第5話 2人だけの勉強会
フェルニナは宣言通り、イリーナの家によく来るようになった。だが、女の子らしくおしゃべりをしたのは最初だけだった。
2人でカードゲームをしようとした時、イリーナがカードの意味が分からず手こずっている姿を見て、イリーナが文字を読めないことに、フェルニナが気づいたからだった。
「私って、本当に世間知らずだわ」
フェルニナは神妙な面持ちで言った。その日から、フェルニナはイリーナに読み書きを教えるようになった。町の書店で買ってきた子供用の練習帳を渡して、イリーナに繰り返し文字や単語を書かせた。それから、美しい発音で何度も読み聞かせてくれた。
イリーナは最初、同じ年齢にもかかわらず、フェルニナが上から物を教えてくるのがうっとうしくもあった。だが、それまで音でしか知らなかった言葉に文字を当てていく作業は、パズルのピースがはまっていくかのように楽しいものだった。
「さて、私たちの住んでいる場所はどこでしょうか?」
ある時、フェルニナが質問した。フェルニナはたまに、フェルニナを教師、イリーナを生徒に見立てて、問答することがあった。
「えーと、ブリューソフ共和国の、トラガヤ州セドナ市にあるメレフという町……かな」
イリーナは、フェルニナが差し入れてくれた生ハムのサンドイッチをほお張りながら答えた。
「正解よ!」
フェルニナはそう言って、親指をぐっと立てた。
「我らがブリューソフ共和国は、この世界で最も大きな国なのよ。続いて2問目よ。この国で一番偉いのは誰でしょう?」
「うーん、社長?」
「正解は大統領よ。この人は選挙によって選ばれた人なのよ。それから大統領の下には、大統領に任命された大臣がいて……」
フェルニナは、次から次へと呪文のように役職を語り始めた。フェルニナがこれは社会科の基礎知識だとうるさく言うので、イリーナはサンドイッチをお皿に戻して、まじめに聞くことにした。
何とか覚えられたのは、大統領はローゼフという名前で、頭がつるつるということだけだった。
「そう言えば、ニナに勉強を教えてくれる先生はどんな人なの?」
「……いい人よ」
フェルニナの声は少し小さかった。
「ニナの家族は?」
「お父様がいるわ。お母様はいないけど」
「そうなんだ。お父さんがいて、学校にも通えてるんだね」
フェルニナはその言葉を聞くと、急に口をつぐんでしまった。イリーナはその様子を見て、どうやら自分は失言したらしいと気づいた。何と声をかけたらいいのだろう。
「ごめん……」
「そうじゃないの。私こそゴメンね、リナ」
フェルニナは笑ったが、どこか無理しているようだった。今度はフェルニナが聞いた。
「リナのお母様はどんな人?」
「真面目な感じ。露店で肉の串焼きを売ってた。お父さんは飲んだくれだったけど、お母さんはそれでも大好きで、お父さんがいなくなってからは落ち込んじゃって」
「そう、お母様もお辛い立場にあったのね」
フェルニナはしんみりした面持ちで頷いた。イリーナはずっと引っかかっていたことを、フェルニナに聞いてみたくなった。
「お母さんに最後に会った時……私のことを貰われっ子だって言ったよ。そうだと思う?」
「気になるなら、お母様が帰って来たら聞けばいいのよ」
「もし本当の子じゃないって言われたら?」
「本当の子じゃないなら、リナはお母様を嫌いになる?」
「嫌いになんてならないよ」
「なら、それでいいじゃない」
フェルニナはえくぼを見せて笑った。イリーナは胸がふんわり温かくなった。
「うちも貧乏じゃなければもっと幸せだったのかな。ねえ、何でニナの家はお金持ちなの?」
「そうね……」
フェルニナは遠い目をして言った。
「この国にいるお金持ちの多くは、資源権益を持っている家なのよ」
「しげん……けんえき……?」
何を言っているのかさっぱりだ。だが、フェルニナの言っていることは、理解できるようにしたかった。
フェルニナはイリーナの様子を見ながら、ゆっくり話を続けた。
「私たちの国には、鉱石、油、木材といった資源が豊富にあって、それらを外国に輸出すれば、莫大な利益が得られるのよ。でも、その開発の権利とか輸出にかかわる実権を、一部の人が握ってしまっているの」
「その一部の人間が、金持ちってことなんだね」
「そうよ。とくに、最近ではアニマ・ストーンの価値が高くて」
「アニマ・ストーン?」
イリーナにとって、聞きなれない言葉だった。
「アニマ・ストーンには、命の力が詰まっていると言われているの。とても遠くにある『未知の国々』では、アニマ・ストーンを利用して寿命を延ばしたり、魔法を使ったりするらしくて。だから、アニマ・ストーンが高値で取引されるのよ」
「私たちの寿命も延ばせるの?」
「それが延ばせないのよ、なぜかね」
「魔法っていうのは?」
「それも知らないわ。『未知の国々』との行き来は制限されてて、情報があまり入らないの。だから私もお父様に聞いた話しか……。まあ、そんなことはいいのよ」
フェルニナの表情がまた曇った。
「リナは、私の境遇を羨ましいと思ってる?」
「そりゃそうだよ。毎日ごちそうを食べられるし。学校も行きたい。学校はどういうところか知らないけど、たまに大通りで学生たちとすれ違うと、楽しそうにしてるし」
「そう見えるのね。でも、楽しいとは限らないのよ」
フェルニナは苦笑いした。イリーナは初めて、金持ちには金持ちなりの苦労があることを知った。だが、食べ物に困る生活に比べたら、どんな悩みも軽く思えた。
すると、フェルニナはぱっと顔を上げて、
「でも、私には尊敬している人がいるの。オクサリナ様よ。彼女のようになるのが夢なの」
フェルニナは鼻息荒く説明する。
「オクサリナ様は、綺麗で頭も良くて上品で、私の憧れの女性なの。いつか本物に会ってみたいわ!」
「もしかして、あの人?」
イリーナは立ち上がると、暖炉の脇に重ねておいた新聞紙を持ってきて、テーブルに広げた。新聞紙は乾燥させて固めると薪替わりになるので、町に捨てられていたら拾うようにしていた。
「この写真の人、すごく印象的だったから」
「そうそう、この人よ」
オクサリナは40代だろうか。白黒の写真だが、ゆるいウェーブのかかった恐らく金色の髪で、気の強そうな目をしている。
「でもさあ、知らない人をよく信じられるね。何かうさん臭い感じがするけど」
「まあ、無礼ね。オクサリナ様は正義感あふれる素晴らしい人だって評判よ。今は内務大臣を担当しているの」
「……ないむだいじん? 偉い人の役職って難しいな」
イリーナはオクサリナの写真に視線を落とした。政治のことなんて、真面目に考えたこともなかった。日々の暮らしで精一杯で、そんな余裕はなかった。
「うふふ。やっぱりオクサリナ様は美しいわ」
フェルニナが、うっとりとした表情で写真を見つめる。
「フェルニナの方が綺麗だよ」
イリーナがぼそりと呟いた。
「リナ、何か言った?」
「いや何も……」
イリーナは慌てて目を逸らした。それから、食べかけのサンドイッチにかぶりついた。
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