閑話
お寒くありませんかと尋ね、平気だと返されたものの、あらかじめ手元に用意していたショールに目をとめた主人が笑って、せっかくだからもらおうかと肩に掛けるよう促された。
ずいぶん過ごしやすい季節になった。主人の自室からバルコニーへ続く窓を開け、遠い山並みが夕日に焼けているのを並んで眺める。王国の背骨とも言われる険しい山脈に、竜が——ここからではほんの小さな黒い点が動いているようにしか見えないが——飛んでいるのが見える。その稜線にふと、アレキサンドラのことを思い出した。美しく高潔な竜の女王も、あの高い峰のどこかから、今頃王国を見下ろしているかもしれない。
同じように景色を眺めていた主人から不意に、最近ずいぶん人気者らしいね、と言われてぎくりとする。
「ごっ……ご存知なんですか?」
「人からきみのことを聞くのはなかなか面白い」
思わず狼狽してしまった。ベヘルツトのやつ、喋ったな。ドがつくほど生真面目な後輩近衛騎士のロイデン卿は、仕えるべき我らが主人に聞かれたらなんだってバカ正直に答えてしまうのだ。それが直属の上司の個人情報だろうと。それとなく聞きたいことを聞き出す話術の巧みさが増した主人の誘導に乗って、悪気なくいろいろ喋ったのだろう。
「例えば……?」
「四隊隊長のオーグレーン卿にご息女を紹介されて断ったとか」
「ああ……」
「七隊のバルテルス卿の妹君から手紙をもらったとか?」
「それってもう全部ご存知じゃないですか?」
ここのところ、「そういう面倒くさいやつ」の頻度が高く、五月雨に報告すると逆に主人の独占欲を刺激しかねないと思い、内々に処理していた。黙っているつもりではなかったが結果的にそうなったことを詫びると、主人はくすくす笑った。
「きみは、さぞ、放っておくには惜しいんだろうね」
「まあ俺ってかっこいいですしね……」
「ふふ」
横に立っている主人の手が伸びてきて、後ろでひとつにまとめた髪の先に指が触れる。毛先に感覚はないはずなのに、その仕草が手に取るようにわかる。お世辞にも手入れしているとは言い難い乾いた髪の先を、華奢な指がやさしく梳く。
「きれいだね。わたしの剣は……」
指先がそのまま背中に触れて、上から下に背筋をなぞられる感覚が、心臓を取り出して撫でられているような、ぞわりとした心地だった。厚みのある騎士団服の生地越しのかすかな感覚なのに、主人の一挙手一投足に、感覚が研ぎ澄まされる。あなたの方が余程美しいのにと、いつもの条件反射で喉元まで出かかった言葉が引っ込んだ。
視線だけを動かして、主人の顔を盗み見た。どこか夢見るような眼差しが、お気に入りのぬいぐるみでも撫でるみたいに自分を見ている。部屋からの明かりを受けて、長い睫毛がうっすら影を落としているのを見て、瞬きするほどのわずかな間に、日が落ちていっていることに気づく。
体に触れるその手を今すぐ取って、指先に口づけたかった。どうしてこの人のことだけは、他の何にも代えがたいほど愛おしいのかと思うと、時々、目眩がしそうだ。そのやさしい声が自分の名前を呼ぶ時、愛した人に唯一愛し返してもらうことの、泣きたくなるほどの幸福を、この人でなかったら、誰が教えてくれたのだろう。
あなただけが。
「あなただけです」
ふと口をついて出たそれだけの短い言葉に、主人は意図を汲んで微笑んだ。
「もちろんきみはわたしのものだけど」
ほかでもない主人にそう言われて、この上なく喜んでしまうのを知っていて言葉を選んでくれるのが、愛でなかったらなんだろう?
「きみの代わりはいない。きみにとって、わたしがそうであるように……ユーベルント」
主人が続けて、そろそろ戻ろうか、と言いかけるのを制した。
「愛しています」
口に出してしまった途端に、こんなありきたりな言葉しか出てこないのを苦々しく思う。命に代えても守りたいと思うその高貴な身への敬愛も、自我が焦げつきそうな激しい恋の感情も、ただ、幸せであってほしいと願う親愛も、全部、自分が思う通りに正しく伝わればいいのに、その方法がない。情けなく思うほどに。
こんな時、自分たちが、王と騎士でなかったら、どんな風に伝えられただろうと思う。あなたを愛しているのを——
主人が近づいて、手を伸ばし、頬に触れた。指先の温度を感じる前に、控えめに部屋の扉を叩く音が聞こえてきた。
「叔父上ー?キリエです!ユーベルントいますか?」
声の主に思い至り、顔を見合わせてやれやれと肩を竦めると、2人で室内へと戻った。
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