第11話 月明かりの下で
「この生意気な口ぶり、忘れるわけねえ。この2人はグルだよ!」
声を荒げるエッボを無視してリシンは立ち上がり、フェルニナの前に立った。
「お前たちが刺したというのは本当か?」
リシンの問いに、フェルニナは動じなかった。
「あなたは、そもそもの前提を間違えているわ。だってこの男は刺されるようなことをしたのだから!」
リシンは目を大きく見開いた。
「ほう、友達をかばっているのか?」
「いいえ。かばってくれたのは彼女の方よ。これを見なさい」
フェルニナはワンピースの裾をめくり、すりむけた膝を見せた。トラックから落ちた時にできた傷だ。
「私と彼女は、この男のトラックに乗せてもらったわ。それは真実よ。でもこの男はね、私を襲ったの。その時にできた傷がこれよ!」
やじ馬がどよめき出す。
「何を……」
イリーナは言いかけて口をつぐんだ。こんな男に襲われたなんて話が広がれば、フェルニナの名誉が汚されてしまう。自分ならまだしも、フェルニナは令嬢なのだ。だが、イリーナにはこの状況を打開する策は何もなかった。
「嘘だ、そんな怪我は知らない。俺じゃない!」
エッボは慌てて弁明した。
「いいえ、あなたは私のワンピースを脱がそうとしたわ。私は必死に抵抗して、膝を怪我したの。その時、手元にナイフがあったから、身を守るためにその男を刺したのよ!」
「嘘だよ、俺がそんなこ……」
エッボは一瞬口ごもった。フェルニナを襲ってはいないが、イリーナの方を襲ったのは事実だったからだ。フェルニナはやじ馬の方を見ながら、エッボを指さした。
「ほらみんな見て、動揺してるわ。だって本当のことだから。この男は私を襲ったのよ。これは正当防衛よ!」
「違う、それは俺のナイフじゃない。こいつらが持ち込んだものだ。最初から俺を刺すつもりだったんだ!」
「何のために、私があなたを刺すの? あなたを傷つける理由なんてないわ!」
「それは……子供ってのは、悪さをするもんだ」
「大人だって悪さをするわよ。あなたみたいな、おかしな人がね!」
フェルニナに言い返されて、エッボはまたもや口ごもった。
そんな2人の言い合いを、警察官は呆れた様子で見ていた。他方、リシンは目もくれずにナイフの状態を調べていた。
「私の友達を傷つけて、ただでは済まないんだから。この変態!」
「な……」
口をパクパクさせるエッボに対して、フェルニナは叫び続けた。
「私の友達はゴミじゃない。早く謝って!」
顔を真っ赤にしているフェルニナを見て、イリーナは胸が締め付けられた。今まで自分のために体を張って助けてくれる人がいただろうか。母親でさえも守ってはくれなかったのに……。
イリーナは涙を拭いながら、ようやく上体を起こした。フェルニナの主張が認められたとしても、人を刺したことが経歴に残されてしまう。何とか流れを変えなくてはならない。
イリーナが言いかけた時、近くで杖をつく音がした。
「何の騒ぎかな?」
近づいてきたのは、ボーラーハットをかぶった老人だった。
「これは、ソロキン社長!」
老人を見るなり、警察官の表情がこわばった。リシンが怪訝そうに問う。
「おい、誰だ?」
「ソロキン鉱山会社の社長ですよ」
警察官は声をひそめて言った。
ソロキンは小柄であるが、妙な存在感をもつ男だった。リシンがソロキンの視線の先にいるフェルニナに目をやると、あれほど威勢が良かったフェルニナが完全に硬直していた。リシンは何かを理解したかのように溜め息をつくと、再びソロキンに視線を戻した。
「どうもソロキンさん。私はリシン警部です」
「リシン警部、何事かね。刺したとか刺さないとか、物騒な話が聞こえたものでね」
「お嬢様によると、こちらのエッボさんに乱暴されたので、ナイフで刺したとおっしゃっていて」
それを聞いた瞬間、ソロキンの目が大きく見開き、顔中に皴が深く刻まれ、尖った長い耳がわなわな震え出した。警察官はその様子に慌てふためき、リシンの前に割って入った。
「とりあえず、署で話をうかがいますから、皆さんご一緒に……」
「なぜ、フェルニナが行く必要があるのかね。フェルニナは被害者だ。これ以上、辱めを受ける必要はない。分かるかね、私の言っていることが」
ソロキンはぎょろりとした目を、リシンの方に向けた。リシンはやれやれと言った感じで頭をかいた。
「おっしゃりたいことは分かりますよ。……おい、行ってもいいぞ」
リシンが言うと、イリーナとフェルニナはすぐさま駆け寄り、互いの手を取った。
「待て、お前たち」
リシンが呼び止めた。2人は同時に振り向いた。
「年齢は?」
「14歳です。それが何か?」
フェルニナが言うと、リシンは口を歪めて笑った。ソロキンがフェルニナの背中に手をあてた。
「さあ、行こう」
ソロキンは周囲の人だかりをかき分けながら歩き出した。イリーナはフェルニナと共にソロキンの後を追った。背後からエッボの罵声が聞こえたが無視した。
駅に向かう途中の小さな公園に入ると、ソロキンは2人を振り返って尋ねた。
「フェルニナ、花火大会に来ていたとは知らなかったよ。なぜ教えてくれなかったんだね」
「それは……」
フェルニナが口ごもった。ソロキンはイリーナの方を見た。
「お嬢さんは、お友達かい?」
「はい」
「そうか。私はフェルニナの父親のソロキンだ。それにしても、美しい銀髪だ。どこの家の子だね?」
ソロキンは目を見開いた。その深い緑色の目は、妙に人を惹き付ける力があった。イリーナは思わず一歩下がった。ソロキンは首を少し傾げた。
「……怖がらせてしまったか、すまないね。私は用事があるから先に行く。お金を渡すから、バスで帰りなさい。それからイリーナ君」
「はい」
「今度、家に来なさい。歓迎するよ」
その時、フェルニナが顔色を変えたのをイリーナは見逃さなかった。ソロキンが去ると、フェルニナはその場にしゃがみこんだ。
「……リナ、ゴメンね」
「何で謝るの?」
イリーナの問いに、フェルニナは答えなかった。
その後、2人は無言のままバスに揺られてメレフの町に戻ると、もう夜中になっていた。空には満月が浮かんでいた。
「それじゃあ、私は家に帰るね」
フェルニナが言った。月明かりに照らされて、ぼんやり光をまとうフェルニナは、この世のものとは思えないほど美しかった。イリーナは思わず見入ってしまった。
「あの……ニナ、ありがとう。助けてくれて」
イリーナがお礼を言うと、フェルニナはきょとんとした。
「あやうく捕まるところだった。それに、ニナに変な噂でも立ったらと思うと……」
「何てことないわ。もし私を悪く言う人が出ても、名誉の勲章だと思うことにするから」
フェルニナは無邪気に笑った。誰にでも言えるセリフではない。フェルニナは美しいだけではなく強いのだ。イリーナはフェルニナに尊敬の気持ちを覚えた。
「それじゃあね、リナ。待たね」
「うん、また」
フェルニナと別れると、イリーナは自宅に向かった。家まであと5分というところにさしかかった時、暗闇に人影が現れた。
「……リナ?」
帽子を目深にかぶったユーリーが立っていた。表情まではよく見えない。
「何だよ、その格好は」
「ニナと一緒に花火大会に行ったから」
「そうか。でも……驚いたな」
声のトーンはやけに低かった。すると、ユーリーがイリーナに近寄って来て、初めてその顔が闇に浮かんだ。少し赤らんでいるように見えた。
「もう二度とこんな格好で歩くなよ」
「分かってるよ。何か、自分らしくないし」
「それならいい。家まで送るよ」
イリーナを家まで届けると、ユーリーは走り去った。イリーナはすぐに家に入り、ワンピースを脱いで寝床に倒れこんだ。
その晩、みぞおちの辺りに大きな重しを載せられたような苦しさで目を覚ました。だがそれ以上の眠気に襲われ、イリーナはすぐに意識を失った。
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