第137話 善悪の基準とは
“前世がどうであったかは、今の自分を見れば分かる。来世がどうなるかは、死を迎えるまでどう生きるかにかかっている。宇宙の意思は生き方を強制しておらず、人間は良い事と悪い事を、選択する自由が与えられている”
「フローラさま、どうされたのですか急に」
「あはは、ミドガルズオルムの話を思い出してたのよ、グレイデル。善悪の基準を聞いたら、ここから始まったの」
「宗教的と言うよりは……哲学的ですわね」
ここはアウグスタ城、フローラの執務室。紋章印が必要な書類を片付けるのと、執事団から上がってきた施策の吟味をしているところ。ミリアとリシュル、そして三人娘が、昼食の準備をしながら聞き耳を立てていた。
「教会の法典は人間を善に、道を踏み外さないように導こうとする。でも精霊はそんなの自己責任だから、好きに生きろって考え方みたい」
「それはまた……ずいぶんと突き放した」
「精霊が欲しているのは、信仰心と道徳心を失わない清らかな魂よ、グレイデル。その数が減ってきたら世界の終末で、人類を滅ぼし作り直すことになるわ」
「そう考えると法典も教会も終末を回避するために、誰かが作り組織化させた事になりはしませんか?」
「うん、私もそう思う。太古の昔に教えを広めた、聖人がいたのでしょうね」
二人が仕事の手を止めたのでメイド達は、頃合いと見て昼食をテーブルに並べ始めた。鶏と卵の事件がまだ尾を引いていて、バターチキンカレーとエッグカレーにタンドリーチキン。これにライスとナンが付き、サラダは定番オレンジ色の甘いドレッシング。
カレーは人気メニューのひとつで、飽きないし喜ばれるから問題なし。手羽先だけ一気にはけたのは、三人娘の味付けで酒の肴になったから。焼き鳥やもつ煮と手を替え品を替え、桂林と明雫に樹里はよくやっている。キーワードはお酒の供なんだそうで、なるほどお察し。
「フローラさま、続きをお聞かせ下さい」
「聞きたい? 長いわよ桂林」
メイド達が揃って首を縦にこくこく。ならばとフローラは、執務机からテーブルへと移動した。グレイデルも手にしたペンと書類を置き、フローラの隣に座る。
“どんな大義名分を振りかざそうとも、軍人の本分は人殺しである。何のために戦うのか、それは正しいのだろうかと、悩まない者などいない。金銭で雇われる傭兵と違い、君主に忠誠を誓う者は必ずこの問題に直面する。
軍人は健康体でありながら、死に最も近い場所にいる。だからこそ真っ当な兵士ほど信仰心が厚く、救いを求め神と精霊に祈りを捧げる。悩むことと臆病は違う、軍人が欲しているのは戦う目的とその意義だ”
「今度は軍人と信仰の話になったのですか? フローラさま。質問に対する回答の前置きが、ずいぶんと長いのですね」
「善悪の基準を考える上で、殺人は切っても切り離せない問題だからよグレイデル。きっとミドガルズオルムは、それをかみ砕いて教えてくれたんだと思う」
ナンを千切ってバターチキンカレーに浸すフローラへ、ミリアがマンゴーラッシーを置いた。本格カレーなら飲み物はラッシーと決めている、女王さまの好みはすっかり把握しているメイド達。グレイデルは気分で決めるタイプでウーロン茶をオーダーし、リシュルがお待ちをとグラスに氷を入れる。
「善悪の基準は時代と共に移り変わっていく、そう思わない? グレイデル」
「確かに、昔は奴隷制度が当たり前だったのに、今は忌むべきものに変わりつつありますね」
「そんな中にあって絶対に変わらない、普遍妥当性のある善悪の基準は何か。ミドガルズオルムに問われたとき、私は答えられなかったわ」
「どんなに世の中が移りゆこうとも変わらない真理ですか、私にはまるで思い付きません」
そう言ってタンドリーチキンをつまむグレイデルに、そうそうと頷きフローラは顔ほどもあるナンをちぎった。改めて言うまでもないが、二人のカレーは真っ赤なマグマである。
「より多くの民が望むこと、それが善なわけよ」
「多くの民が望まないこと、それが悪になるのですね、フローラさま」
「うん、それが普遍妥当性のある善悪の基準なんだって」
「しかしそれでは少数意見を切り捨てることに、なりはしませんでしょうか」
「私も同じ事を聞いたけど、古代竜に鼻で笑われちゃった」
“皇帝や王による支配を望まぬ少数派が決起し、打倒した例は長い歴史上いくらでもある。そこに生まれる政権が正しく機能すれば良いが、人間は権力を握ると何故か堕落する。民から集めた税収を正しく用いることなく、己の欲望に任せ湯水のように使い着服する。民衆の方を向いて
善悪の基準とは時代と共に、民が求めるものによって決まる。しかしそれが正しいとは限らず、信仰を忘れ堕落したならば終末の判決を下される。人間界はそれを何度も繰り返してきた、愚かしいことよ”
「いわゆる衆愚政治ですね」
「そう、だから笑われたの」
「神を神とも思わない者が、世界中にはびこれば善になってしまう」
「その時が世界の終末ね、グレイデル」
“善悪の基準と正義は違う。義とは人として行なう
「私も含め軍団はさ」
「はい」
「多くの命を手にかけてきたわ」
「あの、フローラさま?」
「私たちは死を迎えた時、きっと神界で裁きを受けるでしょう。でも兵士たちは胸を張って言うはずよ、新たな千年王国のために戦いましたって」
メイド達が、はっと息を呑んだ。
移ろいゆく善悪の基準ではなく、フローラ軍は正義のために武器を手にしている。彼らの魂を神界は、けして悪いようにはしないだろう。大聖女は扇を振り戦う目的とその意義を、兵士たちにちゃんと伝えていたのだから。
「だから輪廻転生と、信仰に加え軍人の話が導入だったわけですね」
「善悪の基準を固定して考えること自体が、ナンセンスだったのよグレイデル。精霊が人間に求めているのは、あくまでも信仰心と道徳心。戦場の中にあっても人間性を失わない、清らかな魂なんだわ」
心の深い所にきゅんとくるものがあったのだろう。ミリアもリシュルも、桂林に明雫と樹里も、神妙な顔をしている。その上でとフローラは、やっぱり確信したわとサラダにフォークを入れた。
「衆愚政治に落ちないよう、国家は立憲君主制ね。民のことは民の議会に任せていいけど、軍事と外交に国庫は君主が握ってないと」
「それで領民による下院と、貴族による上院なわけですね」
そうよと頷いて、フローラはサラダを頬張った。軍団の新兵たちは、修羅場をくぐり抜け今では精鋭だ。いずれ叙爵を受け、領地を賜る事になる。彼らが上院に顔を連ねれば、私利私欲なしで法案を審議するだろう。特定の権力者に都合の良い法案なんぞ、破って丸めてぽいだ。
その頃こちらはローレン王国に編入された、元小国の首都クアラン。アウグスタ城から一番近い場所にあり、ここに第二の主城を築くため軍団が派遣されていた。砦にする必要は無く、宮殿に近い王城にするとシュバイツが宣言。半壊した離宮を修復したくらいのフローラ軍だ、今回はガラス職人も雇い任せろとやる気満々である。
「カレーもタンドリーチキンもお代わり自由ですからね、皆さん」
「すまんなカレン、飲み物は例のやつで」
「レモンサイダーですねゲルハルト卿、すぐにお持ちします」
他の隊長たちも、それで頼むと声を揃えた。
ハーデス城の資料から、炭酸水なるものを見つけたフローラ。素材は重曹にクエン酸だとグレモリーから教わり、指導を受けながら粉末で錬成しちゃったのだ。これに水を加えれば炭酸水となり、軍団では今ちょっとしたブームが起きている。
「鶏と卵の料理が続いても、カレーを挟んでもらえると助かるな、アーロン」
「あはは、そうだなデュナミス。どういうわけか、カレーだけは飽きがこない」
「香辛料の配合が、何通りもあるからだろう」
「どういうことかね? アレス隊長」
「だいぶ前ですが樹里に尋ねたんですよ、ゲルハルト卿」
「ふむ、それで樹里はいったいなんと」
「彼女が言うに飽きないよう、その都度ローテーションで変えていると」
もはや職人の極みだなと、テーブルを囲む隊長たちは感心しきり。いま食べている本格カレーも、三人娘が配合したミックススパイスで調理されている。彼女たちはマサラと呼んでいるが、組み合わせが何通りもあるのは事実。それだけではなく欧風カレーにお子ちゃまカレーは、配合がこれまた違う。カレーうどんに使うマサラなんか全くの別物と、言い切っちゃうもんだから恐れ入る。
「糧食の心配をしなくていい俺たちは、恵まれてるんだろうな、シュルツ」
「全くだな、アムレット。普通の軍団だったら行軍で、肉や魚がまともに出る事なんてないだろう」
それが出来るフローラ軍は最高の軍団だと、シュバイツもヴォルフも隊長たちと頷き合う。そしてみんなの視線が、ある一点に集中した。ミリアとリシュルから頼まれているのだ、食器まで食べないよう見張ってくれと。
「ナナシーは、どうして付いて来たんだ? 賓客も移動遊郭も、アウグスタ城でゆっくりしてるのに」
「築城とやらに興味があったんだほ、シュバイツ。んふう、カレーおいちい」
スプーンやフォークまで食べるなよと、隊長たちがへにゃりと笑い釘を刺す。彼らもどういうわけか、この魔物を憎めないでいた。フローラに擬態しているとかそんな理由じゃなく、心の深いところで人間味を感じるのだ。
「総員戦闘配備!!」
突然ダーシュの思念が全軍に響き渡り、戦闘力と防御力を上げる遠吠えのブレスが降り注ぐ。異界へと繋がる転移門を、わんこ精霊は知覚したのだ。
同時に大岩が飛んできて、昼食中だった軍団に落ちた! 何名かが巻き込まれ、なんとその中にキリアがいるではないか。ジャンとヤレルはディフェンスシールドを展開するのに手が塞がっており、シュバイツとダーシュが駆け寄る。
「大丈夫かキリア!」
「シュバイツ、意識を失っている。肋骨が何本か折れているが、命に別状はない。深刻なのはフローラと連絡を取れる手鏡持ちが、キリアしかいないってことだ」
「ああ、しまった!!」
ここでジブリールに救援要請は出来ない、天使の軍勢がやって来て世界の終末だ。セネラデはどうだろう? いや大戦争に向けそれどころではないはず。そもそも精霊の軍勢を呼び寄せたら、神界にも魔界にも知れてしまうだろう。しかも時間が無いのだ、シュバイツはぎりと歯を噛みしめる。
「ダーシュ、キリアが目を覚ますまで持ちこたえるぞ」
「それしかないな、シュバイツ。皇帝らしく指示を飛ばせ、みんな待ってる」
地響きを立てながら、ひとつ目の巨人が姿を現した。一体や二体ではない、棍棒を担いた群れが軍団に迫っている!
「カレン! ルディ! イオラ! 非戦闘員の女性をワイバーンのゴンドラに乗せて上空へ退避。弓隊の諸君は目を狙え! ジャン! ヤレル! シールドはどのくらい持つ」
「ぶっ倒れるまでかけ直しますよ、シュバイツさま! なあヤレル」
「生きていさえすれば桃が食える、やったるぜジャン!」
総員武器を構え陣形を組めと、シュバイツが檄を飛ばす。そんな中――地響きと振動でカレーを思うように食べられないナナシーが、ふんぬぬぬとご立腹であった。
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