やまい
片坂 果(千曲結碧、他)
①
幽霊に憑かれている。
肩に寄りかかる重量は無いに等しく、枇杷の匂いが時折触れる髪と一緒に伝わってきていた。微かな冷気が体温を少しづつ奪おうとしているが夏の熱気が中和している。身体の所々が溶けていて、空気中に消えていた。
高校生位の少女だった。金髪で(眉毛や睫毛は黒色だから恐らく染めているのだろう)、肌は生者のように生き生きとした小麦色。吊り目に収まる虹彩は深緑で、銀色の石粒を耳たぶに飾っていた。
何時からこうなっていたかを問われると、今朝の6時半に迄遡る。正確に覚えているのはルーチンで起床するのがその時間だったからだ。彼女が右腕に抱きつく様に憑いていたのを見て吃驚したのと同時に場違いにも心臓が震えてしまっていた。思い当たる節があるのが憎らしくなってしまう。自分が同性に恋愛感情を抱くタイプの人間である事が脳裏によぎる。現状に耐えきれなくなって二度寝をしようとした時に彼女が話しかけてきて、返答してしまったという不安が喉を起点に思考を喰い破ろうとしていた。
「体調」
「?」
「体調、大丈夫?」
「……はい」真意が分からない。
「駅にいた時はとても疲れて見えたから、心配だった。だから良かった」
「駅?」
「そう、…だよ」
「?」
彼女が笑顔をつくるように目元を少し歪め、口をつぐみかけている。息を吸った音がした。如何したらいいのかが解らずに目を逸らした。
「…ねぇ、わたしってきれいかな」
「………」答えられなかった。理由はわかっていた。
開いた箱の話を。
1
電車内で寝過ごした事に気づいたのは到着のアナウンスと停車音を朧気に聞いた後だった。もう車内には僕以外誰もいなくなっていて、少し点滅している蛍光灯や扇風機の温い風が運んでくる埃っぽい座席のにおいとかが一人でいる時独特の変に緊張する雰囲気を増幅させていた。
席から立ち上がって鞄を背負い、扉の開閉用釦を押した。開くと同時に蛙の音が車内よりも大きく聞こえて蒸し暑い空気が全身を包み、古びた駅と電車、線路の向こうにあるトンネル辺り位にしか明かりが無い事も相まって夜がすっかり更けてしまった事を改めて自覚させられた。
「違う駅、ってさっきの終電。あっ」寝惚けていて景観も似ていた所為か、駅を間違えたらしい。振り返っても遅く、既に出発した後だった。
憂鬱の権化にでもなった気分で視界に入ったベンチに腰掛ける。影になってよく見えない駅名は文字の輪郭によって知らない場所であると、してもいない質問に答えている。仕方なしに鞄から読みかけの小説を取り出して読み始める。もう六割がた読み終えてしまっているので些細な時間つぶしにしかならないだろうけれど、何もしないよりはいいだろう。
暫くして左隣で衣擦れの音がした。見ると少女が座っていて、僕と文面を追っていた。
「えっと」…挨拶でもすればいいのだろうか。年代が近そうだけれど話しかけるのは憚られるように感じた。
「……」
「………………ぁ、……」
「……」
「…あ、ごめんなさい。気になって」
「…っ。そう、でしたか」
「貴女は」
「?」
「貴女は、どこから来たの?」
「どこからって、都心から」見るからに年下の少女に無意識間の警戒をしている事に気づいて、少し恥じる。
「ここから離れた方がいいよ」
「そうしたいのは山々だけれど、さっきのが最後の電車だったから帰るに帰れないんだ。だからここで朝を待つことにしているのだけれど…」他人が怖いから宿を探したくない、とまでは言えない。
「……経路、教える?」
「経路…」駅というのは通常鉄道等交通機関において列車が停車する場所を指しているから外に出る為という使用法としては間違いはないのだろうけれど無人駅に対してはそりゃあ出口くらいは探せばある、と監獄か迷路みたいな妙な表現のように聞こえてしまう。それに外見の年齢に合わない子どもっぽい口調も気になる……。
公共以前の問題。建造物として成り立たせる最低限度の条件の一つで一般常識内の話題だと訝しんだ偏見を持つ僕に問題があるのだろうけど。
「確かにずっとここにいたら良くないかも。でも見たところ無人駅っぽいし、本を読んだり少し仮眠をとったりする程度だから迷惑にはならない気がするけれども…。まあ、有難う。人に気付いたら直ぐに違う場所に行くから。……君は誰か待っていたりする?答えたくないならいいんだけど」
「……待ってるひとはいない。出られないだけだから」
「ん?」
「ここから出られないだけだから」
「どういう意味?」
「私はこの駅に閉じ込められてるの。お母さんとお父さんに。それにあなたも出られないと思う。私が案内すれば問題はないけれど」
「……」どう反応するべきなんだろうか。俗に言う不思議ちゃんに分類される人間と理解した気になるしかないが、そうであったとしても対応の仕方が全く分からない。話を合わせるのが最適解だとしたら不自然にしかならない自信をどうにかして崩すしか無くなるけれど、かといって無反応を決め込んでヒステリーをおこされてもそれはそれで困るという決めつけが選択肢に浮上してしまい気付かれないように首を振った。
「どうして?」だから取り敢えずは話だけでも聞く、という行動をとるしかないのだけれど。後悔くらいはした方がよかったかも知れないなんて考えたとしても遅いのだろうなと考えながら彼女の現状を脳内でまとめていった。
曰く、こういう事らしい。
まず今の彼女自身に肉体は存在していない、生者ではないらしいという事。
また生前では人ですらなく蛇の血が混ざる怪異に近い存在だったという事。
娘を愛している両親は殺されてしまった事実を受け入れなかったという事。
霊体となった彼女の肉体を生成する迄『箱』という空間を作ったという事。
本来であれば彼女以外の個体が空間に存在する事は不可能な筈だという事。
好意的な態度は忘れないでおくとして、何処迄が妄想かではなく何処迄を信じようか。
「でも、寂しくはないの。おじいさんがいるから」
「おじいさん」
「ほら、其処に」
そう言って彼女は電車が入ってきたトンネルを指差した。其処には常設されているライトに微かに照らされている人影があった。
「あの人が遊んでくれたり勉強教えてくれたりするの。だから外のこととか、いろいろ知ってるの。この格好も教えてくれたのを参考にしたんだ。御洒落してみたかったから」
「そう、なんだ」…人間で合っているのだろうかそのひと。加えて彼が人間か否かは差し置いて知識の偏りがないか心配なるのだけれど、好みか?
「あの、さ」
「?」
「此処に居たければ居てもいいけど、ひとりで外に出ようとはしないで。死ぬから」
「は?」物語だとしても流石に物騒に思えるけれど、早すぎる前言撤回も相まって自己嫌悪に苛まれそうだから控えていたけれど諭すべきだろうか。
「この前此処に来たひとたちは私の話聞いてくれなかったけど貴女は聞いてくれるから、教える」
「え、何で」
「蛇、いるの」
「へび」
「喰べられちゃうんだ。毒で弱った所を呑むの」
「御伽噺?」
「違う、本当の話。見る?」
「いるの?」
「いるってば。…来て」
「…」そう言われて僕は手を引かれてホームから改札、駅の外に向かった。なんだ出られるじゃないかと思った時にそれは聞こえた。初めは蝶番や風の音かと思ったけれど、聞いてくうちに人の呼吸音だと分かった。
「…………ぃあ」
「何か言った?」
「言ってない。多分それ、蛇」
「えっ」
「手、離さないで。私といるから何もしてないけど、離したらあの人たちと同じになる」
「え?…………っひゅっ」
指を指すその先、へびがいた。
死体が。白骨化したものが、その尾から生えていた。というより骨で尾が構成されているといった方が近いかも知れない。自重を支え、移動する手段として使っている。上半身は人間だけれど腕が二本ではなく六本になっている。生えているというよりは繋げられているといった印象。手首から先が自力で動かせないのかだらりと人形のように腕の動きに合わせて揺れている。鼻孔と目の間に穴が開いている。眼球の虹彩は烏に凝固した血液を隅々まで塗りつぶしたような黒色で、左目は僕たちを、右目は僕たちから見て左側を凝視していた。それと対照的な白髪は腰まであって、刃物の様だった。
目が合った。近づいてくる、無意識に短く息を吸う。目を背けられなかった。彼女の顔に表情筋が硬直する。
「綺麗」
「…」なんて言った?きれい、と聞こえた。のだろうか。錯乱している、私。?
彼女はそうすると離れて行って、そのまま道の向こうへと消えていった。
「だいじょぶ?」
「だい、じょうぶ。怖かった」
「そっか。ごめんね、教えてあげたくて」
「いいんだ。僕が疑い始めたことだから」
「戻ろうか」
「そうしよう」
駅構内。
「気分、だいじょぶ?」
「ん・・・あぁ、少し。まあ、大丈夫だよ」
「よかった」
「あの、ひとは誰?」
「・・・・・・、へび」
「へび、そっか」
「えっ、あ・・・・・・」
「ごめん、気を付けるよ。子どもの頃はもっと素直だったんだけれどな」言葉をつないで動悸を紛らわしつつ話を変えようとしている。最初からそうだったけれど、子どもなのは。
「そうだ、時間」そんな疑問から携帯の電源を入れようとすると、持っていた右手が吹っ飛んだ。正確には吹っ飛ばされたと見紛う程の速度で彼女が僕の手を払っていた。後から蝕むような鈍痛が広がる。
「えっ」
「あ、ごめんなさ、その。あっ、手、痛む、ごめんなさい。あ、携帯。壊れ、携帯」
そう言いながら携帯を拾い、鑑定するように損傷個所が無いか確認している。
如何したのだろう。罪悪や警戒よりも先ず思ったのはそんな心配だった。時間を計ろうとしたからか?それとも外部に連絡を取ろうと試みる仕草に見えたからか。いずれにしても彼女を不快に思わせてしまう行動をとってしまった事は明確である以上は僕の非対人能力が警鐘を鳴らしている。
「ごめん、ね。君の気分を害そうとしたわけじゃないんだ。その、直すから。だから、理由さえ教えてくれれば、直せるから」
「だ、大丈。あ、じゃなくて。こちらこそ急に失礼な事をして、ごめんなさい」そう言って手渡す彼女の声は少し震えていた。
「い、いえ」
「時計、というより、時間を知る事が怖いの。昔から。具体的に何時からだったか迄は、思い出せないけれど」
「そうなんだ」理由を訊こうとして、対応から深層の部分に触れる事に気付いて止まる。
「・・・・・・」
「・・・・・・帰、ろうかな」何も知らずに不躾な態度をとってしまっていた事への恥じらいも、単純な怯えもそうだけれど、自分の性格上ここに居ると彼女を傷つけるだけになってしまいそうに思えた。
言葉を必要以上に重ねず短く言うと、きまずかった。
「そう、する?やっぱり怖かった?」
「怖かった」嘘ではないけれど嘘を吐いた気分になる。
「そっか。・・・じゃあ、案内するね。線路降りるから、怪我しないように気を付けてね」
「有難う」
トンネル内、線路上。
「ありがとう」
「え?」
「もう会えなくなるから、今のうちに言いたくて。話してくれてありがとう。久しぶりだったから、嬉しかった」
「・・・・・・ごめん」
「どうして?」
「あ、その。さっき遮るようなことを言ったから」
「気にしてないよ」
「そう、?」
「似てるから」
「・・・」
「あなたと私、とてもよく似ていると思ったの。怖がるところとか、特に」
「・・・そっか」
「ええ」
「そっか・・・、あっ」見えた。道端で蹲り蠢く骨の音が聞こえ、繋いだ手に少し力が籠ってしまうのに頬を赤くしながら通り過ぎようとした。僕の鎖骨辺りが刃物のようなもので切り付けられたのは数瞬後だった。
時刻不明。トンネル内。
その中腹に戻って絶え絶えになった呼吸を落ち着かせた。追跡はされておらず、引き返してきた道には変わらずに暗い静けさがあるだけだった。
「さっきのは」
「ごめんなさい、嘘は吐いてないの。あんな事初めてで」酷く取り乱しているようで、言葉を遮って項垂れたまま自分を抱え込む形で腕を胴に回し肩を少し上下させて答えていた。
「へび、は前に来たひとたちにはしてなかったの?」
「さっきのひとはへびじゃない、そうだとしたらあなたも私もあの人がいるのに気付く前に毒で目も耳も潰れてる」
「え」
「おじいさんが、切ってた。いつもは蛇が喰べてたのに」
「…」動転していて蛇を牢番としていたけれど、確かに思い返せば動く素振りも無かったし殺傷するような鋭利物も持っていなかった。
「血、とまってよかった」
「ありがとう」
黙。
「そういえば如何して傷が痛まないの?」
「怒ったり、しない?」
頷く。
「此処に這入ったひとたちは仮死状態に近くなるの。骨はへびに、血は箱の壁に移されて、時間が経つとそれぞれに取り込まれるようになるの。その前に外に出られれば全部返されるんだけれど」
「…」
「外には元の世界に送ってくれる車の運転手さんがいるから、その人が教えてくれるの。昔はいなかったけれど…」
「?」
「本当に怒ってない?」
肉体が他の何かに奪われかかっている、巻き込まれている事を非難しないのかと問うているのだろう。
「怒ってないよ。僕はあまり自分が好きじゃなかったから、見詰め直せる機会ができて嬉しい位」
「えっ」
「ああ」今の言葉を反芻する。怒っていないのは本当だけれど、改めようだなどと殊勝な振りをして誤魔化した事に罰が欲しくなった。
本当はもう消えて、かえりたいのに。
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