第9話 山男とバレリーナ
大手電機メーカに務めていた私は、定年退職後に、やっと百名山を堪能できると思った。
私は旅支度をしながら、妻に言った。
「今度は北アルプスに登ってくるから。日程は一週間かなぁ」
「また私のこと、置いていくのね」
「付いて来るか?」
「や~だ、バレリーナに日焼けは天敵だし、筋肉をつけちゃぁダメなの」
「バレリーナと言っても、引退して三十年だろ」
「そんなこと言っても、引退した芸能人を盗撮して『あの人は今』なんて掲載する、悪趣味なネット記事が、横行しているんだから」
「そもそも何で、趣味が百八十度違う、山男とバレリーナが、結婚したかね?」
私が問うと、妻は言った。
「未知との遭遇よ!
私の周りにいないタイプだったし。
『熊髭』は嫌いと言ったら、翌日剃ってきてくれて、見たら、結構イケメンだったし」
「そんなら、オレが山男なのは、諦めろよ」
「じゃぁ、あなたがいない間に、猫を飼うから。
あなたが山に出かける度に、一匹ずつ、猫を増やしてやるんだから」
私は即答した。
「ああ良いよ」
晩婚の二人には、子供がいなかった。
嫁ぐ時、実家からオスのシャム猫を連れてきたが、それが妻の連れ子と言えないこともない。
その猫が死んで五年経つが、新たに猫を飼いたいと言うのは、やっとその猫のことが、吹っ切れたのだろう。
生前のシャム猫は、いつも良いとこ取りをする猫だった。
私の部屋が、一番日当たりが良いと知ると、その窓際で日向ぼっこをした。
こたつを見つけると『いいもんめっけ!』と潜り込んでくる。
私がトイレに立って戻ると、足の入れ場がない。
こたつを捲ると、シャム猫がいて、早いもの勝ちだと言いたげに「ニィャ~」と鳴く。
私の横を通り過ぎる時、毎回尻尾をピシャッ!と当てていく。
猫式の挨拶らしいが、シャム猫は生まれた時から、妻の愛情を注がれており、私には「よっ、二番手!」と声をかけているように、思えてならなかった。
朝食のとき、自分の椅子に座ろうとすると、シャム猫が座っていた。
とにかく私の居場所が、この家の特等席と思っているようだった。
熱中症注意報が出ていた日、シャム猫が死んだ。
私が会社にいるとき、妻からスマホに連絡が入った。妻は泣きながら、買い物から帰ると、フローリングの上で、シャム猫が事切れていたという。
「三時から、フレックスタイムが使えるので、すぐに帰る。
とりあえず動物病院に連れて行って、ダメでも死因を調べてもらってくれ」
今更なす術もないと思ったが、妻に何か、アドバイスをしなければならないと思った。
帰宅すると、妻は眼を腫らし、猫の名を呟きながら、愛おしげに撫でていた。
医者は「死んだ者は、どうしようもない」と言ったらしい。
死因を調べるには、解剖しなければならないと言われ、切り刻まれるのが嫌で、妻はそのまま連れて帰ってきたと言う。
「クソっ!やぶ医者が。先週健康診断に連れて行った時は、異常なしと言ったじゃないか」
しかし今更、何を言っても仕方ない。今必要なのは、妻の心のケアだ。
葬式だ。人間と同じで、死者を天国に送り出せば、自分自身も、その死を受け入れることができる。
ネットでペット葬を検索したが、単に焼却するだけで、なかなか私の求めるペット葬はなかった。
いろいろ探すうちに、昔話の伝承にも登場する歴史ある山寺で、ペット葬をやっているのが、目に止まった。
電話をすると、人間のときと同じで、葬儀代はお気持ちで、結構ですよという。
火葬だけのペット葬の金額を調べ、その倍の金額を準備した。
指定された日時に、二人は喪服を着て、シャム猫をお棺代わりの衣装ケースに入れて、山寺に向かった。
準備ができるまで、住職のお母さんが、お茶を出してくれた。
「お寺でも犬を飼っていたのですが、亡くなって埋葬する時、このあたりはイノシシが掘り返すものだから、深く穴を掘って埋めたんです。
そしたらその子が、天国へ行こうとするが、深くて出られないと言ってる夢を見たんです。
他のペットも皆同じだと思って、息子の住職に、ペット葬をここでもするように勧めたんです」
人間と同じように、住職が本堂でお経を唱えてくれた。
ペット用の火葬炉にスイッチが入り「ボッ!」と音がすると、妻とともに、私の眼からも、ボロボロと涙が溢れた。
あれから五年、経ったのだ。
北アルプスから帰ると、まだ猫はいなかった。
保護猫の里親になるには、厳しい条件があるらしい。
六十歳以上の場合は、自分に不幸があった場合、代わりに猫の世話を見てくれる親族が必要と言われたらしい。
ペットショップで買えば簡単だが、ブリーダーは金儲けで、休む間もなく母猫に仔を産ませ、ペットショップは、売れ残れば値段を下げ、それでもダメなら処分する。
妻はそれを許せないらしい。
私はまた、保護猫のサイトを検索した。
『シャム猫ミックス、メス、六歳、りんご猫』
この子がゼロ歳の時、私達も六十歳未満だった。交渉の余地はある。
何より六歳のりんご猫の里親に、なりたい人がいるだろうか?
この子には、私達が必要だ!
妻もあのシャム猫に似ていると言って、気に入ってくれた。
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