第2話 コーヒーと不運
汚れっちまった制服に、コーヒーの染みが広がる
「うわぁ、最悪」
由理(ゆり)は持っていたコーヒーカップをカップソーサーに戻した。
カップの縁ギリギリまで注がれていたコーヒーが、飲む瞬間に揺らいで、制服に零れた。
黒色の液体は学校指定の白い制服に飛び散り、由理の右脇腹が茶色く染まった
「大丈夫?」
向かいの席に座っていた知美(ともみ)が心配して、おしぼりを由理に渡した。
「ありがとう」
由理はおしぼりを受け取り、制服を軽く叩きながら拭いてみた。
しかし、広がった染みは一向に落ちない。
「ちょっとの間、おしぼりを当ててみたら?」
知美のアドバイスに、由理はうなずき、おしぼりを脇腹にぎゅっと押し当てた。
じんわりとおしぼりの水分が制服に移行していく。
「なんかさ、今日は本当についてないと思う」
由理はため息をついた。
「まぁ、そうだよね。驚くような告白もされたし。喧嘩もごめん。ちょっと言いすぎた」
知美は苦笑いしながら、由理は向かって手を合わせて謝罪した。
「ううん、私こそ、ごめん。というか、そもそも何で喧嘩したんだっけ?」
「……まぁ、もういいじゃない。仲直りできたし」
「そうだね」
由理は先ほど零したコーヒーカップを慎重に持って口に運んだ。
由理がコーヒーを飲むのを見ながら、知美は由理に気づかれないように小さく溜息を吐いた。
喧嘩の原因は由理が知美のリップを無くしたからだった。
知美が誕生日に買ってもらった、新色のリップ。
新品ではなかったにしても、それなりに気に入っていた。
由理と休日に遊んだ時に貸したきり、そのままどこかへ消えてしまった。
すぐに返してと言わなかった知美自身も悪いとは思いながら、返さなかったけ?と答えた由理に苛ついて、言わなくていいことを言ってしまった。
口から出た言葉は引っ込めることが出来ずに、感情的に言い過ぎてしまった。
でも……と知美は思う。
せめて、喧嘩の原因ぐらいは覚えていて欲しかった。
教室の隅に掃き残された埃のような、小さなわだかまりが心に残っている。
知美はそんな思いを隠したまま由理に話しかけた。
「それより、どうするの?返事は?」
「えー、まぁ、今のところなしかな」
「そっか、和樹残念だね!」
たわいも無い会話をしているうちに、時間はあっという間に過ぎていった。
「もうこんな時間だ。そろそろ帰ろうか」
携帯の時計を見るとすでに十九時を過ぎている。
日が少しずつ傾き始め、空は群青色に変わりつつある。
「そうだね」
そう言って由理が立ち上がると、おしぼりが落ちた。
「え、ずっと当てていたの?」
「あ、忘れていた」
おしぼりを長い時間当てていたため、染みの部分は薄くはなっていたが、それ以上に、脇腹の半分ぐらいが濡れてしまっている。
「忘れてたって、そんな、」
知美はそこまで言って、今日の喧嘩を思い出して、言い淀んだ。
「まぁ、そのうち乾くと思うし」
何事もなく返事をする由理に知美の方が罪悪感を感じてしまう。
「あ、そうだ。これ着てく?」
知美は羽織っていた薄手のパーカーを由理の方に差し出した。
「パーカーなら脇も隠れるし、そのままだと目立って、嫌じゃない?」
「え、いいの?ありがとう」
そう言って無邪気に笑う由理のことを知美は愛おしく思い、しかし同時に少しだけ嫌いになりそうだった。
由理と駅で別れて、知美は自転車に乗って家に帰った。
仲直り出来たことは嬉しいし、由理のことは好きだけど、もっときちんと謝って欲しかったと思ってしまう。
知美はまた小さく溜息をついた。
自身の褊狭さに嫌悪感が湧いてくる。
重い気持ちのまま、家について玄関の鍵を開けようとして、ポケットに手を入れた時、そこにあるはずの物がないこと気付いた。
あれ、鍵がない。
「え、」
カバンの中を探してみるが鍵は見当たらない。
「あ、」
そこで思い出した、由理に貸したパーカーの内ポケット。
今日家を出るときはパーカーを着ていたから、鍵を落とさないようにとわざわざ内ポケットにしまったのだった。
ついていないのは、由理ではなく知美自身ではないか。
知美は玄関前に座りこんだ
今日に限って家族は全員出かけていて、家には誰もいない。
知美は由理にLINEを送ろうと思ったが、由理の家は知美の家と反対方向にあって、今から取りに行くよりも誰かが帰ってくるのを待った方が早い。
知美は玄関のドアに寄りかかり、空を眺めた。
東の空には明けの明星が瞬き始める。
「まじ最悪」
吐き出した言葉は、濃紺に染まり始めた空に吸い込まれて消えた。
なすところなく日は暮れていく……
*この小説は「文芸貴久書店 3号」に投稿し、掲載された作品です。
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