第11話 愛の囁き

 

 もう何冊目かの本を棚に戻す。


 中々目当ての内容が書かれた本を見つけることかできない。そろそろ、ミサも終わる時間帯だ。あまり長居はできないし、後一冊だけ見て戻るか。


 日本で、1分1秒も惜しく働いて、時間に全く余裕がなかったことと比べれば、ここは天国のようなものだ。時間だけは嫌というほどあるんだ、急ぐ必要もない。また明日、ゆっくり調べれば良い。


 俺は凝った首をぐるぐる回し、緊張を和らげる。そういえば、本棚の上段はまだほとんど見てなかったな。身体を伸ばすことも兼ねて、俺は本棚の最上段に辺りをつけ、限界まで背伸びをした。


 こういうとき、背が高いとやはり便利だ。書庫には不親切にも台座がないので、修道士たちの身長を考えると最上段には手が届かないだろう。

 

 本棚の最上段にある本を引き抜く。


 その拍子に、ひらりと何か紙のようなものが落ちてきた。

 

「……なんだ、これ?」


 俺は取り敢えず本を元の位置に戻し、紙を拾った。


 古びた、紙……いや、羊皮紙だろうか。


 茶色く変色し、羊皮紙の端は所々破れている。

 この羊皮紙自体は、かなり年季が入ったもののようだ。裏返して見てみると、覚え書きのような文字が乱雑に書かれていた。湿気で文字が掠れかなり読みにくい。


 俺は目を凝らし、文字を読む。


「……の誓約。ひとつ、見ては……い。ふたつ、話しかけてはならない。みつつ、触れ……ならない。……を……はならない。いつつ、ここを……はならない。むっつ、……共にしてはならない。なな……じてはならない。やっつ、あ……してはならない。ここのつ、全てを守らなければならない。とう、………」


 何かの戒律を走り書きしたものだろうか。肝心なところが霞んで読めない。特に関係はなさそうだが……。

 

 そのとき、聖堂の大きな扉が開く音が微かに聞こえた。

 

 聖堂は独立した建物で、ミサや聖体儀礼などはここで行われている。大きく立派な建物なのだが、扉の立て付けが悪いのだろう開閉時には、金切り声のような音が鳴るのだ。この音は良く響き書庫まで聞こえてくるため、俺はタイマー代わりにしている。

 

 どうやらミサが終わったようだ。


 元の位置に羊皮紙を戻す時間が惜しく、俺は羊皮紙をそのまま上着のポケットに突っ込んで、慌てて書庫を後にした。


 何食わぬ顔で廊下を歩く。


 すると、後ろからバタバタと慌ただしく廊下を走る音が聞こえた。何だ、と振り返る前に、背中に衝撃を受けた。背中に柔らかいものがあたり、透き通るほど白い手が前に回される。


「アマル。もう、いきなり後ろから来るからびっくりしたぞ。どうしたんだ?」


「……アンディ様、どこにいらっしゃったのですか? 私、また居なくなってしまったのかと」


 ぐりぐり、とアマルは甘えるように頭を背中に押し付けてくる。礼拝が終わって、真っ先に俺の部屋に向かったのだろう。

 俺が部屋にいなくて、修道院の中を探してくれていたのか。俺は笑って胸に回された手に、自身の手を重ねた。昨日の件もあり、不安になってしまったらしい。甘えん坊ぷりに拍車がかかっている。


「昨日の今日でいなくなったりしないよ。ほら、ちゃんと居ただろう?」


「……はい」


 俺は首だけ振り返って、微笑む。

 アマルはそれを見て、ほっとしたように肩の力を抜いた。



 ***



 アマルと一緒に、俺は部屋へ戻ってきた。

 ベッドに腰かけるとアマルはフードを脱いで、直ぐにピッタリ横に座り込み腕を組んでくる。



「アンディ様、頭を撫でて下さい」


 はにかんだように、上目遣いで俺を見る。

 思わず、俺は笑ってしまった。なんだこの可愛い生きものは。


 頭を差し出して、撫でてほしいと催促してくる。構ってほしい。甘えさせてほしいと、子犬みたいな仕草。


 よしよし、と、頭を撫でる。艶のある豊かな銀髪が背中まで流れ、その髪を手でとくようにする。


「んっ、アンディさまぁ」


 アマルは気持ち良さそうに、目を閉じた。

 

 ちょうど半年前は、こういう風に甘えるのも中々自分で言い出せなかったのになぁ。今ではこの通りだ。何だか感慨深いものがある。


 時を重ね、一緒にいる時間が増えるごとに、アマルと俺の距離は近づいていき、今はもうゼロ距離と言っても良いくらいだ。


 俺がベッドに腰かけると、横に座り腕を組んでくるのはもはやデフォルトと化していた。


 正直、これは妹や友人の距離感を通り越して、恋人のそれといった方がいいのかもしれない。こうやって自然に腕を組んだり、抱き締めたりと、宣言も誓いもしてないが、ほぼ事実婚ならぬ、事実恋人のようなものだ。


 まだ、日本に帰ることを諦めきれないので、俺はアマルの気持ちに答え、責任をとることもできない。なら、やはりあまりこういう行為はしない方がいいのだろうとは、思ってはいる。いるのだが……。


 ただ、アマルがいつからストーンハースト修道院にいるか分からないが、親元を離れて世俗から隔離された場所に住み、ずっと誰かに甘えることもできなかったのではないか。そう思うと、俺はついつい甘やかしてしまうのである。


 頭を撫でるごとに、甘く優しい芳香が広がる。

 咲きほこる花のような、熟れた果実のような自然の匂い。仄かに香るその匂いは少女特有の瑞々しさと色気を感じる。

 俺はアマルのほっそりとした首筋に顔を埋め、大きく息を吸い込む。本当に、いい匂いだ。ずっと嗅いでいたくなる。何か特別に香油でも使っているのだろうか。それともアマルの体臭なのだろうか。


「アンディ、様。んんっ、恥ずかしい、です」


 俺は、パッと顔を上げた。


 無意識の行動だった。

 未成年の少女に、いや、こちらの価値観でいうといっぱしの成人女性か。どちらにしても、本人の了解も取らず首筋に顔を埋め、あまつさえ匂いを嗅ぐ。責任を取れないと言ったそばから、何てことを。アウトだ。確実にアウトだ。


「すまん! いい匂いだなって思って、ほんと無意識だった!」


「い、いいえ。違います! 嫌ではないのです。アンディ様の望みであれば、私どんなことでも答えてみせます。ただ少し恥ずかしくて。……さぁ、もうアマルは大丈夫ですわ。ど、どうぞ、存分にお嗅ぎください!」


 アマルは髪を払って、首筋をさらした。その動作に妙な艶やかさを感じ、ごくりと唾を呑み込む。勿論、流石に悪いと断ろうとしたが、真っ赤に染まった首筋を見てここで断ったらアマルにいらぬ恥をかかせてしまうのではないだろうか、と考えた。うん、そう他意はない。ないったらない。


 俺は一大決心をして、再び首筋に顔を埋めた。アマルは俺の背中に手を回して抱きついてくる。肩に柔らかい胸が当たって、ひしゃげた。その感触にくらくらして、そのまま襲いかかりたくなるのをぐっと堪える。

 

 俺は心の中で般若心経を唱えながら、とにかく早くこの煩悩が頭から消えてくれと泣き言を漏らすこととなった。


 


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