第10話 聖痕の兆し
あの日のことは、今でも鮮烈に思い出すことができる。
暗闇の中、輝く銀色。
感情のない宝石のような深紅の瞳。
それを見上げながら、俺は――
――ただ、どうしようもなく綺麗だと思った。
***
「……アンディ、様」
目を開ける。
ぼんやりとした視界に、アマルがうつり込んだ。
一拍おいて、状況を理解する。
しまった、あのまま寝てしまったのか。
慌てて、身を起こす。
「わ、悪い。勝手に部屋入って、やましいことはなにも!」
「ふふっ、いいのです。こちらこそ、ご迷惑をお掛け致しました。……私を運んで、ずっと一緒に居てくださったのですね」
アマルは、嬉しそうに繋いだ手に視線を落とした。それを見て、申し訳なさを感じる。
「ああ、うん。……なあ、アマル、その……ごめんな」
「……いいえ、アンディ様は何も悪くありません」
アマルはそう言って、微笑んだ。
泣いているように微笑んだ。
俺が目を見開くと、アマルは自分が笑っていることに気付き顔を伏せた。それは懺悔をするような仕草だった。
「アンディ様、私は……」
伏せいだまま、アマルはそこまで言って言葉を止めた。
その先の言葉は、いくら待っても紡がれることはなかった。
***
――次の日。
俺は再び、修道院の書庫に足を踏み入れていた。
森の中で会った、あの
あれは、どうも俺だけに聞こえ見えていたらしい。
ヨハンナに何か聞こえたり、見えたりしなかったか、と聞くと「いえ、黒殿が異教の遺物に不用意に触れようとしていたので止めただけですが」と首をかしげた。
勿論、俺が一時的にせん妄状態になり、幻覚を見ていた、という可能性は捨てきれない。しかし、どうしてもあの蠢く影が俺には幻覚だと思えないのだ。
ヨハンナは森が「異界」であると、言った。
この森が、という訳ではなく、森という概念そのものを指しているようだった。
異界とは、世俗とは離れた人智を越えた場所。一番にイメージしやすいのは、この世とあの世といったものだろうか。
おそらく、詳しくは民俗学の範疇に入るのであろうが、生憎俺はそこまでの知識はない。以前、民俗学を専攻していた大学の友人の話を少し齧った程度である。
人が住む世界とは、違う場所。
境界線のその向こう。
この世界と外の世界を分ける、境界という考え方。異界という概念。日本でもその考え方は、古くからあった。
山。海。空。地下。
それを恐れ、敬う思想。
空には天国、神の世界があり、地下には死の国、死者の世界が広がる。また同様のように、山や海にも、あの世を連想する文化か根付いている。和歌山の熊野信仰といった山岳信仰や、沖縄の海の底にあるとされる理想郷ニライカナイ。どれも、境界の向こう側にある異界とされる。
そこに迷い込んでしまった。あるいは、人ではない異界の者に拐かされてしまった。そのことを神隠しと呼ぶ場合がある。
それの実情はおそらくこういうことだろうと、友人は語った。
ある人が前触れなく行方不明になったとする。数日してたら帰ってくるだろう、と誰しも考えた。しかし、待てど暮らせどその人は帰ってこぬ。
恐らくどこかで何か不慮の出来事が起こり、死んでしまったのではないか、普通ならそう考えるだろう。
ただ、家族、親類、友人は、その人が人知れず事故死してしまったり、のたれ死んでしまっていたと思うのではなく、きっと人智の及ばないどこかで幸せに暮らしているのだ、と思った。……そう思った方が、残された人々にとって、何より心が慰められ、救いになるからだ、と。
そうかもしれない。
そうであってほしい、という思い。
死者には安寧を。
罪人には鉄槌を。
聖者には祝福を。
異形には畏怖を。
その思いの集大成こそが異界を形作る。
なるほど、そうかもしれない。
そういう考えもあるだろう。
しかし、本当に異界が存在していたとすれば?
ただの思想や概念ではなく、そこに
先日の体験を経て、俺はそう思うようになった。
ある意味、俺は神隠しに会ったようなものだ。森を通して、この世ではない異界に迷い込んでしまったのだから。
ただ、と思う。
そうであるなら、この世界そのものも俺にとっては異界。自身が住んでいた世界とは、全く違う世界。
――異世界に他ならないのだと。
そう考えると、この場所では正しく俺は異邦人であり、まれびとであった。そのとき、ふと脳裏ある考えが浮かんだ。
世俗から隔離され、境界を引かれた場所。
それを異界と呼ぶのであれば……この修道院も、外から見ると「異界」になるのではないか。
―――ベネディクト修道司祭のあの
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