第2部 アウルム王国篇

第20話 未知の世界へ

 イリーナは立ち尽くしていた。そこは、青々した草原だった。

 空は澄み切っており、そよ風が草を優しく撫でている。先ほどの濃霧と、突き刺すような冷風がまるで嘘のようだった。


「おい、正気に戻れ」


 リシンの呼びかけに、イリーナは振り返った。


「ちょっと驚いただけ。とりあえず先に進もう」

「それしかないな」


 そう言いながら、リシンはネクタイを緩めた。額には汗が浮かんでいる。ジャケットから縞柄しまがらのハンカチを取り出すと、額を丁寧に拭い始めた。


「旅行命令は後で申請するか……」

「りょこうめいれい? 旅行するのに命令がいるの?」


 イリーナが不思議そうに問うと、リシンはやれやれと首を振った。


「独り言だ。忘れろ」


 2人はしばらく草原を歩いた。リシンは黒いスーツのジャケットを脱ぎ、イリーナもTシャツ一枚になった。

 途中から坂道になり、さらに歩くと、眼下に町が見えてきた。町の向こうには海があった。


「リシン警部、ちょっと待ってて」


 イリーナはそう言うと、道の脇にあった細長い木のてっぺんまで、あっという間によじ登った。「猿か」とリシンは肩をすくめ、木の上を見上げた。

 イリーナは町の様子を観察した。木造の小さな家々が立ち並び、その煙突からはまばらに煙が上っている。往来する人々の姿も見えた。


(そういえば、こちらの国の人は魔法を使うと聞いた。あまり接触したくないけど……状況を確認するには、話しかけてみるしかないか)


 イリーナが木から降りると、リシンが言った。


「おい、偵察に行ってこい」


 イリーナは「は?」と思わず声を上げた。


「偵察って、私だけで?」

「俺が行くと目立つ。子供なら話しかけても警戒されないだろう」

「いやでも、子供だとナメられることもあるし、大人の方が説得力があるよ」


 イリーナが反論すると、リシンは馬鹿にしたように鼻を鳴らした。


「お前は、俺に命令できる立場か?」

「……え?」


 リシンは人差し指をイリーナの額に押し付けて、ぎょろりとした目で言った。


「よく聞け。お前は子供で、金もなく、学もない、しかも殺人事件の容疑者だ。片や俺は大人で、金も学もある、清廉潔白な公務員だ。いいか、指揮官は俺だ。勘違いするなよ。今ここがどこで、どうやってアウルム王国まで行くのか、聞き出してこい!」


 リシンは言い終わると、イリーナに顔を近づけて大きく舌打ちした。

 そのとき、イリーナはスラムで身に着けた大切な教訓――「ブリューソフの金持ちはだいたい嫌な奴」ということを俄かに思い出した。誰に対しても平等に接するフェルニナとばかり付き合っていたから、すっかり忘れていた。


(私は、何でこの人と協力しようと思ったんだ……)


 イリーナは、霧の中でリシンの手を取ったことを猛烈に後悔した。だが、ここで揉めても仕方ないので、やむなく一人で町に下りることにした。

 町に続く道を下っていると、両脇に畑が広がっていた。低木が等間隔に植えられており、葉の合間から赤い実をぎっしりつけた房が垂れ下がっていた。美味しそうな果実で、思わず生唾を飲み込んだ。


「なあ、お嬢さん!」


 イリーナは驚いて声の主を見た。低木の合間で作業をしていた男が、足早に近づいてくるところだった。イリーナは動揺を気取られないように、笑みを浮かべて答えた。


「こんにちは、おじさん」

「やあ、それより何でこんなところに。丘の上から来たのか? あそこにはゲートしかないが」

「ああ、ゲート……が、どんなものか見てみたくて」


 イリーナは取り繕いつつ、男をさり気なく観察した。

 幸いにも言葉は通じるようだ。男はシャツにズボン、麦わら帽子という典型的な農夫の服装をしている。この畑の主だろうか。白髭をたくわえていて、温厚そうな老人に見えるが、大柄で体力がありそうだった。

 男の方もイリーナを上から下まで見てから、ためらいがちに尋ねた。


「お嬢さんはもしかして、その、ブリューソフから来たのか?」


 直球過ぎるその質問に、イリーナは思わず口をつぐんだ。故郷であるブリューソフとこちらの世界の国々は、断交状態にある。正直に素性を明かしてもよいかどうか、イリーナは判断に迷った。

 男は黙り込んだイリーナを見て、ふっと目を細めた。


「私の家に来なさい。怖くないよ、妻もいるから」

「……おじさんの家に?」


 ここがブリューソフであれば、もちろん知らない人間の家になど絶対に行かない。だが、今回は渡りに船かもしれない。


「……行きます」

「それは良かった。俺はタラスだ」


 タラスと名乗った男は、畑に置いてあった籠を手に取ると、道を下り始めた。5分くらい歩くと、イリーナは町はずれの小さな民家に通された。

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