密命



 アニロンの教師が来てくれたおかげで良い意味で忙しくなり、メイファは宮を出るまでに必要な知識と技能をとにかく詰め込んだ。公主ゴンジュとしての礼儀や所作に加えて、アニロンは山と谷と湖が多く平地はほとんど無いから乗馬は役に立つということで今まで以上に訓練した。語学力だけはたった七月ななつき程度では限界があったものの、日常会話には不自由を感じないまでに上達した。



 時満ちて翌年正月某日、旅立ちまであと三日という直前にメイファは再び皇帝に召された。


 ひとがいない。薄暗い殿内でメイファはそわそわと壇上に人が現れるのを待つ。初めて謁見したときは数人の大臣やら下官が見守っていたのに、今日はどうしたことか人っ子ひとりいない。

 冷たい石床に座り込んだままで体が凍りそうだ。早く後宮へ戻りたい、と思っていると軽い足取りで召し出した本人が現れた。壇上の玉座にではなく、脇の扉から。


「少しは姫君らしくなったかファン・メイファ。そうでないと追い返されるぞ」


 びくりと肩が跳ねた。すたすた歩いてきた彼は額づくメイファのすぐ前で立ち止まったのだ。


「面を上げよ」


 おそるおそる上向くと、爛々と輝く双眸ひとみが槍で突き刺すかのようにメイファを貫く。品定めする視線に耐えきれず逸らせば鼻でわらわれた。


「父上を思い出すな、その尖った耳。いだら泣きわめいていた。懐かしい。ハハッ」


 冷たい指にそこを摘まれてぞっと脂汗が吹き出た。


「そなたは今からリウ・メイファだ。ドーレン帝国の頂点、支配者リウ・シユの妹として務めを果たせ」


 メイファはかすれた声でかろうじて返事した。シユは口の端を歪め懐に手を突っ込む。


「務めは二つ。一つはアニロンの山猿やまざるの子を産むこと」


 ぽすりと軽い音を立てて小さな袋が落とされた。


「二つめ、山猿を殺してその子を王にしろ」

「え…………?」

「なぜ驚く。何のために降嫁させると思っていたのだ?」

「え、あの、アニロンとの和平を」

「ハハハハッ」


 朗らかに声をあげた義兄はぞんざいにメイファの結った頭を乱す。


「馬鹿な女は嫌いじゃない。だがあちらへ行ってもその調子では困る」


 笑みを絶やさないまま凄みのある顔をした。


「中つ国はすべてドーレンのもの、俺のものだ。ヒュンノールが潰れた今、さしたる脅威は無い。とはいえ、かの地の野蛮人どもを蹴散らすのは少々骨が折れるのでな」


 内側から乗っ取る。

 もう逃げられない。新しい娯楽を見つけたかのように、シユは肩を揺らして笑った。


「武器商人らしく争いの火種をいてこい。夫を殺して国を牛耳れ。大いに期待しているぞ」


 愉快げに命ぜられた言葉が、重い鉛玉なまりだまとなって体の奥に沈んでいった。




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