海の賢者の口説き方
短刀八脚
プロローグ
私は、いつものように自転車に乗って彼らの住処に向かっていた。距離にするとたった数キロだが、小高い丘の先にあった私の実験室。
人力、1馬力も出ない私の自転車ではなかなかの体力が必要であったが、私は毎日そこへ向かっていた。雨の日も、台風の日も、地震があった日も、まず自分の安全を確保してから、という当たり前のことではあるが、この私の日課は周りの職員からすると理解し難い行動のようだった。
そこで、日本初の試みが行われていたとは誰も想像できなかったことだろう。数年前の台風の影響で、その建物に屋根の一部と、海に面する壁は既にない。それだけならまだしも、建物全体が傾いていて、柱の一本にもたれ掛かったら倒壊しそうだ。最初、この建物(廃墟と言った方が正しい)の使用を許可されてから、いつ倒壊するかヒヤヒヤしていたが何とか一年は耐えてくれた。
鍵を開け(横から侵入できるので不要ではあるが)、彼らがいる水槽に向かう。たった2トンの水産業で使われる水槽としては小型のものではあるが、そこに私の小さな夢が詰まっていた。
「餌はまだか、このやろう」と腕を伸ばす彼ら。その様子や体色からその日の健康状態をなんとなく、把握する。それが合っているのか、学術的な知見は何一つないが、私はなんとなく、彼らの情調を感じとっていた。そんな中、一匹、私に目もくれず住処であるパイプから出てこないものがいた。
まさか、と思いそのパイプを取り出し、慎重に中を覗くと「彼女」は大切そうに白い小さな卵を抱えていた。お米やナスに例えられる形状の卵は、自然界ではごく当たり前に存在するものだ。しかし、私にとって、彼女とその小さな命の原石はとてつもなく大きな、重要な存在だった。
完全養殖達成の瞬間であった。小さな2トン水槽の中で、世界的にも数少ない「海を知らない」タコが生まれたのであった。その時の気持ちの昂りは例えることができない。ただ、私はこの小さな存在を熱い眼差しで向けていた。
「タコ」と聞くと多くの人は何を想像するだろうか。
あなたが日本人ならば、きっと思い浮かぶのは「たこ焼き」とか「タコワサ」など、食べ物のことなのではないだろうか。
ここに、私が学生の時に行った「タコについて」のアンケートがある。国内(静岡)と、カナダ(バンクーバー)の二箇所で行ったものだが、先ほどの問いである「タコと聞くと何を想像するか」に対する回答はなかなかに興味を惹かれる結果となった。
やはり日本人は「たこ焼き」とか「美味しい」、「ヘルシー」など食品としてのイメージが大変を占め、対してカナダでは「頭がいい」とか「知性がある」など、タコの生態、特に知性についての回答が多くを占めていた。
この差は、海洋生物の最たる学習施設である水族館の展示でも表れれている。日本のタコの水槽というのは大抵暗くて、人が集まっていなくて、地味で、解説パネルもあればマシ、マダコなどの和名と学名が記載されているパネルのみのところが大半だと思う。だが、カナダ・アメリカの数カ所の水族館でかなり目立つ部分に水槽が置かれていて、壁一面にタコの解説やイラストが書いてある。
物販コーナーには、タコのマグカップやtシャツ、専門書などが数種類置かれた棚が設置してあるなど、やはり日本との差は大きなものであった。
日本は決してタコに対する意識が少ないのではなく、むしろ世界で最もタコが文化に根付いている国だ。昔から多くの調理法で食べられていることはもちろん、はちまきを巻いたタコのイラストのように国民に広く親しまれているデザインや文化、タコと聞いて、嫌悪を抱くような人は少ないだろう。
だが、それゆえに私は悔しい。海外のアンケートに例えられるように、タコは数少ない知性を持った生物であり、その見た目に恥じない多くの能力を持っている生き物だ。そのほんの少しでも、知っていただき、さらにタコという生き物に興味を持って欲しい。そのようなことでこのような文章を作ることにしてみた。
また、私もタコへの探究を休んで久しい、そこで愛すべきタコと歩んできた道を再認識することも含め、自分のためにも楽しんで筆を進めていくことにする。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます