第89話 個人練習の時間
PM 3:45
かくして、俺はドラマーになる権利を得たわけだが。
それで決まりというわけでもなかった。
若い男性奏者が言っていた通り、抜き打ちテストがあったからである。
まあ、当然と言えば当然だった。
素人でも大丈夫~的な気安い感じは、「アットホームな職場です」と言って実はブラックな職場である雰囲気を彷彿とさせる。
最低限の演奏もままならないようでは、足を引っ張るだけ。
見込み無しと見なされれば斬り捨てられる方が、こちらとしてもやりやすい。
楽観視でステージに上がり、目も当てられない惨状になりました、なんて迷惑はかけたくないのだ。
――まあ、結論から言うと。
「うん。まあ合格じゃね?」
と言われたので、あっさり通ってしまったのだが。
とはいえ、ただ本番まで残り二時間半ほど。その短い時間を、ほぼ個人練習に費やすこととなった。
お世話になるプロの奏者達は、楽器の練習の他にもいろいろとすることがあるらしい。
彼等とは別口で練習したあと、本番一時間前に合わせ練習を行い、40分前には芹さんを交えたリハーサルとなる。
「皆さんと通し練習をするまで、あと一時間半くらいか。それまでに何とか仕上げないと」
俺は、ともすれば人生最大級に緊張するイベントに向きあうため、深呼吸を一つする。
ドラムという楽器は、端から見ればわかると思うがとにかく忙しい。
スネアドラムとバスドラム、ハイタム、ロータム、フロアタム、ハイハットシンバルにライドドラム、クラッシュシンバルが二つという、なかなかに凶悪な構成をしている。
これらの楽器をたった四本しかない手足で操ることになるのだ。
は? 何それイカ専用? と思うかもしれないが、残念ながら人間専用である。
そもそも、楽器というのは人間1人で様々な音の色彩を描かなければいけないものなのだ。
必然、一つの腕につき楽器一個まで、などという特売日の卵のような甘えは通じない。
少し前、吹奏楽部に所属しているクラスメイトの1人が、「ファゴットって、左手の親指で扱うキーが10個あるんだぜ!? 親指が過労死するわ!!」と嘆いているのを聞いたことがある。
中には、トランペットのようにピストンバルブ三つで音を出す楽器もあるが、たった三つのピストンの組みあわせで何オクターブも網羅できるわけがない。
つまり、何が言いたいかと言うと、トランペットの場合は唇の振動で音を変化させるのである。
よりわかりやすく言うと、ドレミファソラシドの内、ドとソとオクターブ上のドの運指が全く同じだったり、ミとラも全く同じだったりするのである。
いかに楽器というものが難しく、奥深いかがわかるだろう。
たかだか素人の集まりである吹奏楽部が、往々にして「練習時間が長い代表的な部活」とか「体育会系文化部」とか言われてしまう理由がわかる気がした。
まあそんなわけで、タコでもイカでもない、ただの人間である俺は、スティックを握りしめ、個人練習に勤しんだ。
ドラムの楽譜は、他の楽器とは若干異なる。
ただ、それはオタマジャクシの表記が少し違ったりするというだけで、どんな楽器も譜面の認識はややこしかったりするのだが。
これは音楽をやるようになってから知ったことだが、楽器にはC管とかF管とかそういう種類があるらしい。
例えば、ピアノの楽譜をフルートなどのC管で演奏すると、「ドレミファソラシド」は「ドレミファソラシド」になる。
が、ピアノの楽譜をホルンなどのF管で演奏すると、「ドレミファソラシド」が「ファソラシドレミファ」になる。
……?
となるだろうが、つまるところ「実際の譜面通りに吹いても、譜面通りの音にならない楽器」というのが存在するのである。
譜面通りドを吹いたらファが出たよ? みたいな状況になったりするのが楽器というものなのだ。
とはいえ、これについては理解を早々に諦めた。
別にいろんな楽器を演奏するつもりはないし、単純に理解を放棄したのだった。
そんなこんなで、「楽器ってヤバいな」などと小学生じみた感想を抱きつつ、ひたすら練習に明け暮れる。
そして――いつの間にか一時間半は経過していたらしい。
部屋の外が騒がしくなった瞬間、防音室の扉が開いて人影が入ってきた。
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