第9話 私は火の粉
トルガ河は住宅地を流れる運河だ。河沿いの道路は人でごった返しており、「車両通行止め」の看板が立てられていた。
「すごい混雑ねえ」
「そうだね……」
イリーナは辺りを見回した。どうも先ほどから、すれ違う人とよく目が合う。手を振ってくる男もいた。
「知り合いでもないのに、何で手を振るのかな。金持ちにはそういう文化があるの?」
「何を言ってるの、リナが可愛いからよ。そんな美しい銀色の髪、滅多にお目にかかれないわよ。紫のワンピースもすごくセクシーよ」
イリーナは絶句した。自分が性の対象として見られているなんて、恐ろしすぎて逃げ出したくなった。
「別に変な意味じゃなくて……。純粋に可愛いと思っているのよ。うぶなのね、リナは!」
フェルニナは声を出して笑った。イリーナは早いところ帰りたいと思った。だがそれ以上に、この場所の幻想的な雰囲気に心奪われてもいた。
白や赤に点滅する街灯、緑色の光沢を放つ石畳。道端に置かれた植木鉢の花は、蛍光色を発している。
「あの花、何であんな色をしているの?」
「塗っているのよ。特殊な鉱石から作られた塗料ね」
「そうなんだ。初めて見たよ」
見るものすべてが新鮮だった。自分にはまだ知らない世界があるのだと、イリーナは高揚感を抑えきれなかった。
しばらく進むと、木造のやぐらが見えた。その2階では、着飾った女性たちがグラスを片手におしゃべりに華を咲かせている。フェルニナによると、一部の有力者たちのための特設会場なのだという。
「あのやぐらの少し手前にある、あの橋の下から見ましょう」
フェルニナはイリーナの手を引いて誘導する。
「ところでリナ、いつもナイフを持ち歩いているの?」
「そうだよ」
「危ないわ。返り討ちにあったら、怖いじゃない」
「別に誰かと戦うために持ってるわけじゃないし」
「じゃあ、どうして?」
「そうだな。……じゃあ今日は、私が先生役をしてあげるよ」
そう言ってイリーナは、フェルニナの手を離した。正面から歩いて来た男とすれ違うと同時に、くるりと方向転換をして、男の背後につけた。
「リナ?」
フェルニナが振り返って足を止めた。
イリーナの方は、袖口に忍ばせていたナイフを手の中に滑らせた。そして、男が右肩に下げているバッグの底を半分ほど切り裂くと、イリーナの左手にするりと財布が落ちてきた。
イリーナは脇の下に財布とナイフを挟んで、フェルニナのもとに戻った。
「リナ、そんな技を開発したの?」
「よくある手口だよ。わざわざこんな遠くまで来たわけだし、稼がないとね」
イリーナは言いながら紙幣を抜いて、財布だけ草むらに投げ捨てた。
「抜け目がないわね。そんなことより、もうすぐ花火が打ちあがるから、早く行きましょう!」
フェルニナはイリーナの手を引き、橋の下に向かった。
定刻になると、河には青い光を発する帆船がやって来た。空では大きな破裂音とともに、色とりどりの花火が打ちあがった。
初めて間近で見る花火は、実に迫力があった。イリーナがスラムのビルの上から眺めたのとは全然違う。
「ニナ、すごく綺麗だよ。すごく楽しい!」
イリーナが興奮気味に言うと、フェルニナは優しい笑顔を向けた。
「喜んでくれて良かった。直接見た方が、感動も大きいでしょう?」
「そうだね、来て良かったよ。ありがとう」
フェルニナは優しく微笑んだ後、ふと遠い目をして言った。
「実は……花火は好きじゃないの。落ちてくる火の粉の方が好きなの。何だか私みたいで……」
「どういうこと?」
「打ち上げられたばかりの花火は美しい。みんな花火の方に夢中で、役目を終えた火の粉までは追ってくれないわ。そして、火の粉はトルガ河に落ちて流れていくの。そう、私みたいだわ」
イリーナは困惑した。意味が分からなかった。それともこれは、いつもの勉強会の続きなのだろうか。
「ニナは……トルガ河に流れたいの?」
「トルガ河の本流は、この国で一番大きいフレヴァ河よ」
「そうだね」
「こんなに寒い大地を流れているのに、フレヴァ河は凍らずに流れ続けている。何て雄々しいのかしら。私は死んだらフレヴァ河の一部になって、いつまでも流れて、ブリューソフの大地を永遠に見守り続けたいの」
イリーナは唖然として、フェルニナをまじまじ見つめた。
馬鹿馬鹿しすぎる。金持ちの親がいて働く必要がないから、こんなくだらない妄想で、貴重な時間を無駄にできるのだ。
「あら、何よその顔。馬鹿にしてるの?」
「……別に」
「友達なら、言いたいことをはっきりと主張すべきよ」
「それじゃあ言うけど、暇なの?」
フェルニナは眉を吊り上げた。
「何よ、その冷たい言い方」
「私は自分が火の粉だなんて妄想を抱いたことはないし、こんな濁りきった河に流れたいなんて思ったことない。糞尿だって垂れ流しなんだよこの河は。それに、フレヴァ河もさすがに真冬は凍る」
「リナは夢がなさすぎるのよ!」
フェルニナの怒声に、イリーナはぎょっとした。
「リナは、私がおかしいと思っているの? 私がまともじゃないと思ってるの?」
フェルニナはさめざめと泣きだした。イリーナは困惑した。
「そこまで言ってないし……」
怒ったと思ったら、急に泣き出して、フェルニナは何を情緒不安定になっているのだろうか。自分は地雷を踏んでしまったのだろうか。急にフェルニナの日常生活が心配になった。
フェルニナがスラムに来ているのは、町のことを知るためだと言っていた。だが、もしかしたらフェルニナは実は変人で、そのせいで周囲と馴染めないのではないか。それでスラムに来ては、自分のような無知な人間相手に講釈して、日頃のうっ憤を晴らすようになったのではないか。
イリーナは慎重に言葉を選んだ結果、
「……ごめんね」
とりあえず謝罪しておいた。そしてイリーナは、自分がフェルニナの素性をよく知らなかったことに気付いた。
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