マゼランの旅 前編

 学生時代、私は飼育していたタコたちにそれぞれ名前をつけていた。

その一匹が、「マゼラン」だ。マゼラン、歴史に名を残す偉大な探検家の一人だが、無礼なことに私は名前の響きが好き、というごく単純な理由から小さな500円玉サイズのマダコにその偉大な名を授けた。

 私は今まで数え切れないくらいのタコに名前をつけてきたが、その多くが適当であり、捕まえてきた時にたくさんゴミを体につけていて汚かった2匹には「ぞう」「きん」といじめのような名前をつけたり、たまたま旧日本軍の戦闘機にハマっていた時に運悪く捕まったタコたちには「疾風」とか「紫電」のように見た目も一切関係なくただ順番に戦闘機の名前をつけていたこともあった。

 そう考えると、彼も適当だったことには変わりないが、しっかりとした偉人の名前を与えたれただけ、幸せ者だったのかもしれない。

 

 さて、私とマゼランの初遭遇について思い出してみよう。

 学生当時、私が主としていたタコの拉致(採集)方法は釣りによるものと、素潜りによるものであった。

 前者はとても楽だが、日によって釣れる釣れないがあるので、すぐに実験用のタコを入手したい時には不適だ。何か面白い実験方法を思い浮かんでも、実験に使えるタコがいない場合は仕方なく私はウエットスーツを着たまま自転車に乗り、数人の仲間と共に海に向かうのだった。

 といっても、私はほぼほぼ戦力外で、大抵はぷかぷかと水面に浮かんでタコがいそうな場所を見つけ、タコが出てこないか眺めているだけだった。本来なら私が一番タコを捕まえなければいけない立場ではあるが、うまく潜れないのでは仕方ない。一度、何時間も必死に潜水して2匹タコを捕まえたことがあったが、仲間が一人で2桁のタコを捕まえている中での成果であったし、しまいには私がどこを泳いでいたか、外目からわかるくらい大量の鼻血を出して本当に戦力外になってしまった。

 それ以降私は、家で待ってるからタコを取ってきてくれと仲間に言うわけにもいかないので、水面に浮かぶ一種の浮遊物として時間を過ごすのであった。よって、いうまでもなくマゼランを捕まえてきたのは私ではない、ダイビング好きの同期の仲間であった。


 「過去最小」と例えられる、まだ名前がつく前のマゼランは、どうやって見つけたんだと思わず口に出してしまうくらいのサイズで、少し前に書いたように500円玉に満たないごくごく小さなマダコだった。

 そして、サイズからくるなんとも言えない愛嬌に私はとても惹かれたのであった。その日は少し雨が降っていたからか無事捕まえられたタコはそのマゼラン1匹であったが、採集に赴いた私たちはとても満足だった。


 「マゼラン」と私が彼に命名するのは、彼を水槽に入れて何日か飼育した後だ。ある日ふと、マゼランを飼育していた水槽に目を向けると、マゼランが餌として入れていたカニの甲羅に綺麗に足をたたみ乗っかっているのである。

 もちろん、すでに捕食され甲羅のみとなっらカニの残骸の上ではあるが、それでもその愛くるしく珍しい行動に私は目を奪われた。(イラスト)擬音をつけるなら間違いなく「ちょこん」だ。まさにちょこんと座布団の上に正座で座るように、カニの甲羅に乗っかり、正面を向いているそのタコの姿に私は、大航海時代の探検家の眼差しをなぜか重ねたのだ。

 その瞬間、なんとなく響きがよい「マゼラン」という単語が頭に思い浮かび、その名もなき小さなタコはマゼランとなった。

 

 マゼランとなった彼に与えられた使命はタコに無限の資源(餌)を与えたらどのようなスピードで成長していくのかを示すことであった。

 タコという生き物の寿命は1年なのだが、その限られた時間の割にはかなり早く成長することがなんとなく知られていた。

 しかし、具体的にどのくらいの餌を食べると、その何パーセントが肉になるのか、用語で言えば増肉係数や飼料効率というのだが、そのあたりはよくわかっていなかった。そこで私は、ちょうど小さなマゼランが欲しがるだけの餌を与え続け、その成長具合を見ることで、そのよくわかっていなかった部分を明らかにしてやろうと思ったのだ。

 しかし、言うのは簡単だが、それを実行することはとても大変だった。マゼランにとっては綺麗な水槽と棲家、快適な水温に、欲しがったら餌を与えてくれる奴隷(私)が与えられるのだから、なんと幸せなことだろう。

 しかし、悲しきかなマゼラン様の奴隷である私にとっては言うまでもない地獄である。その地獄について詳しくお話ししよう。


 まず、餌について、タコが愛してやまない好物は生きたカニだ。イソガニという堤防や岩場などにフナムシと共に住んでいる小さなカニがいるのだが、それらがタコの理想的な餌であった。

 この実験ではその理想的な餌をマゼランが欲するだけ与えなければならない、つまりそれだけの餌を確保していなければならないのだ。この餌が冷凍餌でどこでも買えるものだったらどれだけ楽だっただろう。

 私はスーパーで買い物するついでにマゼランの餌を調達して、冷凍庫に入れておけばよかった。

 しかし、イソガニはスーパーで売っていないし、まず生きていなければならない。つまり、生きたイソガニを自ら調達しなければならないのだ。

 イソガニの調達は夜に行う。日中はカニたちが岩の隙間に隠れて出てこないし、暑い。よって、ほぼ毎日私は日が沈んだ9時くらいからバケツを持って磯場に出かけ、安いが、無駄に大きいヘッドライトをつけ、イソガニの採集に勤しむのであった。


 しかし、これがなかなかに辛い。と言うのも、いくら夜間で油断しているイソガニ達といっても一箇所に数十匹があつまって井戸端会議をしているわけではない。皆、思い思いの場所で天敵である鳥に怯えることなく、自由に徘徊しているのだ。

 しかも、滑りやすい磯場という条件も重なって、カニの採集はなかなかに辛い日々だった。このイソガニ達との戦いはマゼランの実験に関係なく数年にも及び、私はどんどん彼らの採集技術が向上していくのであった。

 このイソガニ達と時間も今となっては楽しげな思い出なので、別の章で詳しく述べていきたいと思う。この章の主役はマゼランなのだから。

 

 そして、餌の次に地獄たらしめていたことがある。それは、ほぼ一日中マゼランの近くに居続けなければいけないということだ。この実験について改めて説明する。「タコが欲するだけ餌を与え続け、その成長具合を観察する」というものが簡単なこの実験の目的だ。

 しかし、このタコが欲するだけ、という部分について少し考えてみてほしい。マゼランは言うまでもなくタコであり、悲しいことに私と言語によるコミュニケーションを行うことはできない。

「マゼラン様。お腹の空き具合はいかがでしょうか。」

「うむ、今は結構だ。今腹7分目くらいだから、3時間後くらいに餌をもらえるかね。」


 なんて具合に会話することができたらどれだけよかっただろう。

しかし、それは叶わない。(あんまりに辛くて、タコに対して言語を教えようとしたことがあるが、それについては別章で)

 よって、マゼランの腹を空き具合を知るには、マゼランを観察し続ける必要があったのだ。すなわち、マゼランが一匹のイソガニを食べきったらすかさず2匹目のイソガニを与える。それをマゼランが欲したら、2匹目を与えてまた食べ切るまで待つ。拒絶したら、一旦はイソガニを片付け、また20〜30分後にイソガニを与えてみる。欲したら、与えて、食べ切るまで待つ。拒絶したら、また待つ。だいたい朝の8時から夜の19時くらいまで、そんなやりとりを続けるのだ。

 どうだろう、なかなかに刺激的な時間ではないだろうか。


 私はそんな時間を2ヶ月ほど続けた。

 朝起きてから日が沈むまでスマホ片手にマゼランに尽くし、夜はマゼランに与えるためのイソガニを捕まえにいく。まさしく、奴隷。自分で企画して、自分で行なっているのだから、こんなことを言うのはナンセンスだとは私も理解している。無限とも言うことができる広大な海から勝手に拉致監禁し、勝手に実験に巻き込まれているマゼランの方が言いたいこともあるかもしれない。だが、あえて言おう、地獄のような日々だった。


 しかし、そんな辛い日々を続けていてもやはりタコという生き物は面白いと毎日実感した。マゼランに限らず、タコは人間を観察する。

 その発達した眼と脳を使って、彼らはどんなことを思っているのだろう。私が遠くに行こうとすると、「あれ、こいつどこいくねん」と水槽壁面までやってきたり、お食事中に気を触ったのか、じっと水槽近くでマゼランを観察していた私に向かって足を一本伸ばし、まるで芸能人がパパラッチのカメラレンズを塞ぐかのように私の視界を遮ったこともあった。

 それに、毎日変わらない環境にいるはずなのに、変に機嫌のいい日や機嫌の悪い時なども明確にあった。機嫌のいい日は体色が明るい茶色で、よく頭部分を上下に動かして辺りをチラチラと見渡している。

 そんな日はやはり餌をよく食べるし、食べ残しが少ない。対して機嫌の悪い日と言うものは、まず住処である蛸壺から全く出てこなく、少し体が灰色寄りになっている。そして、目の周りがパンダのように真っ黒になり、目そのものは黄色になっている。実に分かりやすい。

 餌の食べ方も、反抗期だった私のように荒っぽくイソガニを受け取り、すぐに食べ終わるくせに食べ残しが多い。そのくせ、満腹になっていないので、次のカニをすぐに受け取り、また同じように美味しい部分だけを食べて、残りを私に処理させる。そして、また新しいイソガニを受け取るのだ。

 こいつら、人間にも例えられるような女子の日のように不機嫌な日もあるのだろうか。とマゼランの機嫌が悪いたびに私は思うのであった。(ちなみにマゼランはメスダコである)

 

 さて、話を戻そう。

 そんな辛い日々の甲斐あってか、マゼランはスクスクと成長した。スクスクと言う表現は適していない、グングンとか破滅的にとかと言う表現が正しいような気がする。とにかく凄まじいスピードで成長し、最初500円玉サイズだったマゼランはなんと2kgにまで達し、タコとしてはかなり大型とも言えるサイズにまで成長した。

 いや、正直私もここまでの成長を見せるとは思わなかった。

 かなり昔の論文に掲載されていたマダコの給餌実験で求められていた増肉係数を遥かに超え、食べた餌の8割ほどが肉になると言う俄かに信じられない成果をマゼランは叩き出してしまったのだ。

 この結果には自他ともに困惑してしまい、計測を間違えたとか、記録ミスだとか、色々と疑ってしまったが、私たちの目の前には驚異的な大きさに成長して、早く餌をよこせと言わんばかりに腕を広げるマゼラン本人がいるのだ。

 もしかすると、たまたま捕まえてきたこのマゼランが異常個体なのでは、とも思ってしまった。かといって、この狂気じみた実験をまた一から他のタコを捕まえて行うのか、と考えた時に私の中で結論が出た。この結果は、ネタとして私の中にしまっておこうと。マゼランの旅は続く。


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