第7章 銀髪の乙女
6月、初夏の日差しが心地よい日だった。
イリーナはその朝、裏通りに迷い込んだ観光客に道を教えるフリをして財布を抜き取ると、紙幣だけ抜いてさっさと退散した。4000ドマ390リラ。これで1週間は食べる物に困らないと、イリーナはほくそ笑んだ。
帰りがけに商店街に寄った時、食堂の前に置かれた看板に目を奪われた。
「かつれつ……もちかえり……できます……」
イリーナは読みながら、生唾を飲み込んだ。
(この看板にはこう書いてあったんだ)
イリーナは感動した。フェルニナとの勉強会も2カ月目となったが、いつもは素通りしていた町の看板もスラスラ読めるようになっていた。成果が目に見えて現れてきたのだ。
生活に必要な情報を自力で得られるようになったことは、とても大きな進歩だった。そして、見慣れたはずのメレフの町が、全く違う世界に感じるようになっていた。
イリーナが食堂の中に入ると、エプロンをつけた大柄の女がじろりと睨んできた。
「……何だい?」
「持ち帰りができるって書いてあったから」
「いいよ、どれだい?」
「カツレツ1つ」
「100ドマだよ」
大柄の女は不愛想に言うと、カウンターの中に入り、手早くカツレツを包み始めた。イリーナはそれを受け取ると、200ドマ札を手渡した。
「……あんた、文字が読めるのかい?」
「少しだけ。まだ勉強中なんだ」
「そうかい、いいね」
大柄の女性は微笑んだ。イリーナはちょっと誇らしい気持ちになった。
食堂を出て、熱々のカツレツを頬ばりながら家に戻った。扉を開けると、フェルニナがいた。
「リナ、お帰り。突然なんだけど、トルガ河に行かない?」
フェルニナは開口一番そう言った。
「トルガ河?」
イリーナは、カツレツを飲み込みながら聞き返した。
トルガ河は、この国の大地を東流する最大の大河、フレヴァ河の支流である。イリーナの家からだと、バスに乗って15分ほどの距離だった。徒歩なら1、2時間はかかる。イリーナもまだ数回しか行ったことはなかった。
「今夜、トルガ河で花火大会なのよ。私は毎年、自分の部屋から眺めるだけだったから、今年こそ現地に行って見てみたいの」
「ふうん」
イリーナは昨年のことを思い出した。大砲のような音と共に、夜空にぱあっと花が咲いては闇の中に溶けていく。その様子を、ユーリーと一緒に町のビルの屋上から眺めたのだった。
「でも、トルガ河まで行って直接見るとなると、住宅地の近くを通ることになる。あの辺りは警察がいるから危険だよ」
「警察があの辺りで何をしているの?」
「巡回ルートに入ってるんだよ。金持ちも多い地域だから。物乞いを追いやったり、野良犬を殺したり」
そう言いながら、イリーナは頭をかいた。何とも言えない臭いが漂う。フェルニナは鼻を摘まみながら言った。
「もう、リナったら。洗髪もマメにやらないし、私があげた服も全然着てくれないんだから」
「何か慣れなくて。全部フリフリの服だし」
「花火大会に行くなら、きちんとした服装が必要だわ。私のワンピースを貸してあげる。そうしたら警察にも捕まらないでしょう」
「ニナ、そこまでする必要はないよ」
トルガ河には花火の見物客が大勢集まる。警察の取り締りもいつもより厳しくなるはずだ。
「高い建物の屋上に登れば、見えなくはないから」
「リナ、妥協はだめよ。現地に行かなきゃ見たことにならないわ」
「それなら学校の友達と行けば……」
「いいえ、私はリナと2人の思い出を作りたいの。今すぐ化粧道具とワンピースを持ってくるから、身体を洗って待っていて」
フェルニナは聞く耳持たず、家を飛び出した。
(強引だよな、フェルニナって)
そう思いつつも、嫌な気分にならないから不思議だった。
イリーナは家の裏手に回り、井戸の水を汲んでバケツに移した。裸になると、膝をつき、体に少しずつ水を打ちかけた。
「冷たい……」
肌をこすると、ざらざらした感触がした。石畳の上を流れる水は濁っていた。
「いつか、本物の風呂に入れるかな」
フェルニナの屋敷には、蒸気を使った風呂があるらしい。それがどんな感じなのか想像を膨らませながら、目の前の現実を忘却した。
日も傾き始めた頃、フェルニナが息を切らして家に入ってきた。右肩に大きな布袋をかけ、左腕には化粧箱を抱えていた。
「リナ、水浴びはしたの? まだ髪の毛が油っぽくて、汚らしいわ。早く洗ってらっしゃいよ」
「髪はちょっと」
「何か問題でも? まさか目をつぶらないと洗えないとか? だったら私が洗ってあげるわよ」
「え、いや、ちょっと……」
イリーナが言おうとするのを無視して、フェルニナはイリーナの腕をつかんで裏手に引きずっていった。
フェルニナはイリーナを座らせると、バケツの水をその頭にぶっかけた。そして、持参した高級そうなシャンプーを両手に塗り付け、イリーナの髪をわしわし洗い始めた。
イリーナが髪の合間から見ると、楽しそうなフェルニナの顔が見えた。フェルニナのワンピースも汚れてしまっていたが、嫌がる気配はなかった。
イリーナの知る金持ちは、ゴミを見るかのような目つきで自分たちを見てくるのに、フェルニナがそうならないのが不思議だった。
「この髪は……いったいどういうことなの!」
フェルニナは感嘆の声を上げた。イリーナの髪から、みるみる茶色の水が流れ出していき、その下から銀色がのぞいた。
「リナ、あなたの髪って銀色だったの? 私はてっきり茶色だと思っていたわ。ほら見て。日に当てると、紫色に光ってすごく綺麗……」
フェルニナは惚れ惚れした表情で、イリーナの髪を眺めていた。
「おかしいよね、両親の髪は茶色いのに……」
イリーナは母親から、この髪はイリーナの祖母の遺伝だと聞かされていた。何の疑いも持っていなかった。だが、母親から貰われっ子だと罵られて以来、その自信が揺らぎ始めていたのも事実だった。
「この色だと目立つからね。人目を引かないように、道端に生えている雑草とか実をつぶして、その液で染めてるんだ」
「リナったら、もったいないわ。じゃあ今日くらい、思いっきりおしゃれしなきゃ」
フェルニナは嬉しそうに、イリーナの濡れた上半身をタオルで拭き始めた。胸にタオルをあてられた時、イリーナは慌ててそれを奪った。フェルニナは女同士だから恥ずかしがることはないと言ったが、女だろうと恥ずかしいものは恥ずかしかった。
部屋に戻ると、フェルニナは白い大きな布を取り出し、イリーナはそれを巻き付けられて、腰周りを思い切り締め上げられた。吐きそうになった。フェルニナは体形を美しく見せるためだと言うが、花火を見に行くだけなのに、美しさが重要なのかと疑問だった。
その上から、紫色のワンピースをかぶせられると、さらに化粧のパフで顔を何回もはたかれた。次に、長い髪を後ろにまとめて、手際よく三つ編みを作ると、リボンで結ぶ。最後に、白い革靴を履かせた。
「まあ、見違える美しさよ。自分でもびっくり!」
フェルニナは顔を紅潮させて、何度もうなずいた。イリーナは憮然とした表情を浮かべた。
「そうかなあ?」
全身がうずうずして痒くなってきた。フェルニナに手鏡を渡されたが、見る気になれなかった。こんなのは自分ではないような気がして、何だか居心地が悪かった。
「ねえ、リナ。どうせなら友達にお披露目しましょうよ」
「友達?」
「そうよ。こんなに綺麗になったんだもの」
「友達なんていないけど」
「もう、どうしてそんなこと言うの。少なくともユーリーは友達でしょう。何でリナはいつもそうやって他人を遠ざけようとするの?」
フェルニナが悲しそうにするので、イリーナは仕方なく話すことにした。
「以前、私は別の町にいたんだけど、そこで気の合う男の子と知り合ったんだ。協力してスリをやったこともある。当時は友達ができたって嬉しかったよ」
「それで?」
「でも、あいつは本当は悪い大人の手先だったんだ。ある日いきなり豹変して、建物の中に引きずり込まれそうになって……あやうく売り飛ばされるところだった。それ以来、私は他人は信じないし、1人でいるようにしてる」
「分かったわ。それで?」
フェルニナのあっけらかんとした様子に、イリーナは言葉を失った。少しは同情してくれるかと思ったからだ。
「過去に裏切られたから、もう友達はいらないというの? 大切なのは今でしょう。過去と今は切り離して考えるべきよ。ユーリーはあなたを大切に思ってる。もちろん私だってね! それなのに、過去に囚われて拒絶してしまうのは、とってもとっても損だわ」
損、と言われると弱い。イリーナはちょっと考えてから、
「分かった、ニナの言うことはもっともだ。考え方を変えてみるよ。……それでも、ユーリーにはこの姿を見せたくない」
「何で?」
「恥ずかしいから」
「はあ?」
フェルニナは呆れたようにイリーナを見た。
「だって、どんな顔して会えばいいの……」
「もう、仕方ないわね。まあいいわ。時間も時間だし、トルガ河に向かいましょう」
イリーナはほっとした。フェルニナは白いワンピースについた汚れを手早く落とすと、2人揃って家を出た。
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