第15話 異形者の殺戮

 一体何が起きたのか、イリーナは事態を理解できなかった。ソロキンに肘撃ちされて舌を噛み、口内に鉄の味がじわりと広がった。

 口元を押さえながら部屋を出ると、フェルニナの絶叫が聞こえてきた。廊下の左手にある部屋からだった。

 全身が総毛立った。フェルニナを助けなければならないのに、脚が固まり、前に踏み出せなかった。


「お前はなぜ言うことを聞かないのだ!」

「ごめんなさいお父様、ごめんなさい!」


 ソロキンとフェルニナの応酬を聞きながら、イリーナは深呼吸して精神状態を整え、扉を開けると――ひと目見て絶句した。

 上半身を裸にされたフェルニナが、四つん這いになり、枝ムチで打たれていたのだった。フェルニナの背中は皮がめくり上がり、見るに堪えない状態になっていた。


「どうしてお前はそうふしだらなんだ!」


 ソロキンは執拗にムチで打ち続け、その度に血が飛び散った。ムチには棘のようなものが仕込まれているようだった。


「ユリアもふしだらだった……どうしたら矯正できるのか」


 ソロキンは息を切らして打ち続けた。こめかみには血管が太く浮き出ていて、今にも破裂しそうだった。


「う……」


 フェルニナは次第に声を上げなくなり、ぐったりしてきた。


「……助けて……」


 その消え入るような声に、イリーナは全身の血液が逆流する感覚を覚えた。


(ニナが何でこんな目に!)


 イリーナは我を忘れて、その鍛え上げられた脚で飛び上がると、ソロキンの背中に重い蹴りを喰らわせた。


「……あがっ!」


 背後を警戒していなかったソロキンは、勢いよくあおむけに倒れ込んだ。イリーナはフェルニナに駆け寄ると、その痛々しい背中に自分のジャケットを着せて背負い、部屋を飛び出した。

 目前の階段を降りれば玄関ホールだった。イリーナはフェルニナを落とさないように、慎重に降り始めた。


「お前、そこで何をしている!」


 階段を半ば降りたところで、階下から黒服の男が現れて叫んだ。門番をしていた男だ。他にも男が1人、駆け寄って来た。


「お前、よくも……」


 階上を振り返ると、ソロキンがふらつきながら近づいてきた。


(上に1人、下に2人……挟まれた)


 イリーナに逃げ場はなかった。ソロキンが階段をゆっくり降りてきた。


「貧民の子供とつるんでいたとは。外出を許可すべきではなかった」

「何でこんなことを……ニナはおじさんの娘でしょ!」

「そうだ、娘だからこそ正しい道に導くための教育をしているのだ。死んだユリアは下らぬ男に身を捧げ、男に捨てられると20歳で自死した」


 ソロキンは一歩ずつ降りてくる。


「フェルニナにはそうなってほしくない。女神のように、無垢で純粋な女性に育って欲しいのだ」

「だからってやり過ぎだ!」


 イリーナが叫ぶと同時に、階段を駆け上がってきた黒服の男が、フェルニナを強引に引き剝がした。イリーナはバランスを崩し、手すりにしがみついた。


「ニナ!」


 駆け下りようとすると、別の男に制止された。体格の良い大男で、イリーナは後ずさった――その時だった。


《コロセ、コロセ……》


 イリーナの頭の中に、また獣のような声が響いてきた。イリーナは頭を振ったが、声は消えなかった。


《コロセ、コロセ……》


 フェルニナは階下に連れて行かれ、床に寝かされた。ソロキンは階段から見下ろしながら、呆れたように息を吐いた。


「フェルニナの名にふさわしい女性にならなければ、また新しい養女を迎え入れればいい」


 イリーナがはっとして振り向くと、ソロキンは背を向け、階段を上り始めていた。


「新しい……養女……?」


 イリーナが呟いた時、階下の男たちがざわめく声が聞こえた。


「旦那様……お嬢様の息が止まっています」


 その言葉を聞いた瞬間、イリーナの思考は全停止した。ソロキンは足を止めて、階下を一瞥した。


「バラバラにして川に捨てておけ」


 何の感情もこもっていない、無機質な声だった。

 フェルニナの横で状態を確かめていた黒服の男は、指示に頷くと、埃まみれの玄関マットを、雑な手つきでフェルニナにかぶせた。大男の方は、手すりにもたれたまま動かなくなったイリーナの腕を引っ張った。


《コロセ、コロセ……》


 その時、吹き抜けの天井に吊られたシャンデリアのチェーンがぶつんと切れ、2階から落下してきたのを、ソロキンは目の端で捉えた。

 大男も気付いて階下に向かって叫んだ。同時に、けたたましい衝撃音とガラスが飛び散る音が、波を打って空間に響いた。


《コロセ、コロセ……》


 階下にいた黒服の男は、間一髪逃れることができた。だが、事態を把握する間もなく、廊下の電灯がジリジリ音を立てながら消えていき、室内はふっと闇に包まれた。


「おい、どうした……何が起きたんだ!」


 黒服の男が叫ぶと、闇の中から大男が答えた。


「落ち着け。正面の扉を開けて光を入れよう」


 大男が階段を降りようとした時、目前の闇に小さな光が二つ灯った。


「何だ……動物がいるぞ。猫か? 目が光ってる」


 大男が言ったその直後、「ぎゃっ」という声が響いた。


「ロッソ、どうしたんだ!」


 黒服の男は大男に呼び掛けたが、闇の中から返事はなかった。場は膠着状態に陥った。

 ほんの数秒、辺りが白く光った。電気が復旧したのかと、黒服の男は束の間喜んだ。階段に向かうと、途中で大男が両膝をついてうなだれていた。


「ロッソ、どうしだんだよ?」


 大男の肩を揺さぶると、その腹にぼっかり穴が開いていることに気付いた。黒服の男は目を剝きだして叫んだ。と同時に、その首が血しぶきを上げて宙を舞い、階段を転げ落ちて行った。

 ソロキンは階上から、その一部始終を目撃していた。


「何だあれは……化け物か……」


 辺りが白くなったその数秒間に、階下の床一面が光り、その中から蜘蛛の足のような、長くて黒いモノが何本も生えてきた。その黒いモノは、大男の腹を貫き、黒服の首をはねた。それは一瞬のことだった。

 ソロキンは、生まれて初めて死の恐怖を感じた。名家に生まれ、両親の厳しい教育に耐え、軍に入隊して戦争も経験し、起業した会社も国を代表する一流企業に育て上げた。何も怖いものなどなかった。地獄から這い出してきた、この化け物以外は――。


《コロセ、コロセ……》


 ソロキンの腹に、黒いモノが捻りこまれた。ソロキンは低いうめき声をあげ、その場で絶命した。

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