認知症のタコを観察する鬱病の私 後編
「もう同様のことはなかなか起きないだろう」そう思っていたのだが、面白いことに例の母ダコの蛸壺からの外出は続いた。
いつの間にか蛸壺から飛び出しり、意味もなく水槽のあちらこちらを移動するのだ。そして、不意に蛸壺へ戻ろうとするのだがどこが自分の蛸壺なのかがわからないようで、以前と同じように他のメスがいる蛸壺に入ろうとして拒絶され、違う場所への侵入を試みるが、また拒絶される、そうしてやっと自分の蛸壺に戻って落ち着いていればいいものを、数時間後にはまた同じ行動を繰り返してしまう。
私はこの行動を「徘徊」と心の中で呼び、非常に熱心にこの行動の記録を取ることにした。タコが知能の高い生き物であることは皆さんはご存知のことだと思うが、タコの突出する能力の一つに「地形把握能力」が挙げられる。
広い海で巣穴を作って暮らすタコはお腹が減って狩りに出掛けて獲物を捕まえると、それまでの経路を無視した最短コースで巣穴に戻ることが観察実験によって明らかにされており、そのようなことができる要因として巣穴周辺の地形を把握し、ある程度自由に移動しても自分と巣穴の位置をおおよそ把握しているからだと考えられている。つまり、頭の中にある程度の地図を作ることができるのだ。そんなタコが、大きいとも言えない水槽の中の、しかも自分が産卵しているような巣穴=蛸壺の位置を把握していないということに、私は興味を持ったのだ。
この章の冒頭でも書いたが、母ダコは皆、絶食しながらの産卵・卵の世話によるダメージを受けている。
本来、巣穴から出ることはないのに、例の母ダコはなぜか巣穴から飛び出し、そして、すぐに自分の巣穴の位置を忘れてスムーズに戻ることができない。観察を続ける私に、実家があるマンションのある光景が目に浮かんだ。大学2年の頃、久しぶりに帰省した私は、マンション一階の住居の玄関の一部に黄色いチェーンが設置されていることに気がついた。これは何かと親に聞いてみると、どうやら一階住人の老人一人が老化による認知症によって深夜徘徊を行い、戻る部屋を間違えて、一階のそれぞれの部屋に入ろうとしてしまうらしい。それを防ぐためによくその老人が侵入を試みる部屋には黄色いチェーンが設置されるようになったのだ。その話を聞いた私は「老いとは恐ろしいなぁ、長年住んでいた家もわからなくなるというのはなかなかに悲劇だ」と思っていたのだが、今回この母ダコに見られる現象は、まさにそれに似ていると私は感じだ。
今でもその母ダコがいわゆる老化による「認知症」のによるものであったのかはわからない。しかし、観察すればするほど、それと同様の症状が起きていると私は思わざるを得なかった。
今までの多くのタコを観察してきたが、体色などは明らかに老化しているタコに見られるように老いていたし、行動の様子もどこか自分でも何をしているのか、何をしたいのかわからないような不自然なものが多くなっていたからだ。
人間でも老化によって「徘徊」と呼ばれる認知症の行動症状が見られることがある。それの原因には様々なものが考えられているが、調べてみるとその一つに「環境の変化」があるらしい。
例えば、今まで自宅で暮らしていたが、認知症の進行により老人ホームなどの施設に入ることなった一人の老人がいるとする。そうすると、今まではそんな症状は見られなかったのに、徐々に徘徊症状が現れてしまうことがあるそうだ。生活空間の変化による混乱を起こししまい、自分が転居したことなどを忘れてしまうなどして元いた自宅に戻ろうとしてしまうらしい。そして、その症状が進行すると、自宅に戻ろうとしていたことも上手く思い出すことができなくなり、あてもなく移動してしまう。
思えば、徘徊を繰り返すタコも、元々長くいた場所から私がいる施設へと無理やり人間の都合で移動させられたタコ達の1匹であった。我々人間からすると何もない水槽から何もない水槽への移動ではあるが、実際その場所ごとで使われている海水や光のあたり具合などの環境は大きく違うだろう。
もしかすると、そのような環境の変化が、すでに体力を消耗させていた母ダコへの大きな影響を与えてしまったのかもしれない。実際は何が原因でそのような行動を起こすようになったのかはわからないが、私はそう思わずにはいられず、そう思うようになった私の心情はひどく複雑だった。
「タコに認知症というものがあるのかわからないが、人にもあるのだからタコに同様の症例があってもおかしいとは感じない。このような症状が現れるようになった要因も確かなことはわからないが、施設を移動させてしまったことがなんらかの影響を与えてしまった可能性がある。水槽容量が足りない、施設で飼育できる数を超えているからと、こちらの都合で短い命の生物であるタコに多大な迷惑をかけてしまったのかもしれない。
本当に申し訳ない。調べると、認知症は脳内に特殊なタンパク質が溜まってしまうことで、引き起こされると言われているらしい。ならば、まだ正常であると思われる僕の脳の一部でも分けてあげたい。」
と、本当にそんなことを思っていた。しかし、ここで自分の脳みそが果たして、本当に正常なのだろうかとも思う。
明らかに体は重いし、意味もなくふとここで事故に遭ったら、飛び降りたら、薬品を飲み込んだら、と割と本気で考えてしまう。それを止めてくれるのは遠くに暮らす家族の存在くらいだった。かといって、自分が今かなりおかしい精神状態であると相談することもできていないので、死んだら悲しむだろうな、とか葬式でお金がかかるなといった懸念が私に襲いかかる不意の衝動を抑えてくれていた。
と、まぁ、こんなことを思っている私もおかしな状態になっていると自覚もしていたので、下手に私の異常な脳みそを渡すと逆にタコによって不幸なことのなるかもしれない。
その不幸なタコと私との関係は長く続くことはなかった。
本来、産卵した母ダコは蛸壺に籠り、ほとんど身動きせず卵の世話を行うものだ。消化器官が衰え、食べ物も食べることできなくなった母ダコたちは、残された全てを卵の世話に捧げる。そんな中、毎日何回も蛸壺から飛び出し、あてもなく徘徊を行うことがどれだけの負担になるのか私には想像できない。
徘徊の度に腕はどんどん細く、弱々しくなっていくその母ダコの命が長く続かないことは容易に想像できた。そして、その想像通りその母ダコは、自分の産みつけた卵の孵化を見届ける前に死んでしまう。
辛いだろうに、どうして蛸壺から飛び出してしまうのだろう。何のために、何を探して徘徊を繰り返してしまうのか。どうしたら落ち着いてくれるのだろう。答えが返ってくることはないが、当時私もボロボロになりながら、なぜか走り続けていたマゾ人間だったので、なんとなく理解した気になってしまう。
おそらく、深い意味はないのだろう。体力とか、その後のこととか、関係なく、ただゾンビが生きている人間に襲うように、本能的に徘徊や研究を続けてしまうのだ。
私は小さい頃からタコが好きで研究してきたし、きっと徘徊するようになってしまったタコも、元々は好奇心旺盛で、色々な場所を動き回る活発なタコだったのではないだろうか。
そうした元から積み上げてきたものが、産卵した後、急な移動による環境変化によるダメージによって制御できずに本来は出てくる必要がないところで発言するようになってしまう。要するに、ブレーキが壊れてしまうのだ。
情熱や習慣が積み上げてきたものは、人生において非常に価値があるものだが、それはあくまで正常な心身の時の話だ。心身の異常時、その積み上げは、身体があげるブレーキサインを無視する恐ろしい幻覚剤になってしまう。
生きるということに真剣になりすぎると生物は時にそうなってしまうようで、そうして進み続けていいことなんて一つもない。(少なくとも私はそうだった)
願わくば、人もタコも、のびのびと、ストレスなんてない場所で好きなことだけしていける世界になってほしいものである。
彼女が死んでしまった後、私は蛸壺に残された卵の状態を確認したが、それは見事な状態で保たれていた。一粒一粒に艶があり、卵の中で順調に育っている稚ダコにはもう色がつき始めてきた。
母ダコの中には世話がうまくいかず、卵の一部にカビが発生してしまうことがあるだが、そんなことは一切なかった。徘徊するようになり、体力を急速に消耗している中、彼女は自分の子孫たちのことを忘れずに世話し続けていたのだ。
いかがだっただろうか。
この話を端的にいうと、「よく蛸壺から脱走するタコが、子供が生まれる前に死んだ」というただこれだけの文章で説明できるものだ。
しかし、当時正常とは言えない心体状態であった私は、なぜかこのタコに親近感を抱き、元々行ってきた観察実験と並行して熱心に観察し記録をしていくのである。きっと、精神的にも健康だったならば、私もここまで深く記憶するようなこともなく、早死にしてしまったタコとして終わったことだろう。
彼女が育てていた卵の美しさたるや、今でも忘れることはない。ヘッドライトを当てると一粒一粒が、秋の田園に広がる黄金色の美しい稲穂のように輝いていた。そんな卵を見て、どこか救われるような気持ちになったことを私は覚えている。私が必死に集めてきたデータや経験も、目の前で輝く卵のようにいつか誰かに評価されることになるのかもしれない、そんなことを期待しながら私は自分が倒れる(嘘のようだが、本当のことである)まで後少しの間研究をしていくことになる。
そして、その彼女の残した美しい卵は、また非常に面白い出来事のきっかけとなるのだが、その出来事は、またどこか別の機会に書き進めるしよう。
海の賢者の口説き方 短刀八脚 @tantou8ashi
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