第13話 グレンとの邂逅
花火大会の日から2週間が経った。イリーナは食堂の床にはいつくばり、雑巾を握りしめて丹念に磨き上げていた。
「リナ、そこはもういいよ。開店するから、お客さんが来たら注文を取るんだよ」
エプロンをした大柄の女性が、イリーナに声をかけた。
「はい、おかみさん」
イリーナは素早く立ち上がって背筋を正した。
「そう緊張しなくてもいいのよ。常連ばかりだから、失敗しても誰も怒らないよ」
おかみはそう言うと、厨房に引っ込んた。イリーナは雑巾を入れたバケツを持ちあげて、店の裏手に回った。
以前カツレツを買ったお店で、イリーナは働けることになった。貧しいながらも勉強するイリーナをおかみが気に入り、人づてに食堂で仕事をしないかとオファーしてきたのだった。
バケツの汚水を流しながら、イリーナはフェルニナのことを考えていた。花火大会の日以来、フェルニナはイリーナの家を訪れていない。
イリーナは、フェルニナがソロキンの前で見せた不安定な様子が引っ掛かっていた。何だか普通の親子に見えなかった。よく考えると、ソロキンは70代くらいに見え、フェルニナとの年齢差が大きすぎる。
(フェルニナは、何であんなに怯えていたの?)
食堂に戻ると、テーブルに1人の客が座っていた。イリーナはすぐにエプロンを腰に巻くと、メモを手に取り向かった。若い男がテーブルに置かれたメニューをじっと見つめていた。
「注文は決まっていますか?」
イリーナが尋ねると、若い男はメニューに視線を落としたまま言った。
「知らない言葉だらけで、混乱しますね」
「……文字が読めないんですか?」
「読めるんですけど、初めて見る言葉ばかりなんです」
イリーナは目を丸くした。若い男は下ろしたてのシャツにスラックスを履いており、きちんとした身なりをしている。教育を受けられなかったとは思えない。町の食堂に入れないくらい過保護に育てられたのだろうか。
「あの、カツレツはどうですか? おススメです」
「カツレツ?」
若い男は、ぱっと顔を上げた。端正な顔立ちをした美しい男だった。イリーナは驚きつつ説明した。
「ああ……このお店の名物です。カツレツ目当てで来る観光客も多いんですよ」
「僕は初めて食べます。それでお願いします」
若い男が人懐っこく笑うと、厨房の方から女たちの歓声が聞こえてきた。振り返ると、女のコックたちがグレンを見て騒いでいる。
イリーナは厨房に戻りながら男を見やると、長髪を後ろに束ねていることに気付いた。見慣れない髪型だった。外国人かもしれない。
「カツレツです、どうぞ」
イリーナはカツレツが乗ったお皿を置いた。若い男が物珍しそうにカツレツの匂いを嗅ぐのを横目に、イリーナは他のテーブルを拭き始めた。
(フェルニナが心配だ。仕事を早く終わらせよう)
フェルニナがいるとしたら、学校か家だろう。夕方まで食堂の仕事があるので、学校の終業時間に間に合わない。家に行って会うのがいいだろう。
「あなたは……不思議な感じがしますね」
イリーナは声がした方を振り返った。若い男はにこりと笑いかけた。
「追加の注文ですか?」
「いえ……実は人捜しをしているんです。センタルティアという少女です。ご存じないですか?」
「センタルティア?」
「フェルニナ」という名前以上に、馴染みのない名付けだった。やはり外国人だろうか。イリーナは少し考えてみたが、センタルティアという名前の知り合いはいなかった。
「すみません、知りません。おかみさんの方が顔は広いし、聞いてみたらどうですか?」
「いえ、結構です」
「え……いいの?」
「ええ、結構です」
そう言って若い男は、ズズズと音を立ててコップの水を飲んだ。
(何で断るの? ちょっと変な人だな)
イリーナが厨房に戻ろうとすると、背後でカツンという音がした。若い男がコップを置いた音だった。
「あなたくらいの年齢の少女です。本当の親はいない。お友達にそういう人はいませんか?」
そう言って、若い男は返答を求めるようにイリーナを見た。
(おかみさんじゃなくて、私に対応しろってこと?)
イリーナは嫌な予感がしたが、やむなく相手をすることにした。
「そういう子はこの町にはいくらでもいます。スラムもあるし。その子は、お客さんとはどういう関係なんですか?」
「……僕の親戚なんです」
「そうですか。センタルティアさんが見つかるといいですね」
イリーナは話を切り上げようと布巾をいじり始めた。若い男はイリーナの分かりやすい態度を見て苦笑した。
「すみません。迷惑と分かっていますが、こちらも真剣でしてね」
若い男はその切れ長の目を細めた。
「センタルティアは事情があって、生まれてすぐ故郷から離れることになりました。四方を捜したところ、この地で暮らしていた可能性があると分かったんです」
「何でこの町にいるって分かったんですか?」
イリーナは尋ねながら、若い男を観察した。端正な顔立ちのわりに、手首は太く筋張っていて、力仕事か何かをしていそうだった。
「この前、この辺りの地域で妙な気を感じたんです。微かな気だったので、正確な場所は分かりませんでしたが。もしかしたら、センタルティアが助けを求めているのかもしれないと思って……。思わず駆け付けてしまいました」
「気……ですか?」
知らない言葉だった。家に帰ったら国語辞書で調べようとイリーナが考えていると、若い男は懐かしむような表情を浮かべて尋ねた。
「あなたの名前は?」
「イリーナです」
「親御さんは?」
「いますよ。家にいないけど……」
「家にいないとは?」
「父は行方不明で、母も遠くの街に行ったっきり。でもいいんです、今までも1人だったようなものだから」
イリーナは自分で話していて不思議に感じていた。あれほど母親に執着していたのに、今は達観した気持ちになっていたからだ。
だが、若い男はそれを聞いて無言になり、立ち上がった。
「すみません、お時間を取らせてしまって」
若い男はそう言って、テーブルに紙幣を置いた。
「カツレツ、美味しかったとおかみさんに伝えてください」
若い男が食堂を出て行こうとした時、イリーナはふとひらめいた。
(フェルニナの家は高級住宅街にあるはず。私が1人で歩いていると、不審がられるかも……)
今の自分は茶色くまだらに染められた髪に、服装もみすぼらしいジャケットとズボンを履いている。それに対して、若い男は身なりが良い。一緒に行動した方が、もし警察に出くわしても観光案内だのと言ってごまかせるかもしれない。
「待って、お客さん」
イリーナが呼び止めると、若い男は振り返った。
「何ですか?」
「この後、時間ありますか?」
「……どうですかねえ」
若い男はイリーナの意図を窺うように言った。
「仕事が終わったら、一緒に行きます。センタルティアさんを捜しに」
若い男ははっとして、イリーナの方に向き直った。
「それはありがたいですが、なぜ急に?」
「私も友達を捜しに行くんです。一緒に捜せば、もしかしたらセンタルティアさんも見つかるかも」
若い男は少し考えてから、にっこり笑って言った。
「いいですよ、一緒に行きましょう」
「ありがとう、お客さん」
「……私の名はグレンです」
「グレンさん、5時に食堂の前に来てください」
イリーナは仕事に戻ると、注文と皿の片づけを手早くこなした。その日の夕方、イリーナはグレンと共に高級住宅街に向かった。
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