変幻

片坂 謐(千曲 結碧、他)

第一話/すき。

(a-001~003)

 夕方に遠くからきこえる子どもの燥ぐ声を聞くと焦燥を感じて涙が止まらなくなる。

 大事な事を忘れている気がする、と言うと妄想癖のように思われてしまうけれど形容としてはこれが最も正確だった。何時も感じる訳ではなく、例えば誰もいなくなった高校の教室とかで微かに聞こえる声に反応をしてしまう。

 今、下校中に歩道の上寝転がりながら追体験をしているのも同一の過程と少々異なるけれど条件は変わらないからだった。涙腺が作動し本来感じるべき腹部の刺傷による鈍痛が気にならない位に頭が熱い。夥しい量の血液も、聞こえてくる誰かの声も、生物的な鉄のにおいも。全てが意識外に飛ばされていて、荒くなる呼吸が嗚咽になっていく。

 曖昧になっていく景色に恐怖は無かった。それ以上に安心感が強くあった。漸くと言うのが正しいのだと、何となく思えた。

 自分が終わる事で救われる気がした。愛しているひとが最期にそばにいてくれたらもう少し幸せだったかもしれないだなんて考えてしまう。

 殺してくれた人は、綺麗な人だった。初めて見た水面のひかりの様だった。

 笑った。それが最後の記憶だった。








「君は今日から私が飼うことになったから、よろしくね」

「え・・・」記憶が消えている。生前世界の基本情報と数刻前に刺殺されて某かの存在に人外の要素を付与され、自身の能力を理解した所迄は事象を把握している。けれどそれから先、どういった経緯で一般住居内の寝室(僕の記憶基準内に於ける推定)で寝かされているのかとか左で横になりながら嬉しそうに話している推定二十代女性との関係、この世界の価値基準は僕のそれとどれ程異なるのかという一切が消失している。

 知らない声が聞こえた警戒から距離を取ってしまったのを後悔し掛けたけれど既に行末を宣告されている状況であるので、正直このまま殺された方が楽かも知れなかった。

「あなた次第だけれど、そんなに怯えなくても喰べたりしないよ。」

「・・・」

「私は違うけれど此処から逃げようと外に出たりしたら、アパートの住人みんな食人するタイプだから多分私じゃない誰かに食殺されちゃうと思う。お腹空いてなければいいけれど、わかんないじゃん」

「・・・・・・。飼うって、なんですか」

「言葉通りの意味、だけれど。君は私の飼い猫として一緒に暮らすの。最近一人で寂しくてね、癒しが欲しい所だったんだ」

「何で僕が」

「何で・・・。そりゃあ、売ってたから」

「は?」

「えっと・・・・・・あ、君捕まっちゃったタイプの子。なのかな?よくあるらしいとは聞いてるけれど」

 この世界の精神的年代設定は中世あたりなのか・・・?窓から見える外界の風景や家具の様式からして現代的な文明っぽいのになんで倫理観だけはそんな旧世代になってんだよ意思疎通が完全に可能という時点で同等の権利は。世界観の心配なら幾らでも可能ではあるけれど多分我儘になるだろうから中略するとして。偏見が過ぎるにしても虐待を筆頭とした暴力や最低限度の文化的な生活の剥奪をされてしまうと穏便な方向転換をするべきなのかといった反応に困ってしまう。性格上被害者ぶってしまう自信しかない。

 着せられていない服の所在を窺おうとしたけれど、先刻の発言からある訳が無いと諦めた。当たり障りのないテンプレートに沿ってみるしかなかったのは確かだけれど、展開の速さに少々面食らう。

「それと喋るときは猫の言葉。ほら、・・・返事は?」

「に、あ。・・・・・・ぅっ」

「えらいえらい。それじゃあ手伝ったげるからねー。はいばんざーい」

「う・・・・・・。くむ・・・、っは。・・・・・・っ!」

「足上げてー」

「・・・・・・っ、・・・・・・ふっ、うぁっ」嬉しいと思っているのは自尊心を剥がしてくれているからだろう。他人の所為にするのに快楽を覚えている。自分の罪を他人に押し付けて、楽になろうとしている時に似ていた。

「よおし、ご褒美にぎゅってしたげる。ほら。んーっ」

「きゅっ、に、うっ。ぁ。」肌にじかに触れた温度差と服の感触に肩が震える。動揺を抑えるために辛うじて留めていた記憶を行使して、抵抗はしてはいけないと必死に暗示し可能な限り猫の動きを模倣することに注力する。

「かぁいい。肌も白くてきれー。キュートアグレッション起こりそおだよ。・・・・・・。・・・・・・ぁ・・・、むっ」

「・・・ひぅ」耳を食まれた。半獣人になっている自覚をさせられるのと同時に力が強制的に抜ける。こわい、のに。

「我慢できないから、一寸つまみ食い」

「に、ぅあ、ひゅ・・・・・・っ、ふぁう」知らない、ふわふわした心地よさがちょっとずつ積もってくる。耳の淵から孔に向かって焦らす様に滑った舌が、湿ったやすりみたいに音をたてている。変にならないように彼女の服を掴んでしまって、口の中が熱くて呼吸が速くなる。

「ぇえっ・・・・・・、んっ、れぁ」

「ん、・・・・・・にゃっ」

「るっ。ん、ん、ん」

「ひゅっ。・・・んぁ、ぅく」

「は、っ。・・・顔、こっち向けて。そう。それで、口を少し開けて」

「・・・・・・んぁ・・・?」

「すっ・・・・・・・・・・・・、くじゅっ」

「んむぅ、・・・・・・っ!?」何が起こったか分からなくなって、上顎の裏から脳を溶かすように快楽が浸み込んでくる。そこから下へ、頭部全体からデコルテ、胸へとじゅわじゅわした感情が這入ってきて心臓が収縮する錯覚を覚える。

「れる・・・、ん」

「んぐ・・・。んん」初めは抵抗を反射的に行ったけれど、力の入らない彼女の胸を軽く押す様な傍から見たら本物の猫に見えてしまうような真似しか術が無くなって、次第に腕から口内へと意識を移されるに連れてそれすらもだらりと身を任せるようになってしまっていた。

「・・・ぁむ、・・・はぅっ」

「・・・はぁっ」

「んっ・・・・・・るっ、っぇる、・・・ん」

「くぅ・・・・・・んきゅ・・・きゅっ。・・・・・・んぐぅっ」

「ぱぅあ・・・っ」

「はあっ。・・・・・・ぁ、はっ。・・・ふぇ・・・っくっ」

「キスしただけだったんだけどやっぱり嗅がせすぎたかな。可愛くていいけど」

「・・・・・・?」脳が白く塗りつぶされて、景色がちかちかする。ぐったりと彼女にもたれかかって色の匂いを吸い込んだから更にひとの要素が削り取られた。

「く、んふ、ぅ、・・・ぁ、ひゅ・・・・・・んうっ」

「うぁー、最後までしそう。あ・・・・・・・・・・・・でもやっぱり、お預けにしないとか」

「?」抱擁を解除した彼女は僕をそのまま寝かせ、乱れた服を直した。

「おかしくなったまま戻ってきてくれないかもだし、今日はおしまいにしよ。ごめんね、かわいいから歯止め利かなくて。加減とか心がけてるけどまだまだみたい」

「にゅ、ぅ」

「今日はゆっくり休んで、また明日ね」

 頭を撫ぜられ安心するのはいつ以来だろう。さっきまでの快楽は薄れ、彼女の声色が瞼を徐々に閉ざさせていく。眠ったことに気付いたのは起床した時だった。

 翌日、朝方。

「色々用意しないといけないからね。扨、一寸ごめんね。一先ずはお預けだけど、すーぐしたげるから」

 そう言いながら彼女は目をこする僕を横目に外出の用意をしていた。

「・・・・・・?」

「買い物してくるからいい子で御留守番してて。えーっと。君用の首輪と御飯のお皿、かな。よしっ。それじゃ行ってきます」

「に・・・ぅあ。・・・・・・っ」ドアの閉まる音がして、騒がしかった部屋に刃物のような静けさが宿り始めた。

 数十分後。

「・・・・・・・・・・・・ああー、っ。ああっ」彼女の外出から相当時間が経過しているのに場を離れるのを未だに考えあぐねているのは傷つける事に臆病な自分の本質が原因だろう。

 正直に言うと逃走自体は容易く、僕にある人外の要素だけで事足りてしまう。何かしらの策を講じたりするどころかそれから先の人生設計諸々を考える必要すら無い。

 月から照射される反射光を基に稼働しているから食事の心配はそもそも無いし(摂れなくはないがする必要がない。全て体内で分解され純水に変換される)、記憶操作・身体補強等娯楽に触れている者ならば必ず何処かで見た事のあるような能力群を有しているから外見年齢八歳とはいえ頑張れば武力行使すら可能だった。というか信じたくなかったけれどさっき抱擁された時、能力値に明確な差があった。可也感覚的な予測なので外れているだろうけれど。

 ただ、この場合彼女を傷つけかねない。かといってこのまま続けていたら自分への殺意とそれに伴う罪悪感と破滅願望で気が狂いかねない(比喩でなく始まりつつある)。

 彼女達の価値観に口を出せる程自分の価値を認める事は可能かと問われると否定してしまうと思う。僕はそこまでできた人間じゃない。正しさが何なのかもよく理解していないし、常識を説ける程常識的な人間じゃない事は忘れていたとしても自分が一番よく知っている。だから無責任にしかなれないけれど(あくまで僕の視点であることを忘れずに言うとするのならば)常識を清浄化する役目は屹度この世界の勇気ある善者に与えられるべきなのだろう。これも偏った思考だけれど。

 案外これは罰なのかも知れない。他人を信用しきれずに評価するように無意識間の判断基準を定めて、傷つけられることを恐れて干渉を避けている罪への。だとしたらここから逃げるべきではないというより、してはいけない気がする。

 そこまで考えて気を紛らわせる為に格好つけた陶酔を急にし始めたことで羞恥による笑みが零れた。

 立ち上がって部屋の隅にあった姿見に自分を映した。印象は人間の少女のような少年に毛色が深緑の猫の耳と尾がついた異形。髪色も同じで、病人のように白い肌に日が差し込み照らしている。装飾品のように大きな眼に金色の虹彩が怯えたように光っていて、舌も牙も爪もひとのもの。気味の悪いくらい美麗な造形は付与者の趣味なんだろうが・・・。

 せめて意味が欲しいと思いながら逃げるような仕種で背を向けて、ベッドに飛び込んで忘れようと眼を瞑った。

 数時間後。

「たぁだいまーっ」

「・・・。ふぁ?」

「あ、眠ってた?起こしちゃったか」

「んっ。にゃ、・・・ぁあ。ふ」

「ふふっ。かぁいい。ああ、そのままで。ほら。買ってきたからねー」

 色は赤で革製。装飾に銀の鈴が一つ付いていて夕暮れに光っていた。それだけを見てこんな気分になれるのかと驚いて、抵抗をしようと考えてもいない怠惰さに心底呆れてしまった。

「スタンダード過ぎる気がしたけれど、やっぱりシンプル重視にした方が似合いそうに思えたからさ。違ったらまた別のを買おうね」

「・・・・・・ぁ」

「食器もちゃんと買ったから御飯もこれで喰べれるね。よかったよかった」

「・・・」

「ふふふ。おかえりのぎゅーしていいー?」

「ふぇっ」

「赤くなってる。ああー、やっぱり猫って語彙を制限する力があるんじゃないかって思っちゃう。かわいいしか言えなくなるもの」

「う・・・・・・に、ぁっ」

「ふふー。拒否ってもいっちゃおー。ぎゅーっ」

「にぎゅっ、きゅ、む、んむっ、むー」

「御顔見せてー。かぁいいっ。よしゃよしゃー」

「ふ・・・。うぅ、う」心地いい。首を絞められたときみたいに満たされていると感じてしまう。

「ごはんしよっか。作ってくるから待ってて。今日はアサリの炊き込みご飯ですよー。たのしみにしててねっ。・・・」

「・・・ぁ・・・・・・」食事はひと用なのか・・・。まあ流石に体調壊すだろうし、この世界に於いての【炊き込みご飯】の概念が僕と一致していない可能性を考慮しなければこちらとしては有り難いけれど、本当に類似しているのか。不安も直近の経験は前例がないから洒落にならないだけで、結構対策はし易い方なのかも知れないと気休めをした。

 食材を刻む音が聞こえる。見ると態とかどうかはわからないけれど出入り口の扉が開いていて、それが逆に僕の逃走意欲を削る要因になっている。

「笑うしかない」この罪悪感の正体を考え始めたらきりがなくて終わらせたくなってしまうから残る否定的な気分を紛らわせる為に解る筈はなくてもこの世界、彼女の正体でも考えて中断する。

 幻覚でない限り彼女の眼の虹彩が感情が動く度に色彩が変化したし退出時に肩甲骨辺りに角に近い骨(羽?)と思われる器官があったので前世に居たタイプの人間ではないだろう。そして幸いというべきかは判断に困るけれど口調や仕草から恐らく過度な暴力をふるうタイプではない。気を配り一つの予測に固執しなければ物理的な痛みが避けられるのは救いだった。

 そして人身売買、またはそれに近しい事をこの国は認可または目を逸らしている。一部のひと達は捕食対象となっている。後者は仕方のない現象の一つかも知れないから外出しないようにという彼女の忠告は本心だろうと思ってもいいけれど、非倫理的な思想を国民の殆どが持ち最悪を想定するとそれは世界規模にまで広がっているのだろうと思うと。

「・・・・・・」

 体感では約一時間後。食事中。

「おいし?」

「ん・・・・・・ぁう」

「よかった。あまり作ったこと無かったから美味しいか不安だったんだ」

「んっ」箸を使って米を口に運ぶ。少し薄味に思えたのは健康への配慮なのかも知れないと思って、温かい料理を喰べたことから罪悪感が芽吹き始めてしまった。それを誤魔化すように咀嚼し、飲み込む。

 ちら、と彼女を見る。笑顔で此方を見ていて、少し気恥しくなって目を背けた。

 作る時間に反比例して食事時間は一時間もかからなかった。

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