二章
白影
衝撃が収まり、残ったのは恐怖だった。
先ほど皇帝に言い放たれた信じがたい命令がぐるぐると頭の中を駆け巡る。
(わたしが、アニロン王を?)
そんな。サンデルの話とは全く違う。ドーレンとアニロンは互いの平和の証として
まがりなりにも自分が
そもそも、平民出の自分にそんな大それたことができるわけない。アニロン王のことも何も知らない。
サンデルに夫となる者の詳細について尋ねたものの、いつも明快な彼はそれについてだけは口を閉ざした。
『とてもお優しく、民のことを第一に考えてくださる御方です』
『お優しいのですか?でも、ヒュンノールを討伐したおりはとても勇ましく戦われたとか』
『アニロンの兵士はみな勇敢です。けれど本来は、家族想い、仲間想いで争いを避けます。
歳は、見ためは。背は高いか、太っているか。詮索好きなシャオニはじめ興味津々の女官たちの質問を一蹴した。
『今ここで言ったとて、おられないのだから同じこと。それよりも会ったときのお楽しみにしたほうが嬉しさも倍増ではございませんか?』
朝廷の高官たちはというと、驚いたことにアニロンのことをとやかく言うわりにその支配者たる王自身についてはっきり知っている者はほとんどいないのだった。だからきっとよほど醜いのだとか話題にも出来ないほど悪辣な男なのだ、と女たちのさがな口は止まらなかった。
容姿も雰囲気も何一つ知らない、その相手をいずれは殺害する予定だけが決まっているなんて。
「どうして……」
さすがにこらえきれず泣いているうちに陽はすっかり沈み、室内を冴えた白い光が照らした。
ふいに祖母の言葉を思い出す。
「満月……」
そうだ、とすでにまとめていた荷をほどき、箱を取り出した。母の形見の宝鏡、それを使えないだろうか。
母は先代帝に見初められると分かっていたという、それはつまり、この鏡に念じて将来の連れ添いの顔を知ったからだ。
「母さま……」
物心つく前に病死した母の記憶はほとんど無い。それでも、もし本当にこの鏡に不思議な力があるのなら、同じようにしてみればアニロン王を見られる?
月光に反射する傷一つない鏡面を覗き込む。自分の不細工な泣き顔を映し、しばしぼんやりと眺めた。
アニロン王はどんなひとだろう。わたしをどう扱うだろう。生まれた国も育ち方も環境も違うのに、無事に夫婦になって、家族になれるのだろうか…………。
幾度と胸のなかで呟いた自問を繰り返していると、なんとなく――鏡が曇ってきた気がした。
外気に当てられたせいか。袖で
自分の姿さえ消えて慌てた。唖然として、さらに
それはメイファには頭に見えた。白銀の後頭部、いくつかの束に編み込まれた長い髪。異国の玉飾りと毛皮を貼った衣服。
まるで目の前にいるように風に吹かれて、頭が斜めに傾ぐ。耳と顎の線が見えた。だが、
「えええ!」
あともう少しだったのに!何度か同じように睨めっこしたが、うんともすんとも反応しなくなってしまった。
鏡の力が本物だった感動と、しかしおあずけをくらった落胆がないまぜになったまま、新たな衝撃の事実に呆然と座り込んだ。
「アニロン王って、おじいさんなんだ」
豊かな白髪の後ろ姿。老齢なのは間違いない。戦に出ていたというのが驚きだ。歳に似合わずよほど頑健な方なのだろうかと予想した。
サンデルの態度に疑問を抱いていたがこれで納得してしまった。きっと、まだ二十になったばかりのメイファの初婚の相手がうんと年上の老人だとは伝えないほうがいいと考えたのかもしれない。それでアニロンには行かないと言い出されたらかなわないと危惧した可能性もあった。
ひとまずどんなひとなのか把握出来たが、何も解決せずむしろ罪悪感が増した。
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