やまい

片坂 謐(千曲 結碧、他)

前篇

 幽霊に憑かれている。

 肩に寄りかかる重量は無いに等しく、枇杷の匂いが時折触れる髪と一緒に伝わってきていた。微かな冷気が体温を少しづつ奪おうとしているが夏の熱気が中和している。身体の所々が紫煙のように溶けていて、空気中に消えていた。

 高校生位の少女だった。金髪で(眉毛や睫毛は黒色だから恐らく染めているのだろう)、肌は生者のように生き生きとした小麦色。吊り目に収まる虹彩は深緑で、銀色の石粒を耳たぶに飾っていた。外見で人を判断するのは褒められた行動ではないけれど、好奇心から性格等を想像してしまう。

 何時からこうなっていたかを問われると、今朝の6時半に迄遡る。正確に覚えているのはルーチンで起床するのがその時間だったからだ。彼女が右腕に抱きつく様に憑いていたのを見て吃驚したのと同時に場違いにも心臓が震えてしまっていた。思い当たる節があるのが憎らしくなってしまう。自分が同性に恋愛感情を抱くタイプの人間である事が脳裏によぎる。現状に耐えきれなくなって二度寝をしようとした時彼女が話しかけてきて、返答してしまって何が起こるか分からない不安が喉を起点に思考を喰い破ろうとしていた。

「体調」

「?」

「体調、大丈夫?」

「……はい」真意が分からない。

「駅にいた時はとても疲れて見えたから、心配だった。だから良かった」

 駅?

「………あ」

 何でだ?

 その発言を聞いて最初に思い付いたのはそんな後悔で、感情を上回る速度で流れ込んでくる再生された記憶で視界の狭窄が起る。それなのに感情すらも次々に流れ込んできて収集がつかなくなる。

 同情して勝手に首を突っ込んで、正しいのかどうかも分からないのにそれを善だと信じてここに連れてきた。僕が素直に話を聞いていれば結果は変わっていたのかも知れないのに。何もしなければ。幸せになれた。あの時好奇心なんてものを抱きさえしなければ。

 ひとごろしなんてしなかった。

 訂正を入れつつ回想する。まず時間は今日である事に変わりは無いが、朝の6時半ではなく夜の12時辺り。つまり昨晩の日付が変わった後に僕はあの駅で彼女に出会っていた。



 

1


 電車内で寝過ごした事に気づいたのは到着のアナウンスと停車音を朧気に聞いた後だった。もう車内には僕以外誰もいなくなっていて、少し点滅している蛍光灯や扇風機の温い風が運んでくる埃っぽい座席のにおいとかが一人でいる時独特の変に緊張する雰囲気を増幅させていた。

 席から立ち上がって鞄を背負い、扉の開閉用の釦を押した。開くと同時に蛙の音が車内よりも大きく聞こえて蒸し暑い空気が全身を包み、古びた駅と電車、線路の向こうにあるトンネル辺り位にしか明かりが無い事も相まって夜がすっかり更けてしまった事を改めて自覚させられた。

 と、気付く。

「ここ、違う駅だ」寝惚けていて景観も似ていた所為か間違えたらしい。

「って、さっきの終電じゃ、あっ」振り返ってももう遅く、既に出発した後だった。どうしよう、帰れない。

 憂鬱の権化にでもなった気分で視界に入ったベンチに腰掛ける。影になってよく見えない駅名を確認するのも最早億劫だった。鞄から読みかけの小説を取り出して読み始める。

 暫くして左隣で衣擦れの音がした。見ると少女が座っていて、僕と文面を追っていた。…挨拶でもすればいいのだろうか。

「えっと…」

「……」

「………………ぁ、……」

「……」

「…あ、ごめんなさい。気になって」

「…っ。そう、でしたか」

「貴女は」

「?」

「貴女は、どこから来たの?」

「どこからって、都心から」自分が見るからに年下の少女に無意識間の警戒をしている事に気づいて、少し恥じる。

「ここから離れた方がいいよ」

「そうしたいのは山々だけれど、さっきのが最後の電車だったから帰るに帰れないんだ。だからここで朝を待つことにしているのだけれど…」他人が怖いから宿を探したくない、とまでは言えない。

「……経路、教える?」

「経路?」外に出る為という意味だろうか。なんだろう、監獄か迷路みたいな妙な表現。そりゃあ出口くらいは探せばあると思うけれど。公共以前の問題で建造物として成り立たせる最低限度の条件の一つで一般常識内の話題。それに外見の年齢に合わない子どもっぽい口調も気になる……、全部偏見だろうけど。

「確かにずっとここにいたら良くないかも。でも見たところ無人駅っぽいし、本を読んだり少し仮眠をとったりする程度だから迷惑にはならない気がするけれども…。まあ、有難う。人に気付いたら直ぐに違う場所に行くから。……君は誰か待っていたりする?答えたくないなら、いいんだけど」

「……待ってるひとはいない。出られないだけだから」

「ん?」

「ここから出られないだけだから」

「どういう意味?」

「私はこの駅に閉じ込められてるの。お母さんとお父さんに。それにあなたも出られないと思う。私が案内すれば、問題はないけれど」

「……」どう反応するべきなんだろうか。俗に言う不思議ちゃんに分類される人間と理解した気になるしかないが、そうであったとしても対応の仕方が全く分からない。話を合わせるのが最適解だとしたら不自然にしかならない自信をどうにかして崩すしか無くなる。かといって無反応を決め込んでヒステリーをおこされてもそれはそれで困るという決めつけが選択肢に浮上する事に罪悪感を感じる。

「どうして?」だから取り敢えずは話だけでも聞く、という行動をとるしかないのだけれど。後悔くらいはした方がよかったかも知れないなんて考えたとしても遅いのだろうなと考えながら彼女の現状を脳内でまとめていく。

「身体がないから」

 曰く、こういう事らしい。

 まず今の彼女自身に肉体は存在していない、生者ではないらしいという事。

 また生前では人ですらなく蛇の血が混ざる怪異に近い存在だったという事。

 娘を愛している両親は殺されてしまった事実を受け入れなかったという事。

 霊体となった彼女の肉体を生成する迄『箱』という空間を作ったという事。

 本来であれば彼女以外の個体が空間に存在する事は不可能な筈だという事。

 何処迄が妄想かではなく何処迄が事実なのかという好意的な態度は忘れないでおくとして、何処迄を信じようか。

「でも、寂しくはないの。おじいさんがいるから」

「おじいさん?」

「ほら、其処に」

 そう言って彼女は電車が入ってきたトンネルを指差した。其処には常設されているライトに微かに照らされている人影があった。

「あの人が遊んでくれたり勉強教えてくれたりするの。だから外のこととか、いろいろ知ってるの。この格好も教えてくれたのを参考にしたんだ。御洒落、してみたかったから」

「そう、なんだ」…人間で合っているのだろうかそのひと。加えて彼が人間か否かは差し置いて知識の偏りがないか心配なるのだけれど、好みか?

「あの、さ」

「?」

「此処に居たければ居てもいいけど、ひとりで外に出ようとはしないでね。死ぬから」

「は?」

「この前此処に来たひとたちは私の話聞いてくれなかったけど貴女は聞いてくれるから、教える」

「え、何で」

「蛇、いるの」

「へび」

「喰べられちゃうんだ。毒で弱った所を呑むの」

「御伽噺?」

「違う、本当の話。見る?」

「いるの?」

「いるってば。…来て」

「…」そう言われて僕は手を引かれてホームから改札、駅の外に向かった。なんだ出られるじゃないかと思った時にそれは聞こえた。初めは蝶番や風の音かと思ったけれど、聞いてくうちに人の呼吸音だと分かった。

「…………ぃあ」

「何か言った?」

「言ってない。多分それ、蛇」

「えっ」

「手、離さないで。私といるから何もしてないけど、離したらあの人たちと同じになる」

「え?…………っひゅっ」

 指を指すその先、へびがいた。

 死体が。白骨化したものが、その尾から生えていた。というより骨で尾が構成されているといった方が近いかも知れない。自重を支え、移動する手段として使っている。上半身は人間だけれど腕が二本ではなく六本になっている。生えているというよりは繋げられているといった印象。手首から先が自力で動かせないのかだらりと人形のように腕の動きに合わせて揺れている。鼻孔と目の間に穴が開いている。感情の裂け目に収まっているような眼球の虹彩は烏に凝固した血液を隅々まで塗りつぶしたような黒色で、左目は僕たちを、右目は僕たちから見て左側を凝視していた。それと対照的な白髪は腰まであって、その空間だけが切りとられているようだった。

 目が合った。近づいてくる、無意識に短く息を吸う。目を背けられなかった。彼女の顔に表情筋が硬直する。

「綺麗」

「…」なんて言った?きれい、と聞こえた。のだろうか。錯乱している、私。?

 彼女はそうすると離れて行って、そのまま道の向こうへと消えていった。

「だいじょぶ?」

「だい、じょうぶ。怖かった」

「そっか。ごめんね、教えてあげたくて」

「いいんだ。僕が疑い始めたことだから」

「戻ろうか」

「そうしよう」

 駅構内。

「気分、だいじょぶ?」

「ん・・・あぁ、少し。まあ、大丈夫だよ」

「よかった」

「あの、ひとは誰?」

「・・・・・・、へび」

「へび、そっか」

「えっ、あ・・・・・・」

「ごめん、気を付けるよ。子どもの頃はもっと素直だったんだけれどな」言葉をつないで動悸を紛らわしつつ話を変えようとしている。最初からそうだったけれど、これでは子どもは何方かわからない。

「そうだ、時間」そんな疑問から携帯の電源を入れようとすると、持っていた右手が吹っ飛んだ。正確には吹っ飛ばされたと見紛う程の速度で彼女が僕の手を払っていた。後から蝕むような鈍痛が広がる。

「えっ」

「あ、ごめんなさ、その。あっ、手、痛む、ごめんなさい。あ、携帯。壊れ、携帯」

 そう言いながら携帯を拾い、鑑定するように損傷個所が無いか確認している。

 如何したのだろう。罪悪や警戒よりも先ず思ったのはそんな心配だった。時間を計ろうとしたからか?それとも外部に連絡を取ろうと試みる仕草に見えたからか。いずれにしても彼女を不快に思わせてしまう行動をとってしまった事は明確である以上は僕の非対人能力が警鐘を鳴らしている。

「ごめん、ね。君の気分を害そうとしたわけじゃないんだ。その、直すから。だから、理由さえ教えてくれれば、直せるから」

「だ、大丈。あ、じゃなくて。こちらこそ急に失礼な事をして、ごめんなさい」そう言って手渡す彼女の声は少し震えていた。

「い、いえ」

「時計、というより、時間を知る事が怖いの。昔から。具体的に何時からだったか迄は、思い出せないけれど」

「そうなんだ」理由を訊こうとして、対応から深層の部分に触れる事に気付いて止まる。

「・・・・・・」

「・・・・・・帰、ろうかな」何も知らずに不躾な態度をとってしまっていた事への恥じらいも、単純な怯えもそうだけれど、自分の性格上ここに居ると彼女を傷つけるだけになってしまいそうに思えた。

 言葉を必要以上に重ねず短く言うと、きまずかった。

「そう、する?やっぱり怖かった?」

「怖かった」嘘ではないけれど嘘を吐いた気分になる。

「そっか。・・・じゃあ、案内するね。線路降りるから、怪我しないように気を付けてね」

「有難う」

 トンネル内、線路上。

「ありがとう」

「え?」

「もう会えなくなるから、今のうちに言いたくて。話してくれてありがとう。久しぶりだったから、嬉しかった」

「・・・・・・ごめん」

「どうして?」

「あ、その。さっき遮るようなことを、言ったから」

「気にしてないよ」

「そう、?」

「似てるから」

「・・・」

「あなたと私、とてもよく似ていると思ったの。怖がるところとか、特に」

「・・・そっか」

「ええ」

「大丈夫かな。さっきの蛇。また襲ってこない?」

「順序を守れば、大丈夫な筈だよ」

「そっか・・・、あっ」見えた。道端で蹲り蠢く骨の音が聞こえ、繋いだ手に少し力が籠ってしまうのに頬を赤くしながら通り過ぎようとした。僕の鎖骨辺りが刃物のようなもので切り付けられたのは数瞬後だった。

「は?」

「相藤さん!」必死で傷が痛んだ事もあってトンネル迄戻る間の記憶は余りなかった。此処で超人的な肉体能力を持つ例の米国人や風力を自らの力に変換する某日本人のような勇気と実力の伴った行動をとれていれば善かったのかも知れなかったが、残念ながら私はただの一般人だった。要するに外見年齢が自分よりも低い子に頼るのを小心乍ら恥じていたのだった。その感情を虚しく思うだけの余裕が生まれたのは心拍が一定になろうとした時だった。

「ああ、戻ったかい」

 そんな矢先に第三者の肉声が聞こえてきたら声を出して驚いても違和感はないだろう。其処に居たのは右足のない老人で、杖を器用につきながら此方に向かってきていた。トンネルは灯が点いているタイプだったので問題なく視認できた。

「おじいちゃん、何か出口通ろうとしたら通せんぼされたんだけれど如何しよう。それに、相藤さん。この人が怪我を」

「ああ、大丈夫だ。何れはこうなるだろうとは思っていたからね。でも此処迄の無茶をするとは予想していなかったら驚いたよ」

「え?」

「彼女の容体が悪化しないよう手短に済ませよう。君たちに教えるべき事だ。十年前の話になる」

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