第27話 あの声の正体

 イリーナはひたすら走り続けた。霧が薄くなり、山か森らしきものも見えてきた。そして足の裏の柔らかい感覚――土を踏んで、イリーナは自分が橋を渡り切ったことに気付いた。


(着いた?)


 足を止めて振り返った時だった。海の方から轟音が響くと共に、大量の水しぶきが飛んできた。同時に、青紫色の光の帯――幻水橋ファントムが、天上に吸い込まれていくように消えていくのが見えた。


《カエッテキタ》


 頭の中に響く声。だが、いつもと違う声だった。これまでは獣が低くうなるような声色だったのが、今回はクリアに聞こえてきた。それは紛れもなく――少女の声だった。イリーナは思わず尋ねた。


「帰って来たって……ここはあなたの故郷なの?」


《ソウ》


 その瞬間、心臓をわしづかみされたようだった。頭の中に響く声が、イリーナの問いかけに返事をしたのだから。


「あなたは……あなたは誰なの?」


《センタルティア》


「センタルティアって……王女様ってこと? 何で、私の頭の中にいるの。一体何が起きているの?」

「幻水橋が落ちたんだ」


 イリーナはびっくりして飛び上がった。イリーナのすぐ横に、置き去りにしたはずのレガトスが立っていたのだ。


「レガトスさん……何で?」

「何でとは? 海のもくずになれとでも言うのか」


 レガトスは涼しい顔をしていたが、髪は乱れ、肌も煤で汚れて小さな傷がついていた。あの混乱の中を必死で逃げてきたのだろうか。

 はっと気付くと、頭の中の声は聞こえなくなっていた。


「また聞こえるまで、待つしかないか……」


 レガトスは首をかしげた。


「誰を待つのだ? ああ、あの下僕のことか」


 イリーナは「あ」と声を出した。リシンのことをまたもや忘れていた。幻水橋の方から走ってきた旅人たちの中を見たが、リシンの姿はなかった。


「賢い奴だったから、小島を見つけて避難しているといいが」


 そう言って目を細めるレガトスを見ながら、イリーナは考えた。リシンのことも気になるが、レガトスをどうするかが先だ。


(この人は信用ならない。隙をついて振り切って逃げるか)


 イリーナが後ずさりしたので、レガトスもさすがにマズイと思ったのか、


「安心しろ。俺はこの国の未来を憂う一国民にすぎない」

「そうですか。それじゃ仕事は? 家族は何人?」


 矢継ぎ早に質問したものの、レガトスに答える気はなさそうだった。それはつまり、何か隠したい事実があるということだ。イリーナはさらに質問した。


「一国民なのに、何でスパイなんかしてるんですか?」

「別に、スパイというほどのものでもない。元帥殿が何を考えているのか調べていただけだ」


 レガトスはおもむろに歩き出した。イリーナも後につく。


「それだけですか。敵の……えっと、例えば対立してるせっしょうどの……摂政殿の命令とかではなく?」

「別に命令ではない」


 何の得にもならないのに、みずから危険を犯してまでスパイなんてするものだろうか。ますます不信感が募った。


「で、何が分かったんですか?」

「兵たちの話を聞いたところ、元帥殿はセンタルティア様を王都に連れ帰った。その次に、戴冠の議たいかんのぎを受けさせるつもりだ」

「戴冠の儀って?」

「王室に伝わる秘密の儀式だ。俺もよく知らないが、儀式というのは権力装置けんりょくそうちみたいなものだ。あくまで形式的なものだろう」

「はあ……?」


 レガトスの言葉は難しすぎて分からなかったが、フェルニナが心配でならなかった。あんな恐ろしい魔法を使うケルサスに囲まれて、儀式まで受けさせられて、フェルニナが無事でいられるとは思えなかった。


「アウルム王国に着いたら、できる限り案内してやろう」


 レガトスの提案に、イリーナはしばらく思案した。


(信用ならない……けど)


 アウルム王国がどんな場所か分からない上に、その秘密の儀式についての情報もない。とりあえず、アウルム王国に着くまではレガトスに同行することにした。

 しばらく歩くと霧はほとんど消え、森の中に入った。空を見上げると、紫がかった白い月が浮かんでいた。


(変な色……それに、もう夜だったんだ)


 イリーナは故郷のブリューソフからの道中を思い出した。フェルニナの家から自宅に戻ったものの、明け方に家の中にリシンが来て逮捕されて、そこから尋問室に1日閉じ込められた。そしてリシンと共にこの世界に来て、もう1日経ったのか。


(あれ、私……3日くらい寝てない?)


 その事実に気付いた瞬間、視界は暗転した。


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