第62話 法王領の首都ラウムへ
三人娘の出身であるミン王国には、七五三と呼ばれる行事があるそうな。
医療が発達していないこの世界、生まれた子供が七歳まで生存する確率はあんまり高くない。三歳まで生き残りました、五歳まで生き残りました、七歳まで生き残りました、それを神と精霊に報告し感謝するのが七五三だそうで。
「ジョシュア候には三人の子がいたそうだが」
「成人まで生き残ったのはマリエラ姫だけですわね、ゲオルク先生。生まれたばかりの妹君、すこやかに育ってくれれば良いのですが」
「盲腸なら外科手術でなんとかなるが、感染症はどうにもならないからな。痛くはないかね? シェリー」
「大丈夫です、先生お上手ですわね」
褒められても嬉しくないと渋面を作るゲオルクに、あら感謝してますわと笑みを浮かべ服を着るシェリー。戦闘中ソードスミスのディアスに、胸を触らせてあげたお姉さんだ。
彼女がゲオルクに施術してもらったのは、ペッサリーと呼ばれる避妊具である。娼婦が妊娠してしまったら仕事にならないため、精子が侵入しないよう子宮の入り口に蓋をしたのだ。
子供の生存率について話をしていた訳だが、子供を作らない施術をしているこの矛盾、ゲオルクとしては複雑な心境なんだろう。けれどこれが出来る医師は少なく、移動遊郭の娼婦たちからは重宝されていた。
「ディアスがお前さんにぞっこんだぞ、男にしてもらったから嫁に欲しいと話していた」
「筆下ろしは娼婦のたしなみ、けれど私は暗殺集団の一員。長い人生の中で出会った通りすがり、そう思って欲しいのですけど」
ここで言う筆下ろしとは、男子が童貞を脱するってこと。男にしてもらったも、それと同義の意味合いになる。ディアスとシェリーは傍から見ても仲は良いのだが、どうも彼女は結婚まで考えていないようだ。
「商売女と割り切って欲しいのかね?」
「ソードスミスですもの、もっと相応しいお相手がいるはず」
「ディアスが娼婦に差別意識を持ってない以上、お前さん家庭を持って幸せになってもいいだろう」
移動遊郭の女性たちは親の借金を背負ったとか、そんな理由で娼婦に身を落とした訳ではない。孤児から選抜され夜伽に乗じ対象者を暗殺する、そのための教育と戦闘訓練を施された精鋭である。信仰心は厚く立ち居振る舞いや、教養面でも申し分ない才女ばかりだ。
「見受け金は必要なく、結婚が理由なら足抜けは自由とラーニエは話していたが」
「そんな問題ではありません、ゲオルク先生。ディアスは私のような者よりも、後ろ暗い過去のない伴侶を娶るべきなんです」
「それは本心から言ってるのかい?」
すんと鼻を鳴らし、シェリーは救護テントを出て行った。誰にだって幸せになる権利はある、どうして自分から線を引くのかと、ゲオルクは吐息を漏らす。あれだけ気が合う仲ならば、迷わず飛び込んで行けば良いものをと。
――その頃こちらは女王テント、シュバエルが挙動不審になっていた。
皇族で女装男子のシュバイツに、シュバエルと女性名を与えたのは何を隠そうフローラである。マリエラとメアリにばれてしまったから、呼び名はもう本名で構わないはず。
ところが本人はフローラに付けてもらった、シュバエルが気に入ってるっぽい。そんなわけでレディース・メイドに扮している間は、今まで通りシュバエルで通す事になった次第。どっちでもいいとは隊長たちの談で、クラウスがいいのかと念を押したらそれで頼むと返ってきたそうな。
「あの、フローラ」
「どうしたのシュバエル、なんだか変よ」
赤い小旗が出ていなければ、女王テントへの出入りは自由なシュバエル。近頃そわそわしているのは、ラーニエとマリエラから早く口説けと責っ付かれているからだ。
既に法王領へ入り、首都ラウムはもう目と鼻の先。これからはブロガル王国の王子として振る舞わねばならず、レディース・メイド役が出来る時間は残り少ない。
「ミリア、リシュル」
グレイデルの目配せに、黙って頷くレディース・メイド。人払いの合図であり、三人はテントの外へ出て行く。そこでグレイデル、赤い小旗を立てるのは忘れない。シュバエルが暴走してフローラを押し倒したとしても、それはそれでとむふんと笑うこの三人、確信犯である。
キリアが打ち立てた壮大な計画、それはシュバエルを皇帝にしてお国替え。ローレン王国と皇帝領がひとつになり、大国家が出来上がることになる。新たな千年王国に相応しいと、家臣たちと居候がその企てに乗っかったのだ。知らないのは当のフローラとシュバエルのみ、いったいどうなりますことやら。
「三人とも、どうしちゃったのかしら」
「俺としてはその、助かる」
「何が助かるの?」
「あいやその、俺はさ」
テーブルの向こうでもじもじしているシュバエルに、リンゴの皮を剥きながら微笑みかけるフローラ。その瞳が一瞬アースアイへと変わり、彼は吸い込まれそうな感覚を覚える。そんな彼女が持っているのは
「俺さ」
「うん」
「フローラが好きだ」
「ありがとう、嬉しいわシュバエル。私もあなたのことが好きよ」
それはと身を乗り出すシュバエルに「もちろん異性としてよ」と付け加える大聖女さま。自らドレスを破り剣を握りカマキリに突進した時から、フローラはシュバイツを男性として意識し始めたと話す。
そもそも好きでもない相手だと、魔人化できないと彼女は笑う。あれを実現するのはカップルの愛を感じた、精霊さん達が発動してくれるのだからと。
でもとフローラは手の動きを止める、国主同士の婚姻は難しいわよねと。確かにそうなんだよなと、彼女が剥いてくれたウサギさんを頬張るシュバエル。もし法王がシュバエルをブロガル王国の君主と認めたら、二人の婚姻は絶望的で結ばれない恋となるからだ。
「いっそのこと、法王さまの不興を買おうかな」
「それは嫌、貴方は貴方らしく、法王さまの判断を仰いで欲しい」
女王テントに、ちょっとした沈黙が訪れる。家臣と居候が勝手に画策している事を知らないから、少々おセンチになってしまうこの二人。
「ねえシュバエル、やっとまともに弾けるようになったの、一緒に歌わない?」
「あれか?」
「うん、貴方も好きでしょ」
フローラが竪琴を手に取りぽろんと鳴らし、いいぜと頷くシュバエル。それは彼がボイスチェンジをかけられた時、三人娘からリクエストされ歌った曲だ。
讃美歌第二編第百六十七番、曲名はアメイジンググレイス。フローラが練習曲に選んだのは、シュバエルの好きな曲だったから。
主旋律をフローラが歌い、シュバエルが三音下で重ねる。そのきれいなハーモニーに、軍団の誰もが手を止め聞き入った。
非人道的な奴隷商であった、この作詞者は己を恥じて牧師になる。奴隷貿易に関わったことへの後悔と、それにも拘らず赦しを与えてくれた神に対する、感謝が歌詞に込められた曲だ。
“なんという神の恵み”
“こんな愚か者を救ってくださった”
“一度は道を見失ったがもう違う”
“暗闇だったけれど、今の私にはちゃんと見えている”
フローラとシュバエルの歌声が、野営地に流れていく。
正しき信仰に目覚め真剣に祈りを捧げたならば、逆境にも誘惑にも負けない生き方を神は示してくれる。神の恵みと信仰の尊さを、切々と綴った歌詞が軍団を優しく包み込んだ。
吟遊詩人ユニットが、まだ拙いフローラの竪琴に伴奏を入れた。清らかな歌声と楽器の奏でる音色が、野営地を神聖な領域へと変えていく。祭壇にいたヨハネスとシモンズにレイラが、口ずさみながら両手を合わせる。
張り巡らされたロープにかけられている、洗濯物が風に揺れていた。有り難いことに娼婦らが、軍団の洗濯を三食のお礼として請け負ったからだ。
彼女たちもフローラとシュバエルの賛美歌に作業を止め、胸の前で十字を切り手を組んで瞳を閉じる。娼婦で暗殺者という因果な商売をしているからこそ、尚更この曲は胸に深く刺さるのだ。
「シェリー、どこだい?」
「ここよディアス」
干されている洗濯物をかき分け、ソードスミスが姿を現す。心に染み込んでくる歌だったねと、微笑む彼の目はシェリーに真っ直ぐ向けられていた。
「シェリー」
「うふふ、今夜も私を指名してくれるのかしら」
「君を永久に指名したい、俺が棺桶に入るまで」
柔らかい風が吹き、揺れる洗濯物。
それってと、作業を再開した娼婦たちが顔を見合わせる。包帯を洗濯してもらおうとやって来たゲオルクが、干したシーツの陰にいる二人の会話に、思わず立ち止まってしまう。
「こんな場所で?」
「ここじゃダメだったのか?」
「私が何歳か知ってる?」
「年上なのは知ってる、いくつなのか教えてくれるのかい?」
もしかしてシェリーは年上ってのも気にしてたのか、いやあり得るなとゲオルクは耳を傾ける。医師として命を尊ぶ者として、彼は飛び込め飛び込めと念じてしまう。
「姉さん女房、別に珍しくはないだろう、シェリー」
「あなたは堅気の職人、探せばもっと相応しいお相手が見つかるはずよ」
「その見つけた人が今、俺の目の前にいるんだ。相応しいって何だ? そこんとこ詳しく頼む」
もう少し言い方ってもんがあるだろうと、手にした包帯を握り締めてしまうゲオルク。そこへ全くだなと思念が届き、気が付けば足下にダーシュがいた。
軍団の誰もが分かっているから、今シェリーを指名しているのはディアスだけ。いっそのこと避妊具に穴を開けたらどうだと、このわんこ聖獣とんでもないことを言ってくれやがります。
「私は暗殺者、腹上死って言葉、知ってるかしら」
「やってる最中の突然死だろ、シェリーの上なら俺は本望だぜ」
「……ばか」
干していたシーツが激しく揺れ、飛び込んだなとゲオルクは目尻に皺を寄せた。もう避妊具は要らないなと、ダーシュが行事用テントへ足を向ける。また結婚式と宴会で、軍団の兵士たちが大喜びするだろうと言い残し。
「妻帯者になるんだ、ディアス」
「そう言うケバブはどうなんだよ」
「ジュリアはまだ成人してない」
「いやだからこそ、口説いて婚約しろよ。他の男に取られてもいいのか?」
フローラという名前は、春と豊穣の女神って意味だ。どうも彼女の歌は、軍団に春をもたらしたようで。もちろん物理的にではなく、精神的にという意味で。
ジャンとヤレルも意思を固めたらしく、鍛冶職人に婚約指輪の発注をするもよう。ケバブとディアスはソードスミスだから、もう思い人の誕生石に合わせ作成済みだったりして。
ところでフローラ軍、実は奇襲に遭う直前だったのは誰も知らない。森の影に潜んでいたのはズルニ派の刺客で、弓矢による遠距離攻撃のはずだった。もちろんターゲットは、フローラにクラウスとマリエラ。
ところが彼らは引き絞った弓の弦を緩め、構えた矢を矢筒に戻したのだ。どんな悪人であろうとも、妻子を慈愛する心があるならば、それは善性の現れ。大聖女の賛美歌はその僅かに残る善性を揺り動かし、計画の実行を断念させたのである。
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