第10話 絶体絶命

 花火大会は2時間ほどで終わった。花火を眺めている間も、気まずい空気が流れていた。フェルニナは始終無言だったし、イリーナも話しかけることができなかった。

 最寄り駅につながる道は、帰ろうとする人びとでごった返していた。イリーナは後ろを歩くフェルニナとはぐれないように、手を繋ごうと思った。振りほどかれるかもしれないが、はぐれるよりはマシだ。

 そう思って手を伸ばした時だった。イリーナのみぞおちに、あの焼けるような痛みが走った。


(まただ、この痛み。最近、何かおかしい……)


 みぞおちを押さえていると、突然その右腕を強く掴まれた。


「お前、見つけたぞ!」


 腕を引っ張り上げられたイリーナは、驚いて声の主を見上げた。イリーナがナイフで刺した、運転手の男だった。振りほどこうとしたが、かえって強く掴み返してきた。


「こいつだよ、俺を刺したのは。せっかく乗せてやったのに、恩を仇で返しやがって。さあ、捕まえてくれ!」

「やめっ……」


 運転手の男は、イリーナの両腕をがっちり掴んで放さなかった。ざわめく人びとをかき分けて現れたのは、黒いスーツを着た若い男だった。

 男は背が高く、コートを着ていても分かるくらい体格が良かった。黒髪はオールバックにしていて、その鋭い眼光は、全てを見透かしたようにイリーナを見下ろしていた。イリーナは本能的に、この男とやり合うのは危険だと感じた。

 長身の男の背後には、深緑の制服を着た男がいた。左胸には金色のバッジをつけている。――警察官だ。


「お嬢さん、ご両親はどこに?」


 警察官が問うと、イリーナは口をつぐんだ。何か言えばボロが出る。だが、答えないのも不審に思われるだろうか。


「……言いたくないわ。お父様に言わずに遊びにきたから、怒られてしまう」


 イリーナはフェルニナの口調をまねして、上目遣いに訴えた。

 フェルニナは無事に逃げただろうか。状況を確認したかったが、変な動きをして、フェルニナの存在を悟られてはいけない。


「実はこちらのエッボさんが、君にその……刺されたと主張している。本当かい?」

「まさか、そんなことしないわ。人違いでしょう」

「でもね、エッボさんは、君がトラックで落としたというバッグを持っているんだよ。これを見てごらん」


 警察官は、銀色のハンドバッグを見せてきた。フェルニナに借りたものだ。トラックから逃げた時に残してきてしまった。


「……それは、私のバッグではないわ」

「このクソガキが。嘘をつくんじゃねえ、ぶん殴るぞ!」


 エッボは、唾液を飛ばしながら罵った。それに対して、イリーナはわざと怯えたような表情を作って見せた。

 周囲の人びとは、いつの間にか4人をとり囲むようにして成り行きを見守っていた。警察官はやじ馬の反応を気にしつつ、イリーナとエッボの様子を交互にうかがっていたが、やがて納得したように頷いた。それから、長身の男にそっと耳打ちした。


「リシン警部、この娘はどう見ても令嬢ですよ。人を刺すようには見えません。人目もありますし、誤認逮捕でもしたら、我々のメンツが潰れます。ここらで引き揚げませんか?」


 警察官にとって、長身の男――リシンは上司にあたる人物だ。40代の警察官の男よりもずっと若く、まだ20代後半で、大学出のいわゆるキャリアだ。

 若手のキャリアは普通、警察本部にいて大切に扱われるから、わざわざ街に下りて汚れ仕事なんてしないものだ。だが、リシンは現場視察だと言って、急に署にやって来たのだった。

 その時、たまたま通報してきたのがエッボだった。しかし、どう見てもゴロツキだ。ささいなことから因縁をつけて、賠償金を巻き上げようとか、どうせロクでもない理由で少女に絡んでいるのだ。

 他方、少女の方は、美しい銀色の髪に、雪のような白い肌。艶のあるワンピースに、上品な言葉遣い。どれを取っても名家の令嬢にしか見えない。少女の親が出てきたら面倒なことになるから、早いところ切り上げよう――警察官はそう皮算用していた。

 だが、リシンは警察官の提案を無視して、イリーナの顎をくいとつかみ、くんくんと臭いを嗅ぎ始めた。その異様な行動に、警察官は面食らった。


「リシン警部、何をしているのですか?」

「捜査だ。気にするな」


 リシンは、イリーナの首筋から胸元にかけて入念に嗅いでいく。

 イリーナは硬直した。地肌にリシンの鼻息がかかると、体中に鳥肌が立った。


「で、お前はどこの浮浪児だ?」

「……え?」

「バッジを見て、一瞬目を逸らしたな。やましいことがある証拠だ」


 リシンはイリーナの体を嗅ぎながら、その目を見据えた。イリーナの心臓が大きく跳ねた。


「香水を振りまいたところで、長年染みついた浮浪者の臭いは消えないさ。それに、血の臭いがする。今日、何か悪さをしたな」


 イリーナは、目が泳がないように必死にこらえた。だが、リシンの大きな黒目が、イリーナのわずかな動きも捕捉していた。

 一方で、イリーナを拘束しながらやりとりを見ていたエッボは、怒りが抑えきれない様子だった。


「おい、そんな話はどうでもいいんだよ!」


 エッボは突然、イリーナの両腕を持ったまま真上に持ち上げた。イリーナは足をばたつかせた。エッボはうなり声を上げ始めた。


「やめて!」


 イリーナは四肢をばたつかせて抵抗を試みた。だが、エッボは容赦なく、イリーナを地面に叩きつけた。やじ馬から悲鳴が上がった。


「うっ……」


 受け身を取ることができず、胸から落ちたイリーナは、衝撃で息が詰まった。


「浮浪児め! こんなゴミは死んで当然だ!」


 エッボは唾を飛ばして高笑いをした。


(ゴミに、ゴミ呼ばわりされる筋合いはない)


 イリーナは悔しさで拳を握りしめた。だが、言い返す余裕はなかった。


「なあ、警部?」


 エッボが興奮気味に振り向いた。

 リシンは無表情で2人の様子を見つめていた。そして、突っ伏したままのイリーナの隣にしゃがみこんだ。ワンピースの袖口をまさぐり、ナイフを抜き取った。


「血の臭いの元はこれか。証拠品が出たようだな」

「私に触らないで……!」


 イリーナが声を絞り出すと、リシンの眉がぴくりと動いた。そして、イリーナの腕を掴んで起こそうとした時だった。


「私の友達に、何をしているのよ!」


 イリーナはその声に驚き、はっと頭を上げると、そこにはフェルニナが立っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る