なぜそんな人が、ここにいるのか?
もしかして、トモエを助けて、ここまで連れてきてくれた?
そんなことを思っていると、男は呆れたようにため息をついた。
「俺の妻は随分と好奇心旺盛なようだ」
「つま……?」
何を言っているのか、さっぱり分からない。
その態度に、男はまた苛立ちを加速させたようだ。
トモエはどうしていいか分からなくなって、おろおろと尋ねた。
「あ、あの、昨日は本当にありがとうございました。それで、その、失礼ですが、あなたは……?」
男はむすっとした顔で答えた。
「……鬼道冬夜。あんたの夫」
お、おっと?
この人が?
トモエの?
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