第4話 初めての友達
イリーナは辺りを捜したが、少女はどこにもいなかった。からかわれたのかもしれないと思った。それが金持ちの子供だと思うと、余計に腹が立った。
「リナ」
振り返ると、ユーリーが立っていた。イリーナの胸にまた嫌な気分が蘇った。
「……何か用?」
「いや、まあ。さっきのこと謝ろうと思って来たんだよ。俺、お前の気持ちも考えずに酷いこと言ったから……。ごめんな」
ユーリーは申し訳なさそうに頭をかいた。ユーリーには自分が悪いと思ったら謝ることができる誠実さがある。だからユーリーは町の少年たちに信頼されているし、イリーナも嫌いになれなかった。イリーナは「別にいいよ」と小さく呟いた。
「それより、金髪の女の子が家を訪ねて来たんだけど、ユーリーは見かけてない?」
「いいや。もしかしたら、お前の家に戻ってるんじゃないか」
イリーナは頷き、ユーリーと共に家に引き返すことにした。家の前に着くと、そこには先ほどの少女が立っていた。
「リナ、ありがとう!」
少女は満面の笑みを浮かべて駆け寄り、イリーナに抱きついた。長くて柔らかい髪から、ふわりと甘い香りがした。
「な、何する……」
イリーナは驚いて、体を硬直させた。何で抱きついてくるのか理解不能だった。ユーリーがにやにやしながら言った。
「ニナじゃん。リナともう知り合いなのかよ」
イリーナは驚いてユーリーを見た。
「……どういうこと?」
「紹介したい子がいるって言っただろ。ニナだよ。この辺りをよくウロウロしてて、それで知り合ったんだ」
「それじゃ、ユーリーの知り合いだったの?」
イリーナが視線を戻すと、少女はにっこり笑った。
「私はフェルニナ。よろしくね」
「ふぇる……にな?」
それはイリーナにとって、聞き慣れない語感だった。ユーリーは肩をすくめて言った。
「神話に出てくる女神様の名前から取ったんだってさ。金持ちは鼻につくよな。自分たちは、神様に愛されてるとでも思ってるのかよ」
「うふふ」
フェルニナは否定も肯定もせずに笑い、イリーナから離れた。
「とりあえず、中に入ろうぜ」
ユーリーに促され、イリーナは家の扉を開け、2人を中に入れた。
「リナ、あの人たちから奪った鍵をいただける?」
「ああ……手、出して」
フェルニナは両手を前に差し出した。イリーナはズボンのポケットから鍵束を取り出すと、フェルニナの手のひらに投げ入れた。ユーリーが鼻で笑った。
「もっと丁寧に渡せよ。抱きつかれて照れてんのか?」
「ち、違う!」
イリーナは顔を真っ赤にして、ユーリーの頭をはたいた。
「冗談だよ。何を動揺してんだよ、笑える」
ユーリーは普段とは違うイリーナの態度を見て、楽しそうにしていた。フェルニナはくすくす笑いながら、
「本当にありがとう。これで追われずにすむわ。実はあの人たち、私のお目付け役なのよ」
フェルニナは語り始めた。
「私、自由に町を歩いてみたくて、よく彼らの隙をついて散策してるのよ。ユーリーともその時に知り合ったのよね。でも今日は運悪く、捕まりそうになって……」
フェルニナは左手を頬に当てた。
「その時、ユーリーの話を思い出したの。リナは脚がすごく速くて、スリもうまいって。もしリナに車の鍵を奪われたら、あの人たちはスペアキーを取りに屋敷に戻るだろうから、それまで時間ができると思ったのよ」
イリーナはようやく、フェルニナが自分にスリを依頼してきた理由を理解した。だが、最初から打ち明けてくれれば余計な疑いを持たなくて済んだのにと、少し腹立たしくもあった。
ふと気づくと、フェルニナはイリーナの顔を覗き込んでいた。
「変ないじわるしないで、最初から言えば良かったわよね。ごめんなさい」
「いや、別に……」
心を読まれたのかと思って、イリーナは動揺して口ごもった。フェルニナは鍵束を指でいじりながら、不安そうな表情を浮かべた。
「それに今思えば、大人から物を奪うよう依頼するなんて、一歩間違えたらリナの命にかかわっていたかもしれないわよね。私ったら、お願いして良いことと悪いことの線引きをするべきだったわ。本当にごめんなさい」
フェルニナが深々と頭を下げたので、イリーナは驚いて一歩下がった。
(お金持ちのお嬢様が謝るなんて……)
依頼されたことについて不満に思ったわけではない。自分で引き受けると決めたわけだし、報酬だって貰うのだから。
(何か今日は謝られてばかりだな)
イリーナは何と声をかけたらいいのか分からなかった。フェルニナはゆっくり頭を上げると、また明るい笑顔で言った。
「本当はね、今日はリナと友達になりに来たのよ。ユーリーの話を聞いて、とても面白い子だと思って!」
イリーナは目を丸くした。
「私と友達に?」
「ええ、仲良くしてね!」
「仲良くって……」
イリーナはフェルニナの顔をまじまじ見た。金持ちのフェルニナと貧乏な自分では、住む世界が違いすぎる。友達になるなんて想像ができない。
イリーナが黙っていると、ユーリーがイリーナの肩を軽く小突いた。
「何か言えよ。本当に愛想がない奴だな」
「ユーリー、お黙りなさい。女同士で話しているのよ」
フェルニナがちっちっちっと唇を鳴らした。ユーリーは「はいはい」と言って壁にもたれた。フェルニナは嬉しそうにイリーナと向き合った。
「リナは脚が速いのね。私なんて運動が苦手だから羨ましいわ。どうやって鍛えてるの?」
イリーナを見つめるフェルニナの青い瞳は、吸い込まれそうなほど美しく澄んでいた。イリーナは思わず目を逸らした。
「別に何も。ただ毎日走ってるだけ」
「毎日走るのも根気がいるんじゃない?」
「生活のために必要だから」
「そうだわ。ユーリーに聞いたけど、リナがお母様との生活を支えているのよね?」
「お母様」という言葉を聞いて、イリーナの胸の奥にまたざわざわしたものが戻って来た。
「生活を支えると言っても、スリとか物乞いとかロクでもないことばかりだよ。それに……」
イリーナの脳裏に、母親の弱々しい後ろ姿が蘇ってきた。
「お母さんを、遠くの街に置き去りにしてきた最低な娘だし……」
イリーナは自分の所業にたまらずうつむいた。フェルニナは驚いた顔をして、首を横に振った。
「事情はユーリーに聞いたけれど、リナは最低なんかじゃないわ」
「いや、最低だよ。私がいちいち腹を立てたりしないで、もっとちゃんとしていれば……」
フェルニナはイリーナの肩に手を置いて、真剣な眼差しで言った。
「リナはそう思うのね。ただ、お母様との生活を支えること、リナにとっては当たり前かもしれないけど、誰にでも出来ることじゃないわ」
「え……?」
「リナは本当に頑張っていると思うわ」
フェルニナはとても優しかった。
「それに、お母様は大人よ。何かお考えがあってその街に残ったのかもしれない」
「どんな考え?」
「それは分からないわ。でも、お母様が決断したことなのよ。だから、リナが置き去りにしたとは言い切れないと思うの」
「そうなのかな」
「ええ、だから自分を責めないで。リナが悪いわけじゃないわ。それにきっと、お母様は無事にやってるはずよ。そのうちリナが恋しくなって、必ずここに戻って来るわ」
イリーナは顔を上げ、フェルニナを見た。
「本当に……戻って来ると思う?」
「思うわ!」
フェルニナが力強く言った。イリーナの胸の奥から熱いものが込み上げてきた。
「だからねリナ。お母様が家に戻って来るまで、私とたまにお喋りしない?」
「お喋り……それだけ?」
「ええ、お喋りだけよ。私にこの町のことを教えてちょうだい。ね、お願いよ」
「それだけで、友達なの?」
「その通りよ!」
フェルニナは、イリーナの手を取って強く握りしめた。イリーナと仲良くなりたいという、フェルニナの意思表明だった。
だが、イリーナはフェルニナをじっと見たまま、また黙り込んでしまった。フェルニナはイリーナをしばらく見つめていたが、手を離し、諦めたように言った。
「それじゃあ、私は帰るわね」
フェルニナはにっこり笑って家から出て行った。壁にもたれて成り行きを見守っていたユーリーは、肩をすくめて、フェルニナの後を追った。イリーナは薄暗い部屋の中で、1人立ち尽くしていた。
「変な子……」
そう言うと、ぽろぽろと涙がこぼれてきた。母親を置き去りにした罪悪感で、ずっと押しつぶされそうだった。自分は誰かにずっと、「あなたは悪くない」と言ってもらいたかったのかもしれない。
イリーナは涙を拭いながら家を飛び出した。スラムを出てすぐの大通りに出ると、フェルニナを見つけた。フェルニナはバス停のベンチで、背中を丸めてうつむいていた。
「フェルニナ」
イリーナが呼ぶと、フェルニナの黄金の髪がなびいた。イリーナはフェルニナの前に行くと、おずおずと言った。
「……また家に来ていいよ」
「本当に……いいの?」
フェルニナの表情がぱっと明るくなった。イリーナは、まるで大輪の花が咲いたようだと思った。
「いやだって30000ドマも、まだ貰ってないし……」
イリーナがぼそりと言うと、フェルニナはくすくす笑った。
「そうだったわ、約束したわよね。今度リナの家に行く時、お金を持っていくわ」
「あと、何か食べ物も持って来てよ」
「もちろんよ。私たち友達だものね」
「いや、まだ友達じゃないけど……」
「『まだ』ってことは、いつかは友達になるのよね?」
フェルニナがにっこり笑うと、イリーナもつられて笑みがこぼれた。
フェルニナと別れた後、イリーナは商店街に向かった。男たちから奪った金でありったけの惣菜を買い込み、満腹になるまで食べた。幸福だった。
その晩イリーナは、金髪の美しい女神が登場する夢を見た。
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