第十一話 鼓動

「レイス様ッ!!」


 思わず私は手摺りから身を乗り出して叫んでいた。


「アイシャ、待ってくれ!! 今そっちへ行くから!!」


 え?


 待ってくれ?


 どういうこと!?


 な、何が起こっているのか理解できない!!


 発車して間もない汽車は加速が重く、運動神経が良いレイス様の方がまだ断然速い。彼が急接近してくるが、相当な距離を走ってきたのか表情はとても苦しそう。


「お、おやめください!! 危険です!!」


 そう忠告するも彼は全速力で走り続け、どんどんと迫ってくる。


「やめない!! 飛び乗るからそこから下がってろ!!」


 と言われても、困惑した私は動くことが出来ない。


「レイス様……いけません」


 小声のせいか、私の言葉はレイス様には聞こえていない。


 そして無我夢中で走り続けた彼は、何とか手摺りに手が届いた。だが、体力の限界が近づいているのか、もう飛び乗る余力はなさそうだ。


 ここで私が一歩踏み出して手を伸ばせば……彼はここに登れるだろう。



 それでも、私は躊躇った。



 会いたいと願ったレイス様が目の前にいるのに、どこからか湧いてくる“恐怖”が体を束縛しているみたいだ。

 

 必死に汽車と並走していたレイス様だったが、ついに手摺りを掴んでいた手が――指先だけ引っ掛けた状態になった。

 


 気付くと私は――無意識に手を伸ばしていた。



 レイス様の手首を間一髪で掴むと、彼は仰天して目を見開いた。


「ア……アイシャ……?」


 しかし、汽車の加速によって車両が彼の速度を超えてしまい、引っ張り上げることが出来ない。


 肩の関節が外れそう。


「よ、よせ……お前まで……落ちるぞ!! 手を放せ!!」


「……レ、レイス様」


 このままでは彼が大怪我をしてしまう。私の腕力が尽きかけて手を放しそうになった――その時。


「お嬢様ぁぁぁああ!!」


 突如三人の侍女が腕を掴んで、私の体をレイス様ごとを引っぱり上げた。咄嗟に反動を利用した彼がデッキの手摺りに飛び乗ると、私達はバタバタッと転倒してしまった――。


 髪も服装もメチャクチャなレイス様が、かろうじて霞んだ声を漏らす。


「はぁ……はぁ……すまん、助かった。み、みんな大丈夫か?」


「……はい……私は何とか無事です。貴女達は――」


 侍女達の方を振り返ったら、そこにはすでに誰もいなかった。しばらく息が整うまで間を置いていた、レイス様が静かに呟いた。


「久しぶりにこんな走ったな……足が棒のようだ」


「……レイス様のあんな必死なお姿……初めて見ましたわ」


「ははは……カッコ悪いところを見られてしまったな」


 口元を緩めた彼が、汗に濡れた黒く艶のある髪をかき上げる。レイス様が――初めて『アイシャ』としての私の前で笑った瞬間だった。


「そんなことございません……一生懸命に汗をかく男性は、素敵ですもの」


 彼は私の言葉に「そうか」とだけ返し、深刻な表情を浮かべながら黙り込んだ。二人の間で沈黙が続き、汽車の走行音だけが聞こえる。


「“どうして追ってきたのか”……聞かないのか?」


 聞かないのではなく、聞けなかった。あなたと話せば、殺そうとしていた感情がまた蘇ってしまう。


「アイシャ……どうして占い師だったことを黙ってたんだ」


「申し訳ございません。突然のご来訪に気が動転してしまって……打ち明けるタイミングを逃してしまったんです」


 レイス様が肩をすくめて溜息を吐く。


「ホントに馬鹿だな俺は……何年も気付かずに通い続けるとは……自分で呆れてしまったよ」


 侍女長から私の今後を聞いたレイス様は、馬車や護衛を置き去りにして走り出してしまったらしい。「今頃血眼になって自分を探しているだろうな」と苦笑いしている。


 それを聞いた私も、いつの間にか一緒に微笑んでいた。


「アイシャ」


「……はい」


 レイス様がゆっくりと立ち上がったので、それに合わせて私も立ち、畏まって向かい合った。


「君を深く傷付けてしまったこと……謝りたい。本当にすまなかった」


「いいんです。私は……慣れてますから」


 そんなことないのに、また強がり。


「ずっと気にはなっていたんだ。アイシャが感情をあらわにしないことを。今思えば……占い師の姿でも起伏が穏やか過ぎる」


 心配……してくれてたんだ。


「人との関わりで傷付きたくなかったんです……幼い頃からずっとそうでした」


 それを聞いたレイス様の表情が曇る。


「ずっと、心を捨てて生きてきたのか?」


「はい」


「俺には……俺には……あんなに心のこもった助言をしてくれてたのに……か?」


 眉を顰めた彼は、少し震えていた。


「占い師の時だけは『アイシャ』ではないんです。だから──」


 すると彼はいきなり、両手で私の肩を強く掴んだ。


「違う、『アイシャ』の時も『占い師』の時も……同じ君だろ!!」


 驚いた私は何も返せず沈黙した。


「俺が好きになったのは“君そのもの”なんだ。毎日、俺の頭の中にいたのはアイシャだったんだ!!」


「レイス様……」


「長い間、君は孤独の中で生きてきたのだろう。エルマーレ家でも王立学園でも、人知れず辛い涙を流してきたはずだ。でもこれからは……俺が側にいるから」


 心を閉じ込めていた鉄格子が――少しずつ外れていく。


「アイシャが流すどんな涙も、俺が全部受け止めて“宝石”に変えてやる。だから傷付くことを恐るな。もう心を捨てるなんてことはしなくていい。アイシャはこの世界の誰よりも、幸せになるために生まれてきたんじゃないのか!?」


 レイス様はおもむろに持っていた花束を私に差し出した。走っていた時に落ちてしまったのか、その本数は少なくなっている。


 残ったカーネーションは四本――しかし、その花言葉は。



『あなたを一生愛し続けます』



 だった。



「アイシャ、心から愛している……ずっと君が占い師だったと気付けなかった馬鹿な俺だが、結婚してくれないか?」



 これは……何て“複雑な気持ち”なんだろう。


 こんなことがあるのだろうか。確かにレイス様は『アイシャ』ではなく『占い師』を選んだ。その占い師の正体が私だとしても、アイシャとしての自分は深く傷付いている。


 でも、レイス様に最初からちゃんと正体を打ち明けてたらと思うと、今回の件は私にも非がない訳じゃない。


 しばらくあれこれ考えていた私の思考は停止した。


 そして何も言わず、私はレイス様に抱きついて――キスをした。


 最初は緊張のあまり体が硬直した。そこへレイス様が私の背中に腕を回したことで、腰から力が抜けてきた。


 あったかい。


 人の唇って……こんなにもあったかくて……柔らかいんだ。


 間近に目を瞑った彼の顔がある。


 爽やかな汗の匂いを感じ、彼の心臓の鼓動が聞こえる。ほてった体の温もりも伝わってくる。



 嬉しい。



 嬉しさで涙が溢れ出てくる――。


 というか息ができない。


 え……キスの時って息どうするの? 鼻から息を漏らしたらレイス様の頬にかかっちゃうよね!?


 やだ……く……苦しい……!


 こうなるなら、もっと深く息を吸い込んでおけば良かった……!


 レイス様は水泳も得意だから肺活量は私の非じゃない。私から離れることなんて出来ないのに、彼が下がる様子は微塵もない!


 し……死ぬ……。


 あれよあれよと言う間――ついに私の意識は飛んでしまった――。


「――シャ!! アイシャ!!」


 目が覚めると――すごい剣幕をしたレイス様が目の前にいた。


「……レイス……様」


 途端、彼は拳を振り上げて安堵の表情を浮かべた。


「ぬぉー良かった!! 生き返った……」


「……私は……もしかして気を失っていたのですか?」


「す、すまん……つい夢中になってしまった。まさか失神するなんて思わなくてな。本当に申し訳ない」


 お互い人生で初めてのキスだった。加減を知らないと“一大事になるもの”だということを、二人で理解した――。

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