火蛾屋敷の熾し鬼

一葉 小沙雨

火蛾屋敷の熾し鬼

 赤い梅と赤い桃と、あぁそうだ、牡丹や椿、躑躅はないかい。色は赤だよ。ウンと真っ赤なやつにしておくれ。あの子は繭のように真っ白だから、……いいや、繭以上だから、赤過ぎるくらいが、丁度良いンだよ……。

 鬼の気配が色濃く残る時代。

 やけに派手な着物を着た背の高い女が、花市で赤い花ばかりを選んで買っていく。たまに、「ちょっと嫌な白だけど、マァあの子の引き立てにはちょうど良いわね」なんて言って、大層高価な白い切り花も買っていく。

 他に赤い花はないかと聞いてくるので、花屋の若い男は、少しお時間を戴ければ海外から『薔薇』という赤く珍しい花が入りますよと教えると、女は聞くなり迷いもせず、

「じゃ、それも」と即決して、何の躊躇いもなく大枚をはたいた。

「随分と沢山ですね。何か祝賀事ですか」

 お代を受け取りながら、不思議に思った花屋の若い男が聞くと、女は「祝賀事?」と眉を上げて、どこか勿体ぶった様子で男へと聞き返した。

「そうサねぇ……。祝賀事というより、『まつりごと』さ」

 女は何故か鼻を高くしてそう答えると、「じゃ、夕刻までには全部届けてちょうだい」と言いつけて、下駄を鳴らしてさっさと去って行ってしまった。


***


 花屋の若い男……彼は赤ん坊の頃、店先の木槿の木の下に捨てられていたので『ムクゲ』と呼ばれている……は、昼過ぎに入った薔薇の花を、女の元へ送り届ける仕事を自ら買って出た。

 あれほどの高値の赤い花(しかも種類に脈絡が無い)を用いる『まつり』とは、一体どのようなものかとムクゲは内心で心躍らせながら、溢れんばかりの赤い花を積んだ荷車を牽いて伝えられた届け先へと赴いた。

 町から大分外れて行き着いたのは、どこか遊郭のような雰囲気を漂わせる、やけに絢爛な雰囲気漂う大きな屋敷だった。建物の中から男女の煩多な、それでいて陽気な声が聞こえてくる。

 ムクゲは遊郭にまだ赴いたことがない。そもそもそうやって遊べるほど、ムクゲを養ってくれている花屋は金回りの良い店でもないのだ。

 ムクゲは慣れない屋敷の雰囲気に少しどきどきしながら門を叩く。そして女中を呼ぶべく声を上げた。

「もし。今朝方頼まれました花をお持ちしました」

 そして暫し待ってみたが、しんとして誰も来ない。聞こえてくるのは先ほどからの忙しく陽気な声々だけだ。

 ムクゲはもう一度声を張り上げてみた。

「もしもし! あのぅ、花屋ですが!!」

 今度は大分大声で呼んだというのに、しかし誰も出てこない。陽気な声はますます愉快さをましている様に感じた。

 この調子だと何度呼んでも出て来なさそうだとムクゲは考えあぐねる。

 もうそろそろ日も沈みかけている。空が紅色だ。ムクゲは困り果てた挙げ句、薔薇の花の束を持ち門をそっとくぐる。頼まれた花束を持っていれば言い訳も立つだろうと考えたのだ。

 ムクゲは屋敷の脇の庭先まで入って、もう一度屋敷内へと人を呼んでみることにした。

「もしもし! 誰かいらっしゃいませんか!」

 しかし屋敷の中は、聞こえている陽気な声々とは裏腹に、人らしき気配がまったく見えなかった。

 屋敷全体はやけに赤の灯りやら装飾やらで照り映えているというのに、人の影はとんと見当たらない。それどころか足音や、戸の開け閉めの音すらも聞こえてこない。あるのはただひたすらに先ほどから、どこからか聞こえている陽気な声々だけだった。ムクゲはここで初めて不気味さを感じ、ぞくりと自分の背筋が粟立ったのを感じた。

 ……よくよく見れば、屋敷自体も変わったなりをしていた。

 何せ、障子の紙まで赤色に染めた紙を使用している徹底ぶりだった。柱は漆の朱塗で、それにもまた贅沢に彫りが施してある。

 屋敷内だけでなく庭や軒先にも、至る所に様々な赤い花が所せましと植えられたり、飾られていたりしている。

 とにかくどこを見ても真っ赤だ。豪華絢爛な、燃えるような赤色。それは気が狂いそうなほどに、眩暈を起こしそうなほどに。

 自分を成している色の方が、この屋敷の中では何やら異端で不浄な色のように、感じてしまいそうなほどだった。

 しかし確かに豪華ではあるが、度を超し過ぎている。明らかにおかしな屋敷だった。

 これほど派手に異常の態を成しているというのに、なぜ自分はその異常さに今まで気が付かなかったのか……。大体、これだけ大きな屋敷に人の姿が一人として見受けられないのもおかしい、とムクゲは徐々に屋敷の奇怪さを認識し始めた。

 ……だが。

 ムクゲは一人奇妙に思う。


(――否。何故だか、)


 何故だか、足を踏み入れたときにはこれが……、この赤過ぎるほどの赤が、通常だと。

 特に豪華絢爛な赤でもなく。

 特に異様さを感じる赤でもなく。

 至って通常の。ひょっとすれば通常以下の。

 何も恐怖するほどの赤に、ムクゲには見えなかったし、感じもしなかったのだ。


(これほど明らかに異様だというのに……!)


 ムクゲはこの屋敷の何かに、自分の感覚が狂わされたことを急に実感した。

 鬼か何かの屋敷に紛れ込んでしまったのだと思った。

 昨今では、鬼に魂を喰われたといった類の話をよくムクゲも耳にする。

 恐ろしい鬼に襲われて、死体も残っていないといった人間が、ムクゲの知人にも少なからずいた。

 

「早く、ここから出なければ……」


 震える足で後退ろうとしたが、恐怖を認識した途端に足が上手く言うことを聞かない。

 それのせいで余計に気が動転してしまって、足が縺れてしまいムクゲはその場に無様に尻餅を付いてしまった。


「ぎゃ……っ」


 尻餅を付いた衝撃に、ムクゲは花束を手放し情けない声まで上げてしまった。その短い叫び声は、陽気な声だけが蔓延する屋敷に異様に響き渡った。

 すると男の声が響いた途端、屋敷内を支配していた陽気な声々は突如、しん……、と、盆上の真砂を吹いたように、一気にかき消えた。

 かわりにどこからか落ちてきたのか、屋敷内から、ころころころころ、と、赤い林檎の実が一つ、軒先に転がってきた。

 転がってきた方をムクゲ見てみても、そこに人影らしきものは見当たらない。

 視線を戻して林檎を見ると、なんと林檎には表面には繊細な模様が描かれており、その果実はまるで飾り鞠のような鮮明な美粧に包まれていた。

 それだけならばその精巧さに感心するだけで終わったものを……、次の瞬間にはその林檎の赤い模様が蠢いて、まるでムクゲを威嚇するかのように火がおこって火達磨と化したのだ。

「ひ……っ!」

 美しい模様の林檎は一気に炭になって姿を崩した。ムクゲは驚き、まだ抜けたままの腰で三度後退った。

 屋敷の中の方から、くすくすとムクゲを嗤うような声が聞こえる。

 間違いない、ここはあやかしの屋敷だ。ムクゲは焦げた果実の匂いを感じながら確信を抱く。

 早くこの屋敷から離れなくてはと焦るが、ムクゲの身体は玉砂利の上をもがくだけで、なかなか立ち上がるための力が入ってくれなかった。

 この屋敷はおかしい。この世のものではない。

 ムクゲのの目にはすでに、屋敷のてらつくほどの赤色だけで恐怖の源だった。

 言うことを聞かない自らの足を疎ましく思いながら、ムクゲは早くこの場を退散したくて足に力の入れる。

 このままでは、赤色に呑み込まれてしまう。目の前で炎に呑まれた果実のように、ムクゲ自身もひと呑みで無惨な姿に変えられてしまうかもしれない。

 屋敷で唯一の白色を保った石地が、ムクゲの足や手に掻き回されて、静まり返っていた屋敷に音を立てて騒いだ。

 がちゃがちゃがちゃがちゃがちゃ。

 玉砂利がいくら笑いさざめいても、屋敷に響いていた陽気な声は一度嗤い声が聞こえた以外は、一向に静かなままだった。

 誰か、誰かいないのか。誰か、誰か、誰か助けてくれ。

 ムクゲが玉砂利に手足を滑らせて、まるで石の沼地にでも嵌ったかのように立ち上がれないで、騒がしく音を立て続けていると。


――そこに、だれか。


 すると今まで誰の姿も見えなかった屋敷の奥から、なめらかな冷花弁のような声が、ムクゲの鼓膜にするりと届けられた。

「……だれか、いるの」

 玉砂利の騒ぎ声は、その声差しにムクゲが身体を強ばらせたために、一旦静かになった。

 衣擦れの音と共に屋敷の奥から現れたのは、まだ年端も行かない一人の子供だった。

 ……赤く、この上なく豪奢な着物を身に纏った、輝かんばかりの白い肌と白い髪をした、あどけなくも、妙に美しい、子供だった。

 ムクゲはその子供の余りの美しさに、思わず背筋に氷水を流し込まれたような感覚さえ覚えた。

 霞のように輝く目を縁取る睫もまた淡雪のように白く。子供がゆるりと瞬きをする度に雪の降る音が聞こえてくるようだった。齢は、十二かそこらだろうか。

 ただムクゲには、その子供が少女なのか少年なのか判らなかった。あどけない顔つきではあったが、やけに老成した気色を帯びていた。大人しくしっかりとした少女にも見えるし、聞き分けの良い落ち着いた少年のようにも見えた。

 着ている着物は女物のようだが、重ねも何もちぐはぐで、ただ纏っているというだけのようだった。

 輝く白の髪を纏った頭の上には、豪奢な着物に負けないくらいに真っ赤な色をした、不思議な花が添えられていた。千重咲の珍しいそうな花である。ムクゲは花屋であるにも関わらず、その不思議な花の名前が判らなかった。

 それよりも、ムクゲは特別に子供が好きという訳ではないにも関わらず、その白い子供の姿が自分の目にひどく妖艶に映ったことの方が不思議だった。

 一瞬鬼の子かとムクゲは疑ったが、それにしては優しげな雰囲気を帯びている。

「だぁれ」

 子供を凝視したまま凍り付いていたムクゲは、子供の問い掛けにハッととなって我に返った。

 そしてなんだか急に、自分がひとりで慌てふためいていたのを恥ずかしく思った。

 そもそも鬼というものは見るも恐ろしい姿をしていると聞く。


(ましてや、このような幼気な子供が鬼などと……)


 ムクゲは自分の肝の小ささを恨みながら、みっともなく尻餅を付いたままへたり込んでいた身体を慌てて起き上がらた。

 落としてしまった花束も拾い上げる。

 先ほどまでちっとも動かせなかった足だというのに、子供を前にした途端まるで嘘のように身体の石化がほぐれて、すんなりと立ち上がることができた。

「た、頼まれていた……薔薇の花を……お、お持ち……しました……」

 それでも凍り付いた名残が残っている舌で、ムクゲは白い子供にそう伝えた。

 しかし目の前の白い子供は、ムクゲの言葉を聞いて不思議そうな気色を滲ませた。

「は、花屋……です」

 男は焦ってそう付け加えると、白い子供は、はなや、と目を伏せて音のままに繰り返した。

 そして、目線がムクゲの持った大きな花束へと辿り着くと、子供はそこでようやく合点がいったようで、

「……そう、」

 と、一言だけを口から零した。

 その余りにも短い返事にムクゲは戸惑ったが、子供が両の手を伸ばして受け取る仕草を見せたので、急いで子供の手元へと近寄って花束を差し出した。

 着物の袖からゆらゆらと伸びた子供の手もまた白く、そしてか細く、丁度赤い袖から真っ白な花が伸びているようだった。

 ムクゲは妙に震える手で子供へと手渡したが、子供は何故か受け取った瞬間に息を飲むような小さな悲鳴を上げ、手渡された花束から手を引っ込めてしまった。

 空中で支えを失った花束は地面に引き寄せられて急直下する。それは敷き詰められた白い玉砂利に叩き付けられて、地面に勢いよく朱墨を落としたかのように散らばった。

 高価な薔薇の花が、いともあっさりと徒となった。

 ムクゲはまた不思議に思った。この薔薇の花は、まだ切ったばかりで、枯れかけてもいないし、萼も弱っていない。それなのに、地面に落ちた途端に、まるで水の塊でも弾けさせたかのように、玉砂利の上で花弁が散ったのである。

 ムクゲは玉砂利の上に作られた真っ赤な花弁の水溜りを見ると……、何だか急に頭がぼうっとしてきて、熱でも出てきたような感覚に陥った。

 くらくらとしたままの頭で再び赤い水溜りを視認すると、今度は妙な、疑念や恐怖とは別の感情がムクゲの頭を支配し始めているのを感じた。

 普段なら高価な花をここまで台無しにすれば、仕事柄とてつもない自責と後悔の念に苛まれるというのに、今はどうにもそのような気分にならなかった。それどころか、花は形を潰してしまったが、これを台無しにしてしまったなどと、何故か思うことができなかった。

 自分でも解るほどに、ムクゲは自分の思考がおかしかくなっていることに言い知れぬ恐怖を感じた。いつものように感情が働かないのだ。それどころか反対に、自分は至極正しいことをしたのだと、突飛な思考さえ浮かび上がってきたのだ。

 ……これだけ赤ばかりの屋敷の中で、地面の玉砂利だけは唯一、白を保ったままだったのだ。そう、きっとこの屋敷の者は、薔薇の花を、こういう使い方にするはずだったに違いない。

 玉砂利の上でたゆたう薔薇の花弁の赤さと、平常の狼狽心に挟まれてくらくらくらくらとしながら。ムクゲは徐々に、自分の思考が赤色に支配されてしまっているのが解った。

 目線を上げると、子供は自分の右の手の平をじっと見詰めていた。その手の人差し指から指の付け根辺りまで、引っ掻き線のように傷が付いてしまっていた。どうやら花の棘で傷付けてしまったらしい。

「し、しまった、棘落としはやっておいたはずなのに」

 大丈夫ですか、とムクゲは狼狽えて子供に問うたが、とうにその声はムクゲ自身が発したのではない、別の誰かのそれのように自分の耳に響いていた。

 ……白い子供の、傷付いた人差し指から真っ赤な血が、白磁のような手の腹を這って、流れ出ているのだ。椿を添えた白い髪に覆われた玉容の口の穴から、やわらかく色付いた舌が、珠となって流れる指の血を、舐めているのだ。

 唇に擦り付いた生血が、てらてらと光って、艶めかしい朱色を、強調しているのだ。

 その様子に、ムクゲは、ずっと自分の中で誤魔化し続けていた恐怖心が、たちまち大きく肥大して、……肥大し切ってしまって、溢れ出てくるのを最早止められなかった。

 ムクゲは恐くて恐くて仕方がなかった。目の前のこの白い子供がとにかく恐かった。子供の何が恐いのか、ムクゲにははっきりと解らなかったが、とにかく恐怖してしまって、息がどんどん上がってきてしまうほどだった。

 逃げようと思った。逃げなければならないとムクゲは強く思った。

 しかしそれなのに、ムクゲはこの白く綺麗な子供の一挙一動から、目が離せなかった。目が、この子供の白く燃えるような綺麗さを欲して、まるで視覚に食思が働いたかのように。

 もっとこの子供の綺麗さを賞味したいと。

 もっとこの子供の美しさを食わせろと。

 目が、手前勝手を言って、きかないのだ。

 そしてそれは徐々に、ムクゲの中の恐怖に浸透していって、恐怖をまた違うものへと昇華させようとしているのが解った。

 昇華させてしまってはいけなかった。逃げなければいけなかった。

 目の前で指を舐めていた白い子供が、恐怖で動けなくなってしまっているムクゲへと、ふと目を向けた。

 かがやくような子供の、仄暗い瞳に射竦められ、ムクゲはびくりと肩を跳ねさせた。髪も肌も手も、姿形どれも綺麗だったが、瞳が一段と綺麗だった。

 逃げなければいけない。これ以上この瞳を見ていたら、きっと呑み込まれてしまう。これ以上この子供を見ていたら、目が、自分が、まるで火蛾のように巻き込まれてしまう……!!

 ここで逃げなければ……。

 ムクゲが動かない足をどうにか一歩動かそうとしたら、しかしその時ちょうど、白い子供がまた、すぅ、と、両の腕を男の方へと伸ばしてきた。

 差し伸べてきた手はそのままゆっくりとした動作で、ムクゲの首や両頬の辺りに迫り、ムクゲは片足の踵を浮かせたまま、その自分の頬の辺りでゆらめく妖花の手の冷たい気配に、結局意識をからめ捕られてしまった。

 傷口で凝固していた血が割れて、鮮血が再び珠を成して指先を伝ってぼたぼたと、ムクゲの肩の上に落ちた。

 

(――……ああ、いけない、)


 ムクゲの中の何かが、最後の警告を発した。


「お……おまえは……」

 ムクゲが乾いた喉から必死に声を絞り出したその時、


「あら、こんなところにいましたの」

 屋敷の奥から、突如として若い女が出てきた。花を買いに来た女とは違う女だった。

 女が来た途端、白い子供はムクゲの頬の横に持っていっていた手を、さっと下ろしてしまった。

「とっても探しましたのよ。さあさあ早く戻ってくださいな。それとも違うお部屋にしましょうか」

 若い女はムクゲの存在などまるで見えていないかのように振る舞って、白い子供の肩を掴んで捲し立てた。

「そうね、どこでもいいわね。どこでもいいわ。早く行きましょう、早く行きましょう、早く、早く、ほら早く行きましょう、ねえ」

 女が急かして白い子供の手を掴んで引っ張った。その手が運悪く子供の右手で、傷に触れたらしく、再び子供が痛みに小さく呻いた。

 その小さ過ぎる呻き声を女は耳聡く聞き取って、急かしていた足を止めて驚いた表情で白い子供を振り返った。

 女は子供が痛がっている、自らが掴んでいる白い手を自分の目の前まで持ってきて、傷をその目で確かめた。

「あら、手を怪我しましたの、血が出ていますわね」

 女は子供の白い手の傷をまじまじと見詰める。

 そしてその後、白い子供の顔と手の傷とを交互に見遣った。


「……素敵。私にも舐めさせてくださいまし」


 女はどこか嬉しそうに子供の傷付いた指を口に含んで、白い子供の赤い血と形の良い手を舐め始めた。白い子供は、手を舐められるがままに女に預ける。特に何の感慨も無いような表情だった。

 しかし、ムクゲには、少しだけ不思議そうな、それでいて悲しそうな、そんな表情にも見えた。今にもその色硝子のような目から、透明硝子のような涙が溢れてくるのではなかろうかと思った。

 だが、ムクゲの予想に反して、白い子供の目からは涙は溢れてこず、ただひたすら黙って、人形のように、女にすべてを任せているだけだった。

 ムクゲは、その場景を逃げもせずにただ突っ立って見ているだけしかできなかった。

 真っ赤な花を付けた真っ白な子供は、いつまでもそこにいるムクゲへと、何を思ったか、ゆっくりと目を向けた。

 ムクゲは、またその恐ろしく綺麗な瞳をその目で見ることとなる。身体が瞳で縛られたようになった。

 ……目が合うと白く綺麗なその子供は、また至極緩やかな動作で。

 目を伏せるように細め、紅唇を僅かに引き延ばして、頭を一寸傾げながら、傾げた際に口にはさまった髪の一房もそのままに、

 

 くらり、

 

 と、周囲の何もかもを暈かすような笑みを、ムクゲへ向けて、浮かべて見せた。

 ムクゲはそれを目に映された時、自分の中の恐怖がいとも容易くひしゃげてしまったのが解った。

 その笑みはまるで花が綻んだかのようで、それでいて灼けるような熱さを孕んでいた。

 微笑んだ白い子供は危うく名匠の絵画や彫刻のようにも見えて、ムクゲが今まで目にしたどんなものよりも美しく蠱惑的に見えた。

 これほど、綺麗なものは見たことがないと心から思わされた。

 屋敷中から溢れんばかりの赤色の火種は、たしかにこの子供だとムクゲは確信を持つ。

 ……じ、と軒先で炭になった林檎の最後の燃え滓が、静かに燻った音がする。

 まるで、自分の身が炙られてしまったかのような熱さがムクゲの中で沸き起こった。


 ムクゲは遂に、自ら白い子供の方へと手を伸ばした。中途半端に浮かんでいた片足の踵は、本来向かおうとしていた方向とは正反対に、子供の待つ方へと足を追いやって、退路を断った。

 白く綺麗で恐ろしい子供が、手を舐められながらムクゲをじっと待っている。

 ムクゲの指先が、いよいよ子供の白にきらめく髪に触れようとした。

 しかし。


「何やってんだい!」


 屋敷の奥から、また女の声が響いてきた。

 ムクゲがびくりと驚いて見遣ると、今朝方花市に花を買いに来た背の高い女だった。

 子供の手を舐めていた若い女も、さすがに口を離して、今やって来た女の方へ、

「あらネェさん」と顔を向けた。

「見付けたんなら早く連れてお行きよ。心配するじゃないか」

「うふふ、ごめんなさい。でも見てくださいな、ほら」

 若い女は、掴んでいる子供の手を引っ張って、目の前の年上の女へと見せ付けた。

 子供の白い手に付いた傷は、ずっと舐められていたので固まることができずに、血が尚も止めどなく傷口から流れ出していた。

 それを見た背の高い女は、「おや」と声を上げて、軽く驚いたような表情を見せた。

「血が出てるじゃないか。大変だね」

 背の高い方の女は、若い女の手から子供の手を引き取って、またしげしげと眺める。

 眺められている間にも、子供の手からは血が流れ出続け、赤い細糸の線を作って白い肌を伝って、真っ赤で豪奢な着物の上にぽつぽつ落ちて、朱色を飽和させながら着物の生地に滲んでいた。

 背の高い女は、その流れ落ちた血もその目で窺う。

 そして一息ついて、やっと口を開いた。

「赤が綺麗だから、手当はしないでおきましょ。……あぁ、こんなことなら赤の着物じゃなくって、白の着物にしておくべきだった」

 心底惜しそうにそう言うと、やはり自らも、手にしている子供の手の傷口を口に含んだ。しかし同じくして着物へと滴り落ちる子供の血を見て、不満そうな顔をしてすぐに口を離した。

「ああ、勿体無い。矢っ張り今からでも着替えましょうか。ああそうしよう。白なら本絹の良い着物があった筈だよ」

 背の高い女がそう言うと、若い女は途端にはしゃいで「いいですねえ! ええ、ええ、そうしましょう! きっと、きっととっても綺麗だわぁ」と騒ぎ、白い子供の顔を引き寄せて唇に口付けた。

「ふふふ、お前は本当に綺麗ねえ。じゃあ早く行きましょう、折角だから純白のあの着物がいいんですもの、さあさあ、早く! 早く着替えましょう!」

 若い女は子供の肩を掴んで急かして、足早に歩き出した。背の高い女もそれについて一緒に歩き出す。

「焦るんじゃないよ。この子こんなに着込んで歩き辛いんだから」

「だって血が固まってしまうわ」

「別に良いじゃないか」

「でも別に転けても良いわ。きっと痣も擦り傷も綺麗よ」

「だったらあとでお前が付けてやればいいさ」

「あら嫌よ、殺してしまうわ」

「これは殺しても綺麗だよ」 

 二人の女は白い子供を屋敷の奥へと連れて行く。

 楽しそうに談笑する声は、白い子供を挟んで、声が届かなくなるまで絶え間なく響いていた。

 二人に連れて行かれる際、白い子供は、花屋の男の顔を横目で一瞬だけ、目を遣った。しかしそれにムクゲが反応する間もなく、女に背を押されたので白い子供もまた、ふいと顔を背けて女達と一緒に屋敷の奥の方へと歩いて行ってしまった。

 その白い子供が、顔を背け、振り返り屋敷の奥へと歩き出す姿が、ムクゲの脳裏に妙に焼き付いて離れなかった。

 ムクゲを見ていたあの恐ろしい瞳は長い睫の奧を光らせて。赤く豪華なだけのちぐはぐな着物を、細い身体の白さを栄えさせながら、あたかも優雅に纏い込んで。歩き辛そうな衣擦れの音さえも艶やかに。殆ど光りかがやく生糸のように艶めく髪を揺らして。

 そして唇には若い女の接吻で移り付いた紅がそのままになっており。 その口紅の下には、まだ、きっと、自らで手の傷を舐めた際に擦り付いた、赤い赤い、なまめく、あの子の血が……。

 白い子供はとうに屋敷の奥へと行ってしまったというのに、ムクゲは長いことその場に立ち尽くして、動かなかった。まるで惚けてしまったかのように棒立ちになって、あてられた熱の余韻に浸っていた。

 ムクゲの左の肩の上には、白い子供が残していった血の染みが残っていた。

 足下には落として散った薔薇の花弁の溜め池。

 この屋敷を訪れた時は、屋敷に尽くされた赤色の数々を、度を超した豪奢であれどもどこか美々しく見えていた。

 それなのに、今やムクゲの目に映るそれらは、もうその足下に広がる泉の様な赤色も屋敷の豪華絢爛過ぎる赤色も、その時に感じていた生彩たる色のようには、どうしても見えなかった。


――成るほど、『まつりごと』。


 ムクゲは今朝方に女に言われた言葉を思い出し、納得する。

 花屋の男は何かも知らないので、理解こそできなかったが、自分でも解ることが一つだけ存在していた。

 あの子供。あの子供だ。何やらあれを崇めたい気持ちのような、それこそ祭りの最中の高揚感であの子供に触れたいような、そんな気持ちに捕らわれてしまっていて、どうしようもなくなってしまっていることだけが、ムクゲにも解った。解るのは、ただそれだけだったが、最早今のムクゲには十分だった。

 ムクゲは今一度屋敷を見渡す。

 相変わらず赤ばかりの、贅の限りを尽くし切った異常な屋敷だった。しかし、初めはあやかし屋敷かと怯えるほどであったのに、今度はなぜだかまったく恐怖すら感じない。

 それどころか反対に、屋敷の造りも色も、何もかもがやけに惨めったらしい、下卑たものに見えていた。

 ……屋敷の奥から、再びあの陽気な声々が響いてきた。

 ムクゲは、左肩の赤い染みを手で押さえ、その湿りの感触を手の平で感じながら、項垂れた。

 ムクゲの目はすでに、屋敷の炎に焼かれてしまっていた。あの燃えるような恐ろしい子供以外の何もかもが、美しいものだと認識できない。

 ムクゲは足下で、まだ辛うじて形を成していた薔薇の花を見付けると、気持ち任せに踏み潰した。草鞋の裏で、地べたになすり付けられたやわらかい赤が、血潮のように広がった。

「あれには、この色が最適という訳か……」

 赤でなければいけないのではなく。

 この世に在る色では最早、あの子供に間に合わないのだ。

「しかし」

 これほど贅を尽くした豪華絢爛な赤も、あの子供の前ではさも惨めそうで。

「……それでもお前達は、厚かましくもあれを装飾できるのだな」


 羨ましい限りだ。


 そう一言零したムクゲは一人、屋敷へと踏み入った。

 その足取りは一欠片の躊躇いもなく。

 ただ惹かれるがままに、火色の中へと身を投じたのだった。


***


 ムクゲが屋敷の中へ吸い込まれていったそのすぐ後、屋敷に茶色い枯葉がひらひらと落ちた。

 その茶色が白い玉砂利の上へとつく。

 しかし目の前の屋敷は赤くはなく豪奢でもなく。

 在るのはひどく朽ちた廃屋敷。

 燃えるような赤色といえるものは、庭先に迸った異国の花塊、……その一つだけだった。





〔了〕

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