第110話 無自覚のシュバイツ
海底の潮流が渦を巻き始めた。セネラデが展開した防御壁の外では、魚の群れが巻き込まれぐるぐる回っている。しかもジブリールの右手に青白い光が集まり始め、その質量がどんどん増大していく。
コアシャンは精神攻撃であり、相手を恐れさせ萎縮させ、戦意を喪失させる。足が震え立っていることさえ出来なくなるのだが、シュバイツは歯を食いしばりジブリールと対峙していた。青白い光が想像を絶する、やばいものだってことも重々承知している。それでも彼は屈することなく、大天使から目を逸らさない。
強大な敵に恐れを抱きつつも、心を奮い立たせ立ち向かうからこそ勇者なのだ。相手が何者かも知らず勝てると思い込むのは、ただのお馬鹿でしかない。
人間が大天使とやり合おうなど無謀もいいところ、なのに一歩も引こうとしないのは何故だろう、この強い意志はどこからくるのだろうと、セネラデはシュバイツから目が離せないでいた。
「その腰に下げているものは飾りですか? さっさと抜きなさい、ヤコブの子孫よ」
「だから俺は、あんたと切った張ったをやりたいわけじゃない。卵を探す方法が知りたいだけだ」
「あなた自身がその口で、原理原則と言ったではありませんか」
「そうさ、そこを曲げて欲しいんだ。土下座でもすればいいか?」
一歩、更に一歩と、シュバイツはコアシャンに耐えながら、ジブリールとの間隔を詰めていく。誰にだって心を許した相手以外、この半径に入って欲しくない距離ってもんがある。それは天使や悪魔も同じで、シュバイツはとうとうその境界を踏み越えた。口をへの字に曲げるジブリールへ、手を伸ばせば触れられるところまで。
「人間の分際でえ――! 控えなさい!!」
「教えてくれるなら控えよう、俺は諦めが悪いんだぜジブリール」
止めるべきかどうか、セネラデは悩む。シュバイツはフローラが、新たな千年王国を築くための重要な
「いま気付いたんだけど」
「私の大いなる力に、今さら気付いたのですか」
「いやジブリールって、泣きぼくろがあるんだな」
「な……」
陸に揚げられた魚のように、口をぱくぱくさせるジブリール。この状況でよくそんなセリフが出て来るもんだと、開いた口が塞がらないセネラデ。しかもシュバイツの暴走は止まらない、チャームポイントで可愛いよな、とか言っちゃうのだ。
ジブリールの放つコアシャンが、しゅるしゅると引っ込んでいく。まるで肉食獣だった瞳が理性を取り戻し、そこにはシュバイツの顔が映っていた。彼女は遠い記憶を掘り起こす、泣きぼくろを可愛いと言われたのは何千年ぶりかしらと。
「人間が天使になった前例をご存じかしら」
「古文書で読んだことがあるけど」
「あなたを天使にしてあげてもいいわよ」
「ははっご冗談を。俺は力側だぜ、悪魔ならともかく天使はないわ」
あら残念と呟いたジブリールの手から、青白い光が霧散していった。海流の渦巻きが止み、もみくちゃにされていた魚の群れが遠ざかっていく。彼女は眉尻を下げふっと息を吐き、シュバイツの手に何かを握らせた。
「ヤコブの子孫よ、これをあなたに授けましょう」
「フローラが首から下げてるのと、同じ形だ」
それは六芒星を象ったペンダントで、フローラが大魔王ルシフェルから授かったのは漆黒、シュバイツが授かったのは白銀であった。効果は不明だが何かしら、大天使の加護が付与されているはず。
「念じれば私に直接繋がります、困った事があれば頼りなさい」
「それは法の力を借りられるってことか?」
「シュバイツが望めば、いつでも。ワイバーンの件は聞かなかった事にしてあげましょう、全くもう……私をこんな気持ちにさせるなんて」
そう言い残し、法の原理原則を曲げた大天使は、すうっと消えてしまった。セネラデが言うには、続きを食べに丘の鍋へ戻ったんだとか。そして彼女は足下にいた伊勢海老をむんずと掴み、シュバイツの胸へぐりぐりと押しつけてきた。
「これは丸焼きが良かろう、フローラの嫉妬の炎でな」
「フローラが嫉妬? 誰にだよ」
「……ありゃまあ」
大天使が人間に好意を抱くなど、数千年に一度あるかないか。だから天使にならないかと、ジブリールは尋ねたのだ。それをこやつはまるで分かっておらぬと、セネラデは盛大な溜め息を吐く。
「知らぬが仏とはこのことかのう」
「何か言ったか」
「いんや、にぶちんに話しても詮無きこと。ところでそなた、さっき嘘や隠し事が出来ないと言ったな。女装して性別を隠すこともあると聞いておるぞよ、矛盾しておらぬかや?」
「女装した俺も俺だからな、別に隠してるわけじゃない。フローラに頼まれれば女を演じる、それだけのことさ」
「ふむふむ、フローラありきの役者という訳か、ならば納得がいく」
さて他に持ち帰れそうな食材はと、セネラデが海底の物色を始めた。この人はと苦笑しつつ、シュバイツは押し付けられた伊勢海老を眺める。産卵時期なのか、お腹には粒々の卵がいっぱい。
「ああ!」
「どうしたのじゃ」
「卵の探し方、まだ聞いてない」
「
「へ?」
「本来は血縁関係を調べるスペルじゃがの、ワイバーンと卵が赤い糸で繋がり、可視化できるようになる。昼間は見えにくいゆえ、夜間に上空から使うと良いぞ」
「ありがとうセネラデ!!」
「……へ?」
邪が無いと言うか何と言うか、シュバイツは嬉しさのあまり、思わずセネラデを抱き締めていた。それが何を意味するか、いかに重大なことか、彼は分かっていない。
精霊とは本来、気に入った人間を仲間にしようと、精霊界へ引きずり込む怖い存在だ。親愛の情を示し抱擁なんてしたら、獣人化を防ぐ魔法なしで精霊界に放り込まれるのは必定。こやつは無自覚の女たらしじゃと、遠い目をする海龍さまであった。
「シュバイツ、そのペンダントって」
「ジブリールからもらったんだ、フローラ」
「その天秤を象ったブレスレットは?」
「セネラデから付けてろって言われて。そうそう、卵を探す方法は聞いてきたぜ」
手鏡の向こうから、よっしゃでかしたとヴォルフの声が聞こえてくる。ならば作戦は日が沈んでから決行と話しはまとまり、フローラは手鏡を閉じた。
そしてさてとと、相方を頭のてっぺんから爪先まで、視線を這わす大聖女さま。彼女には見えるのだ、シュバイツが神獣と大天使の、加護による淡い光で包まれているのが。
変な事はしてないだろうし起きてない、それは女の直感で分かる。だがセネラデとジブリールから寵愛を受けたのは間違いなさそう。これは私もうかうかしてられないわねと、シュバイツに満面の笑みを浮かべるフローラである。同じ女として何かを感じ取ったのか、アリーゼがちょいとびびってます。
「ところでこの伊勢海老、どうしたらいいのかしら」
「フローラに焼いてもらうのがいいって、セネラデが言ってたぞ」
ふうんとフローラは、ブイヤベースの鍋から離れないセネラデとジブリールに、小さく手を振る。協力してもらったのだから一応の社交辞令、気付いた向こうの二人も手を振り返してきた。こっちに来ないところを見るに、基本的にはフローラとシュバイツの邪魔をする気はないっぽい。
神界と精霊界のお偉いさんに好意を持たれるのも、シュバイツの人徳かしらと伊勢海老を持ち上げるフローラ。そこへケイオスが焼くのでしたらこちらをどうぞと、バーベキュー用のスタンドコンロを持ってきた。周りをよく見ており、気が利く執事長である。
「焼いた卵も美味いよな、アリーゼ」
「海老味噌も捨てがたいですわ、シュバイツさま」
「プリップリの身に卵と海老味噌を乗せるのですよ、お二人とも」
ケイオスがそんなこと言っちゃうもんだから、二人ともトングとナイフを手に構えちゃったよ。私は焼きもちなんて焼かないわよと心を落ち着かせ、フローラは火属性の教会魔法で伊勢海老をこんがり炙っていく。
「見事な伊勢海老よね、ダーシュ」
「美味そうだな、キリア」
「タイミングが良かったかな、ディアス」
「これも天のお導きってね、ケバブ」
鍛冶工房へクロムを届けたキリアとダーシュ、切りが良いところで腰を上げたケバブにディアスも、フローラたちと合流。女王のテーブルが一気に賑やかとなり、伊勢海老が解体されていく。
肉や野菜も焼きましょうと、ケイオスがどんどん並べ始めた。ペンしか持たない人かと思いきやナイフを器用に動かし、カボチャやタマネギをスライスしてるよ。この執事長さん、もしかしてアウトドア派?
「向こうでそんな事があったのですか、フローラさま」
「今夜は卵の奪還作戦よ、キリア」
「斬岩剣は打ち終わりそうか? ケバブ」
「夕方までには、シュバイツさま。ミン王国との時差を加味すれば、丁度良い時間になるかと」
剣の鞘は兵站部隊の、木工職人と彫金職人が請け負っている。すぐ渡せるでしょうとディアスが、こんがり焼かれたフランクフルトを頬張った。騎馬隊の剣を全て打ち直し鞘も新調したから、職人たちも慣れているのだ。
「向こうは盛り上がっておるようじゃな、ジブリール」
「行かないのですか? セネラデ」
「そなたに抜け駆けとか言われとうない」
「あら、何を今さら。まさかあなたまで加護を授けるとは、想定外の遙か外ですわ」
「ほだされたと言うかの、あんな無邪気な目をされてしまっては」
人間のくせにあの目はずるいと、二人はムール貝の白ぶどう酒蒸しを頬張る。美味しいともりもり食べてくれるので、宮廷料理人のジェブスが上機嫌だ。使用人たちもこんな機会は命日くらいだから、あれやこれやとオーダーしている。
「シュバイツが何を望んでいるか、そなたも気付いておろう」
「人間として輪廻転生の中にいたいから、天使にも精霊にも、種族変更をする気は芥子粒ほどもない」
「まあそんなところじゃな」
「でも私たちを射止めたのよ、本人が意識するしないに関わらず」
責任は取ってもらわないと、そう言ってぶどう酒を口に含む大天使さま。子種だけはもらわないと、そう言ってムール貝の殻を皿に置く神獣さま。ならフローラをどう説得しましょうかと、二人は思念でよろしくない相談を始めちゃう。
こうなると神獣も大天使も、魔族のサキュバス姉さんと変わらない。好きになった人間の子供が欲しいから、あの手この手でシュバイツから抜こうとするのだろう。
「見るがよいジブリール、どうするね」
「罪がないと言いますか、こっちが恥ずかしくなりますわね」
視線の先でフローラとシュバイツが、おいでおいでと手招きしている。顔を見合わせ、苦笑しつつ肩をすぼめるお二人さん。変に策を弄するよりもとセネラデが、正攻法で行きましょうとジブリールが、揃って席を立つのだった。
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