第19話 アウルム王国への扉

 車を降りると、そこは見渡す限りの荒野だった。草木は一本もなく、地面はぬかるみ、霧が一面に立ち込めている。

 イリーナは荒野を前に立ち尽くしていた。すると、頭の中にまた獣のような声が響いてきた。


《カエロウ、カエロウ……》


 イリーナは不思議に思った。以前にもこの荒野を見たことがある気がしたからだった。

 茫然とするイリーナを見て、リシンは言った。


「奥に進めば進むほど濃霧になる。進み過ぎると戻れなくなるから、内務省当局が東西に長いフェンスを張って進入禁止にした」


 鉄製のフェンスごしに冷たい風が吹いてきた。イリーナは肩をさすりながら聞いた。


「濃霧の先に何があるの?」

「『未知の国々』につながるゲートがあると言われている。実物を見た者はいない。なぜなら、先に行って戻ってきた者はいないからな。陸路ではなく、海路で試みた者も同様だ」

「でも……ニナから、ブリューソフと『未知の国々』は貿易をしてると習ったけど」

「『未知の国々』の連中は、濃霧の中も迷わず歩けるらしい。連中がフェンスの前まで来たら、我々はアニマ・ストーンを受け渡し、連中から代価を貰う。それだけだ」


 リシンの話を聞きながら、イリーナはフェンスを見上げた。イリーナの身長の倍くらいで、難なく登れる高さだ。

 リシンが腕組をして言った。


「車でもう少し先に行けば管理事務所がある。使者とフェルニナが通過したかどうか、念のため聞いてみよう」

「使者は、何でニナを連れて行くの?」

「フェルニナは『未知の国々』の1つ、アウルム王国の王女なのだそうだ」 

「ニナが……王女?」

「14年前に誘拐されて、ここブリューソフで暮らしていたと」

「それ、本当なの?」

「いいや、違うな。俺が戸籍を調べたところ、フェルニナの本当の親は別にいる。実の母親にも会いに行ったが、10代でフェルニナを生んで育てられなくなり、養護施設に預けたという話だ。その後、ソロキン社長が引き取って育てたらしい。フェルニナにそっくりな顔の母親だったよ」

「じゃあ……ニナは王女じゃないってこと?」

「そうだ。だからこの話には何か裏がある」


 イリーナは悪い夢を見ている気がした。ソロキン社長が死んで、幸い命を取り留めたフェルニナは、これから自由になれるはずだった。


(また大人の都合で苦しめられるなんて、そんなの酷すぎる)


 イリーナはフェンスを見上げると、そのままよじ登り始めた。


「おい、何してる!」


 リシンは腕を伸ばしたが、イリーナは瞬く間にフェンスを越えて向こう側に着地した。


「正気か? 濃霧の中に入れば生きて戻れないぞ!」

「ニナを連れ戻す」


 イリーナはそう言うと、霧に向かって歩き出した。リシンは「くそっ」と吐き捨て、フェンスをよじ登り、イリーナを追いかけた。


「おい、死にたいのか」


 リシンはイリーナの肩をぐいと掴んだ。


「それでも行く。ニナは私の友達だから」

「ああそうかい、素晴らしい友情だな」


 リシンが皮肉っぽく笑った時、イリーナの頭の中からまた声が聞こえてきた。


《コッチ、コッチ……》


 イリーナははっと顔を上げ、辺りを見回した。遠くにぼんやりと光っている物があった。楕円の形をした光だった。イリーナはそれに向かって歩き出した。


「おい!」


 リシンが呼ぶと、イリーナは振り返った。


「リシン警部も行くかどうかはっきりして」

「何だと……?」


 イリーナの覚悟を決めた表情を見て、リシンは驚き、迷っているようだった。


「……勝算はあるのか?」

「もしかしたら行けるかもしれない。何でか分からないけど」


 リシンは少し考えてから、イリーナに言った。


「分かった、お前を信じよう」


 リシンの決断にイリーナは驚きつつも、手を差し出した。リシンもまた一瞬躊躇したが、その手を握った。

 イリーナはリシンと共に歩き出した。先に進めば進むほど、霧が濃くなり、視界は白く見通しが悪くなっていく。隣に歩くリシンを見上げると、まだ辛うじてリシンの顔が見えた。イリーナは尋ねた。


「ねえ、リシン警部は何で先に進むの?」

「俺はなめられるのが嫌いだ。『未知の国々』の使者に、このままコケにされたままでは癪だからな。使者が何を企んでいるのか、必ず真相を暴いてやる」


 イリーナには信じられない理由だった。自分のプライドを守るために、大事な命を投げ出そうとするなんてどうかしてると思った。

 さらに進むと、いよいよ霧は深くなった。もはや歩いている感覚すらも無くなり、隣にいるリシンの顔も見えなくなった。だが、イリーナには不思議と進むべき方向が分かっていた。


《コッチ、コッチ……》


 頭の中で響く声のおかげだ。この声は何なのか分からないが、声に誘導されて進むと、霧にぼんやり浮かぶ光にだんだん近づくのだった。

 リシンは、イリーナの存在を確かめるように、その手をぎゅっと握りしめて聞いた。


「おい、あの光は何だ?」

「リシン警部にも見える?」

「ああ、あんな光があるとは知らなかった。あれが『未知の国々』への扉なのか?」

「分からないけど、もうすぐ着きそう」


 しばらく進むと、ようやく光のもとまで辿り着いた。だが、光だと思っていたそれは、石壁にはめ込まれた白銀色の扉だった。その扉全体が淡い光を放っていたのだ。

 石壁は東西に果てしなく続いており、上は天まで届きそうなほど高かった。イリーナはリシンと共に石壁の扉を見上げた。


「リシン警部……これは何?」

「我が国が建築したものではない。恐らく『未知の国々』が我が国との間に設けた国境線のようなものだろう」

「そうなんだ。とりあえず、この扉を開けてみよう」

「俺の身長の3倍はあるぞ。開けられるか?」


 イリーナはリシンから手を離した。白銀の扉に手を添えて、力いっぱい押してみた。すると、重々しい音を立てて、扉が少しずつ開いた。リシンが助けに入ったが、力を入れてもぴくりとも動かなかった。


「何でだ? 俺では開けられない……?」

「私の力でも十分開けられるのに」


 イリーナはリシンと共に扉を押し続けた。扉が何とか半分開いたところで、2人は急いで中に入った。扉はまた重々しい音を立てて、勢いよく閉まった。

 リシンがスーツをはたきながら言った。


「『未知の国々』に入ったようだな。しかしこれは……」


 イリーナは辺りを見回すと――目の前に広がる光景に言葉を失った。



◆◇◆

「第1部 ブリューソフ共和国篇」をお読みいただきありがとうございます。とってもとっても嬉しいです!

 もし本作品を少しでも面白い、続きが読みたい、イリーナたちの行く末が気になると思っていただけたら、ぜひ★や応援をお願いします。作者が泣いて喜びます!

◆◇◆

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