第16話 惨劇の後
イリーナは、自分の体にまとわりつく不快な感触に、意識を取り戻した。
辺りは闇だった。イリーナは自分の体や服が、何やらべとべとした液体で濡れていることに気付いた。生臭いニオイが充満し、血だとすぐに気付いた。
階段の手すりを掴み、足を滑らさないように一段ずつ降りていく。壁伝いに扉を開けると、街灯の薄明りが差し込んだ。
室内を振り返ったイリーナは、頭が真っ白になった。男たちの無残な遺体が転がっていたからだった。
「な、何で……?」
イリーナは気を失いそうになるのを必死に堪えた。血だまりを避けながらフェルニナの傍に行き、マットをめくった。
「ニナ……」
あおむけに横たえられたフェルニナは、青白い顔をして、ぴくりとも動かなかった。イリーナはしばらく声を押し殺して泣いた。フェルニナの乱れた着衣を正し、自分のジャケットを着せて背負うと、屋敷を出た。
すでに夜は深まり、住宅街の道路は無人だった。イリーナは泣きながら、花火大会の日にフェルニナが言った「火の粉」の話を思い出していた。
「火の粉は誰も追ってくれない」とフェルニナは言っていた。それはまるで自分のようだと、トルガ河に流されたいと嘆いていた。
「お嬢様じゃなかったんだね……」
イリーナは、背中にいるフェルニナに話しかけた。フェルニナは、娘を失ったソロキンの悲しみと、やり場のない怒りをぶつけるために用意された身代わりの子供だったのだ。いずれ用済みになることが、フェルニナも分かっていたのだろう。
(家族の話をしたがらない、私以外に友達の話が出ない。おかしいところはたくさんあったのに、何で気付かなかったんだろう)
イリーナは自分の愚かさを呪った。行く当てもなく歩いていると、目の前にグレンが立っていた。イリーナは自嘲して言った。
「最悪だよ」
それを聞いてグレンは、膝をついた。
「なぜですか?」
「私がニナの家に行ったせいで、ニナが死んだ」
「そうですか」
「それに、おじさんたちまで死んでて。ねえ、何でみんな死んだの? 何も覚えてない。頭の中でずっと『殺せ』って声が響いていて……私が何かしたの?」
「ええ、そうです。あなたが3人を殺したんです」
グレンはイリーナの目を見据えて言った。イリーナは頭が混乱してきた。
「何でそんなこと……したんだろう……?」
「あなたは何も悪くありません。あのような悪党は殺して当然です。堂々と胸を張ればいいのです」
イリーナが力なく首を振ると、グレンはふいに腕を伸ばし、イリーナのみぞおちに手を置いた。イリーナには、払いのける気力も残っていなかった。
グレンは急に険しい表情になると、重々しい声で言った。
「自分の行いに誇りを持て。立ち塞がる者は容赦なく殺せ。それが、我らの気質であり、誇りなのだ」
グレンの目の奥が金色に光った。イリーナは頭がグラグラしてきて、何を言っているのか全く理解できなかった。
グレンは立ち上がった。グレンはイリーナからフェルニナを抱き取ると、また人の良さそうな笑みを浮かべた。
「大丈夫です。少し弱いですが、脈を感じますから」
「え……?」
グレンの腕に抱かれたフェルニナを見ると、瞼が微かに震えているのが分かった。
「私が病院に連れて行きます。イリーナさんの格好では、捕まってしまいますから」
「ニナが……生きてるの?!」
イリーナは嬉しさのあまり、声を上げて泣きじゃくった。死んだと思っていたのに、まだ息があったのだ。グレンは小さく頷いた。
「あの屋敷には警察が来るでしょうから、イリーナさんは早く帰ってください」
「あの、ごめんなさい。センタルティアさんを見つけられなくて……」
「いいんです。見つかりましたから」
「そうなの?」
「ええ」
グレンは優しく微笑むと、フェルニナを抱いて闇の中に消えて行った。
イリーナは涙を拭って気持ちを持ち直すと、すぐに帰宅した。血で汚れた服を脱ぎ、水で体を洗い流していると、徐々に冷静さを取り戻した。
(私が……おじさんたちを殺したの?)
イリーナは何も覚えていなかった。だが、グレンは殺したのはイリーナだと断言していた。
(私が殺した……?)
どうやってそんなことができたのか。ソロキンも含め、大人の男を3人も相手にできるとは思えなかった。
それとも、グレンが殺したのだろうか。だが、室内は血の海だったのに、グレンの服装は汚れていなかったように見えた。グレンではない。
何より、頭の中でずっと「殺せ」という声が響いていた。
(私はどこか病気なのかもしれない)
エッボを刺した時もそうだ。頭の中で変な声が聞こえて、衝動的に刺してしまった。今回もかっとなって、殺してしまったのかもしれない。
(おじさんは最低だけど、私の方がもっと最低だ。ケダモノだ……)
全身に鳥肌が立った。何て恐ろしいことをしたのか、自分が信じられなかった。イリーナは、かび臭いタオルで体を乱雑に拭き上げると、普段着に着替えた。
(朝になったら、警察に行こう)
イリーナは決意した。寝室に戻ると布団にもぐったが、一睡もできなかった。ようやく眠りに入ったのも束の間、玄関の方から荒々しい靴音がして、ベッドから飛び起きた。
その瞬間、寝室にぱっと電気がついた。イリーナは顔をしかめながら前方を見ると、黒いスーツを着た長身の男が立っていた。どこかで見たことがある陰鬱な顔だった。
「また会ったな、今日は銀髪じゃないのか?」
「あ……」
イリーナは言いかけて口をつぐんだ。花火大会の夜に会った警察で、確かリシンという名前だった。
「何の用ですか? 人の家に勝手に入らないでください」
「人の家? ここは、登記簿によると別人の所有になっているが。電気も勝手に引き込んでいるよな」
「それは……」
イリーナは口をつぐんだ。相手の目的が分からないまま、余計な発言はしない方がいいと考えた。
リシンは寝室内をゆっくり見回した後、警戒したまま立ち尽くしているイリーナに視線を戻した。
「その頬の痣は何だ?」
イリーナは思わず頬に手をあてた。ソロキンに肘撃ちされたところが、痣になっていたことに気付かなかった。
「これは、その……」
「ソロキンを殺した時に反撃されたのか?」
その指摘に対して、イリーナの目が小さく揺れ動いたのに気付いたリシンは、人の悪そうな笑みを浮かべた。
「昨夜遅く、ソロキン社長の屋敷で叫び声がすると通報があり、3人の遺体が見つかった。娘のフェルニナは病院に運び込まれた。他方、事件の直前、少女がソロキン社長の自宅の場所を聞いて回っていたという証言も得ている。……お前だな?」
イリーナは、リシンが以前から自分に目を付けていたことを悟った。花火大会の日にトラブルを起こした時から、ずっとターゲットにされていたのだろう。
(いや、怒ることはない。むしろちょうど良かった)
イリーナは大きく深呼吸をしてから、リシンを真っ直ぐ見て言った。
「そこまで分かっていて来たんですね。そうです、私が殺しました」
「ほう……認めるのか?」
「言い訳をするつもりはないです。今日の朝、警察に行く予定でした。……ニナが無事ならそれで十分です」
リシンは虚を突かれたように、肩をすくめた。
「そうか、良い心がけだ。自首したことにしてやろう」
リシンは、背後に待機していた部下にイリーナを拘束させた。イリーナは後ろ手に縛られ、そのままパトカーで連れて行かれた。
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