第8話 危険な旅路
「どうしよう、お金を忘れた。これじゃバスに乗れないわ……」
スラムから町の大通りに出た途端、フェルニナが弱々しい声を上げた。
「リナ、100ドマ持ってない?」
「私も持ってないよ」
「そう、仕方ないわ……。同じ方向に行く車を見つけて、乗せてもらいましょう」
「お金がないのに行くの?」
「往生際が悪いわね。あっ、ちょっと止まって!」
大型のトラックが通りかかった。フェルニナが大きく手を振る。
運転手の男は、およそスラム周辺には似つかわしくない、見目麗しい少女たちの姿を見て驚いていた。フェルニナが事情を説明すると、乗車を了解した。
「ねえ、やめた方がいい。知らない大人の車に乗るのは」
「他に方法はないでしょ?」
そう言うと、フェルニナはさっさと乗り込んだ。イリーナはしぶしぶ、フェルニナに続いて助手席に乗り込んだ。
運転手は大柄の男だった。自分は町はずれにあるゴミ山に、企業から委託された廃材投棄の仕事をしてきた帰りだと説明した。だが、イリーナは何となくうさん臭さを感じた。
「トルガ河に着いたら、お店でアイスクリームを買いましょう」
フェルニナが無邪気に言った。イリーナは「お金がないのにどうやって」と言いそうになったが、口をつぐんだ。視線の先には運転手の男もいる。あまり情報を漏らしたくなかった。
「あら、何を黙っているのよ。もしかして、アイスを知らないの?」
フェルニナが言うと、運転手の男はバカにしたように鼻を鳴らした。イリーナは嫌な感じがした。
「知らないわけない。商店街にもアイス屋さんはあるし」
「そうよね。でも、トルガ河の近くにあるお店のアイスが美味しいって評判よ。色んな味のアイスを買って、食べ比べしようね」
フェルニナはご機嫌な様子で、イリーナの肩にもたれかかった。
運転手の男は無言でハンドルを回していた。窓の外に目を向けると、見慣れない風景が流れていた。
「……ねえ、おじさん。ずいぶん時間がかかるね。もう20分は経つけど」
イリーナは横目で訊ねた。
「そうかい。昨日ここらで雨が降ったから、道がぬかるんでるんだ。だから、少し回り道をしながら、スピードも落として走ってるんだよ」
運転手の男はそう説明したが、それにしても時間がかかりすぎだ。
「おじさん、目的地はトルガ河だけど、時間がかかりそうなら、その少し手前で降ろしてもらえればいいよ」
「だから、道がぬかるんで時間を取られてしまったんだ」
運転手の男は静かに苛立ちを浮かばせた。
「乗せてもらってるのに、あれこれ注文をつけるのは良くないわ」
フェルニナが言った。だが、イリーナはすでに危険を察知していた。
「おじさん、降ろしてよ」
「もうすぐ着くよ」
「ここの風景、見たことがない。本当は道を知らないんじゃないの?」
「失礼なこと言うな、お前は!」
運転手の男は急ブレーキを踏んだ。フェルニナが悲鳴を上げた。
「俺が信じられないなら、今すぐ降りろ! 調子に乗りやがって!」
「分かった。降りるよ」
イリーナはそう言ってドアに手をかけた。その瞬間――みぞおちに激痛が走った。熱せられた鉄板を押し付けられたような強烈な痛みだった。
《アブナイ、アブナイ……》
イリーナの頭の中に、獣のような声が響いてきた。
(前にも聞いた……そうだ、幻聴だ)
イリーナは頭を振って、すぐに助手席のドアを開けた。
その時、運転手の男がフェルニナを押しのけ、イリーナのワンピースの襟元を引っぱった。イリーナはすぐさまフェルニナを蹴飛ばし、トラックの下に落とした。
《ヤレ、ヤレ……》
脳の中に響くその声に、イリーナは全身に血がたぎるのを感じた。ポケットの中にあった折り畳み式ナイフを逆手に持つと、男の肩に力の限り突き刺した。
「ああ、くそっ!」
運転手の男が手を離すと、イリーナはトラックから飛び降りた。尻もちをついたまま茫然とするフェルニナの腕を引っ張って、イリーナは走り出した。
2人は狭い路地を走り抜けて、どこかの大通りに出た。辺りを見回すと、酒場や娼館が立ち並んでいた。歓楽街のようだ。
「やっぱり全然違う場所だった。ねえニナ、大丈夫?」
イリーナが後ろを振り返った。フェルニナは息を切らしながら頭を上げた。そして、あっと声を出した。
「リナ、あなた目が変よ」
「え?」
イリーナは、前にも誰かから同じ指摘をされたことを思い出した。フェルニナが近寄り、イリーナの目をまじまじと観察した。
「おかしいわね、勘違いかしら。ところで、あそこまですることあったの?」
フェルニナが非難めいた目をイリーナに向けた。
「あったと思うけど……」
イリーナは、ナイフに付いた血をハンカチで拭いながら考えた。運転手の男に胸倉を掴まれた時、脳の中に変な声が響いて、衝動的に刺してしまったのも事実だった。
「けど、何だというの?」
「ああ、いや……あいつは危険な奴だったし、身を守るためには仕方なかった」
「だからって、酷すぎる!」
「全然、酷くないよ」
イリーナが言い切ると、フェルニナは不満そうな表情を浮かべた。
「酷いわよ! 私を蹴り落とすことないじゃない!」
「え、ああ……そっち? あいつを刺したことじゃなくて……」
「当り前じゃない! あの男は自業自得よ!」
フェルニナが鼻息荒く言うので、イリーナは何だか可笑しくなってきた。
「笑い事じゃないわよ。ほら見て。膝を擦りむいて血が出てるのよ」
「え、嘘……」
「嘘じゃない!」
確かにフェルニナの膝から血が滲んでいた。
「ごめん」
イリーナは慌てて膝をついて、フェルニナの傷を優しくなめた。
「ちょっと、リナ!」
「大丈夫かな?」
イリーナがペロペロなめながら見上げると、フェルニナは顔を両手で覆い隠していた。
「どうしたの、まだ痛い?」
フェルニナはゆっくりと両手を下ろした。顔は真っ赤になっていた。
「……リナって、小悪魔なところがあるわよね」
「小悪魔ってどういう意味?」
「いいわ、忘れて。とにかく助けてくれてありがとう。私が世間を知らな過ぎたの。ああいう大人には気を付けるわ」
2人は笑い合った。そこから30分ほど歩いて、ようやくトルガ河にたどり着いた。
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