第86話 魔族のサキュバスお姉さん
もう少しすれば夜が開ける、しんと静まりかえったフローラ軍の野営地。
それでも三交代で歩哨につく兵士らが、周囲に目を光らせていた。三人娘が夜食におにぎりを配布するので、腹は満たされており気力も充分だ。
そんな中、兵站エリアにふわりと舞い降りたサキュバス。彼女は風景と同化できる特技を持ち、警戒に当たる兵士らは全く気付かなかった。敵に回すと厄介なことこの上ない、妖艶な魔族のお姉さんである。
同化を解いた彼女が粒子を集め、展開した衣服はハイレグのレオタード。非常にけしからん……もとい男の本能をくすぐってしまう姿だ。キリアが他に衣装パターンは無いのと、見かねて問い質したらしい。セネラデが衣装替えする位だから、あなたも出来るのよねと。けれど本人いわく、精気を吸う悪魔が肌を隠してどうするのと、まるで聞く耳を持たないから困ったもんだ。
「サキュバスじゃないか、深夜のお散歩かい」
「あらゲオルク、あなたこそこんな時間に、何をしているのかしら」
「はっは、歳を取ると睡眠時間が短くなっていくもんさ。目が覚めちまったら研究、それが私のライフワークでな」
「研究?」
見るかねと、ゲオルクは自分のテントにサキュバスを誘う。余生が短そうな男だと思いつつ、サキュバスは唇から二本の牙をのぞかせ、付き合いますわと微笑んだ。
「敵陣に行って来ただって?」
「そうよゲオルク、手の施しようがない死を待つだけの、重傷者がいっぱいいましたから。良い夢を見ながら死ねるよう、精気を吸ってあげたの」
「良い夢……か。死が確定しているなら、それは幸せかも知れんな」
聞かずともえちえちな夢なんだろうなと思いつつ、ゲオルクは彼女に飲むかねとぶどう酒の革袋を手渡す。そしておつまみにと出したのは、中に青い縞模様があるブルーチーズであった。
「それで、あなたの研究って?」
「ここに並んでる瓶さ」
フローラとグレイデルに三人娘ならば、致命傷でなければどんな重症患者も救えるだろう。だがそんな回復魔法をあの若さで、連続行使できる逸材など、大陸広しといえどもフローラ軍にしかいない。ゲオルクは医師として別の角度から、人類に役立つ技術の確立に取り組んでいた。
棚に並ぶどの瓶も中身はカビ、上から見ても横から見ても、斜めから見てもカビである。カビを育てるのが趣味なの? とサキュバスに問われ、ゲオルクはそんな訳あるかいとブルーチーズを頬張った。
「若い頃に食中毒の原因となる、ブドウ球菌を研究してたことがあってな。菌を培養してたらその培地に、青カビが生えてしまって」
「あらまあ、失敗しちゃったのね」
「培養はな、ところが青カビは勢力を拡大し、ブドウ球菌を壊滅させたんだ。それを今頃になって、思い出したんだよ」
楽しそうに笑うゲオルクの目は、まるで昆虫採集に出かける少年のよう。
もっと早く出会っていれば、彼の精気を吸ってみたかったなと、サキュバスはぶどう酒を口に含む。男性の精気にもランクがあって、サキュバスにも選ぶ権利はある。低俗な男の質が悪い精気だと、蛇蝎がごとく嫌い見向きもしない。
「カビは押し並べて人間に害のある、毒素を生成するもんだ。ところがこのブルーチーズ、熟成させるのに青カビを使うが、不思議なことに毒素を出さないんだよ」
「そっか、その仕組みを突き止めて、何かやろうって訳ね」
「そう、私は抗生物質と呼んでいる。病原菌を撃退する、新薬の開発さ。不治の病と言われる敗血病も結核も、性病だって治せるかも知れん」
人間は科学の発展と供に自惚れ、やがて信仰心を失ってしまう。だが目の前にいる枯れた医師は信仰を堅持し、少年の心で人類に貢献しようとしている。老境に達しているけど気は若いわねと、魔族のお姉さんは目を細めた。
果たして新薬が完成するまで、この男は生きているだろうか。サキュバスはそう思いながら、ブルーチーズを頬張りぶどう酒で流し込む。
「終末は神々が引き起こすとされているけど、実際には手を下す前に、人類が自滅する場合の方が多いのよ」
「そうなのかね?」
「フローラの隕石落としどころじゃない、大量殺戮兵器を使ってしまうお馬鹿が出ちゃうの。それで世界の氷河期を早め、人類が滅亡した例もあるわ」
愚かなことだなとゲオルクは、手のひらにあるブルーチーズに視線を落とす。国主となる者の資質が問われるわねと、サキュバスはその手に自らの指先を添える。するとゲオルクの体に、彼女から波動が伝わってきた。気付けば老眼鏡の度数が合わなくなってきた、彼の視力が戻ったではないか。
「いま……何をした?」
「んふふ、集めた精気をね、ちょっぴり分けてあげたの。あんまり根を詰め過ぎないようにね」
魔族のお姉さんはウィンクをして、ごちそうさまとテントを出て行った。裸眼で自分の指紋が見えるなんて、何年ぶりだろうかと呆けるゲオルク。空が白み始め朝食の準備を始める、糧食チームの活気溢れる声が聞こえてきた。
「フローラはまだベッドの中かね? シュバイツ」
「大技を使ったからな、そのうち目を覚ますよクラウス」
野営テーブルで朝食を摂る首脳陣が、箸を動かしながら軍議を行なっていた。休戦協定にフローラは期限を設けておらず、オレンジ旗は立てたままである。敵に猶予を与えたも同然だが、彼女としては白旗を揚げて欲しかったのだろう。
「意固地と言うか、降伏する気は無さそうですな、ゲルハルト卿」
「そのようだなコーギン、フローラさまの慈悲は彼らに届かなかったようだ。シュルツ、軽装兵による投石器の準備は?」
「六基全て準備万端、いつでも撃てますよ」
軽装隊長のシュルツとアムレットが、岩でも火を点けた油壺でもと、納豆をぐるぐるかき混ぜる。刻みネギと練り辛子はお好みで、出汁醤油を注ぎまたぐーるぐる。
魔族のお姉さんから情報が寄せられ、敵軍でまともに戦える兵士は二千余りと判明していた。戦力はフローラ軍ネーデル軍の連合と拮抗しており、大聖女が目覚めなくとも物理でなら渡り合える状況だ。
「問題は増援される魔物の規模だな、シュバイツ」
「そうだなヴォルフ、どれだけの魂を犠牲にすることやら」
シュバイツが焼いた塩鮭の身をほぐして頬張り、ヴォルフが
「どうしたのだ、二人とも」
「魂を集め放題だクラウス、なあヴォルフ」
「聖職者によるお清めが無ければ、いいように使われるな、シュバイツ」
隊長たちもようやく気付いたようで、敵軍の戦死者は何名だろうと眉を曇らせた。この無意味な合戦そのものが魂を集める、大がかりな茶番劇であることは疑いようもない。ネーデル王国はそのための、人柱にさせられるところだったのだ。
「すみません、グレイデルさま」
「いいのよキリア、ネーデル軍の糧食を見たら、放っておけないものね」
ワイバーンでキリアを後ろに乗せ、グレイデルは国境近くの町へ降り立った。向こうの食事があまりにも貧相で、気の毒になってしまったとも言う。
固い黒パンと味の薄い豆スープに干し肉と、食糧事情はあんまりよろしくない。急ごしらえの軍団で、兵站チームがうまく機能してないみたいだ。
ネーデル国境警備兵に聞いたところ、この町には近隣から農民が集まり朝市が立つそうな。肉でも小麦でも野菜でも、どんと買いますよとキリアが鼻息を荒くする。あんまり気張るなよと、ダーシュが心配そうに買い物籠から顔をのぞかせた。
「ここにある鶏肉ぜーんぶ買うわ、あとそこの卵も」
「あ、ありがとうございます。ところでその、そこにいる生き物は……」
「人に害は無いから気にしないで、モツや鶏ガラもあるなら買うわよ」
「こけっ」
朝市がワイバーンで騒然となるも、キリアは意に介さず食材を集めていく。国境に軍勢が集結しているせいか、本来は賑わっているはずの朝市だが買い物客はまばらだった。そんな中ローレン硬貨でがんがん買っていくキリアに、うちにも寄って下さいとあちこちからお声がかかる。
「ワイバーンはもっと増やした方が、軍団には便利なんだろうな、グレイデル」
「そうねダーシュ、フローラさまが動けない状態でも、近くの町や村から食料を調達できるもの」
「せめてキリアと三人娘には、欲しいってところか」
そんなわんこ精霊の耳が、異変を捕らえぴんと立つ。グレイデルも魔力の動きを感じ、精霊さん達が騒ぎ出した。悪しき魔物を召喚する魔法陣が起動したと、グレイデルの青龍さんが告げる。
「八千の軍団だったのだから、敵さんも考える事は同じみたいね、ダーシュ」
「食料の購入じゃなくて、略奪に来ただろ? グレイデル」
「あはは、そうとも言うわね」
「笑い事じゃないだろう、どうする」
「フローラさまの影響を受けちゃったのかしら、この町と朝市に出店している農民たちを、私は見捨てることが出来ない」
「ならば戦うまでだな、いいぜ付き合おう。キリアに話してくる」
買い物籠から首を抜いたワイバーンに跨り、グレイデルは怪しい気配のする町はずれの林を見据える。後ろでダーシュから話しを聞いたキリアが、避難するよう人々に呼びかけている。けれど事態を把握出来ない彼ら彼女らは、戸惑うばかりで動こうとしない。
「来るわよ! キリア、ダーシュ、乗って!!」
グレイデルの合図に、あいよとキリアの襟を咥え、ワイバーンの背に飛び乗るダーシュ。それと同時に主人の意を汲んだ、翼竜グレオが空へ舞い上がった。林の木々を揺らし這い出してきたのは、蛇のような蛇でないような、奇妙な長い魔物だった。
「あれは何なのかしら」
「ニーズヘッグよグレイデル」
「あらサキュバス、いつの間に」
「料理を覚えるのが私の任務ですもの、面白そうだから食材調達の見学に」
「それよりも衣服を身にまとってもらえないかしら」
「あら失礼キリア、これでいいかしら」
やっぱりハイレグレオタードで、この人はと顔に手を当てる兵站隊長さん。まあ蝙蝠の翼を持つ魔族が、その辺を飛び回ってたら人々が混乱する。食材調達の邪魔にならないよう、彼女は風景に同化していたのだろう。
「正しく敬えばニーズヘッグは終末が訪れた時、信仰心のある者を救う存在よ」
「悪しく敬えば? サキュバス」
「脳筋なだけの邪竜ね、グレイデル。殺戮の限りを尽くし、死者の血をすするわ。あれを討伐する手の内が、あなたにあるのかしら」
「フローラさまから教わった、古代竜のスペルを試そうと思うの」
いいわよお手並み拝見と、魔族のお姉さんはオブザーバーに徹するもよう。そうこうしてる間にも、ニーズヘッグは町外れの建物から破壊し始めていた。脳筋と言うだけあって頭突きと尻尾の薙ぎ払いで、レンガ造りの建物がどんどん崩壊していく。
「地層に眠る岩々よ、この領域で暮らす民が危機に瀕しています。我が名はグレイデル・フォン・マンハイム、邪に打ち勝つ力をお貸し下さい」
開いた扇を大地へかざすグレイデルのスペルに応じ、あちこちの土が盛り上がりはじめた。かつてフローラが神木を動かしたように、奇岩霊石にも意思が宿る。へえそう来たのねと、サキュバスが楽しそうに宙で胡座をかき腕を組む。
「出でよ! ストーンゴーレム!!」
盛り上がった地面から岩の巨人が次々と現れ、ニーズヘッグに取り付いていく。押さえ殴り肉を掴んで引きちぎる、その光景は圧巻であった。腰を抜かし地面にへたり込んだ人々が、胸の前で十字を切り祈りを捧げていた。
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