第3話 黄金の少女

 イリーナは、メレフの町の中心部を出て、貧困層の集住する地区――スラム街に向かった。そこにイリーナの自宅がある。3年前、母親と住んでいた小さなアパートを家賃滞納で追い出されてから住み始めた家だ。

 町はずれにあるゴミ山に積まれていた細々した廃材を、イリーナが苦労して持ち帰り、スラムの空き地に組み立て直したものだった。途中、ユーリーの父親が話を聞きつけて、組み立てを手伝ってくれた。


(私は貰われっ子じゃない。私のお父さんとお母さんは、あの2人しかいないんだし)


 足元にまとわりつく野良犬を払いながら、イリーナは自分にそう言い聞かせた。物心ついた時には、父親は酒に溺れ、母親は情緒不安定だったが、親子として一緒に暮らしてきたのだから。


(それなのに、私はお母さんを置いて帰って来た……)


 頭の中でぐるぐる考えながら歩いていたら、気付けば家の前に着いていた。家の中に入り鍵を閉めた――その途端、ノックの音が2回、ゆっくりと響いた。イリーナは驚いて扉を振り返った。


(タイミングが良すぎる……つけられた?)


 考えすぎて周囲への警戒を怠った自分を責めながら、近くにあったハンマーを手に取り、扉の向こうにいる相手に呼びかけた。


「……誰?」

「ねえ、扉を開けてくださる?」


 とても丁寧な、若い女の声だった。イリーナが鍵を外すと、扉が静かに開かれ部屋に光が差し込んだ。来訪者の姿を見たイリーナは、言葉を失った。

 光輝く黄金の髪に、宝石のような青い瞳をした、美しい少女が立っていたのだ。


「ごきげんよう」


 真っ白で柔らかそうな頬に、小さなえくぼが浮かんだ。イリーナはしばらく茫然としたが、気を取り直して質問した。


「ええと……誰なの?」

「うふふ、誰かしら」


 少女は微笑むと、部屋の中に足を踏み入れた。イリーナは制止した。


「勝手に入らないで!」

「あら、失礼」


 そう言うと、少女は一歩下がった。


(何者なの?)


 イリーナは少女を観察した。少女の着ている深緑のワンピースは艶やかに光っていた。一目見て上物と分かる黒いコートを肩にかけていて、灰色のラビットファーのマフラーを首にゆるく巻いていた。

 富裕層の家の子供だというのは明らかだった。だが、ここを訪れた目的については見当もつかない。イリーナが怪訝な顔をしていると、少女はにっこり笑った。


「初めまして、イリーナ」


 イリーナは驚き、目を見開いた。


「何で私の名前を知ってるの?」


 イリーナが尋ねると、少女はまた一歩進んで言った。


「私のお願いを聞いてくれたら、理由を教えてあげる」

「何それ……じゃあいい、早く帰って。それに、お嬢様がスラムに出入りしてると、面倒なことに巻き込まれるよ」


 イリーナが脅しの言葉を吐くと、少女は余裕に満ちた表情で言った。


「忠告してくれるなんて優しいのね。ところで、私についてきてくれる?」

「嫌だ」

「いいから。ねえ、お願いよ」


 少女はそう言うと、さっさと家の外に出て行った。


「行かないってば!」


 イリーナは叫んだものの、少女が自分の名前を知っていることがどうも気にかかった。少女を無視して、何かの面倒に巻き込まれる可能性も否めない。少し迷ってから、やむなく外に出ることにした。

 家から出てきたイリーナを見て、少女はにんまり笑った。イリーナはイラっときたが、何も言わなかった。

 少女の後ろに付いて1、2分ほど歩くと、黒いスーツを着た男が2人、道端に立っているのが見えた。少女はイリーナを止め、建物の陰に身を潜めるよう促した。


「あの人たちから、車の鍵を奪ってちょうだい」

「……は?」

 

 イリーナは困惑して少女を見た。少女は右手の人差し指を立てて、


「車の鍵を奪ってくれたら、私がなぜリナのことを知っているのか教えてあげるわ」


 少女の上から目線な物言いに、イリーナはイラつきつつも、悪い話ではないと考えた。どこの誰だか知らないが、世間知らずのお嬢様だ。金払いは良いはず。


「分かった。ついでにお金も、30000ドマ出せるなら」


 イリーナはふっかけてみた。


「うふふ。30000ドマでいいのね。他にも欲しいものがあれば、何でもあげるわ。じゃあ交渉成立ね」


 少女は挑戦的に笑った。


「分かった」


 イリーナは平静さを装ったが、内心では驚いていた。30000ドマもあれば、2か月分の食費を払える。

 全く理解不能だったが、少女の依頼を引き受けることにした。普段なら、こんな怪しげな仕事は絶対に引き受けない。だが今は、とにかく空腹を満たしたかった。


(それに、もしお金を出し渋ったら脅して奪えばいいし……)


 余計なことは考えずに、早く仕事を終わらせて、何か買って食べよう。イリーナは食事のメニューを想像しながら腰を落とし、ブーツの紐をぎゅっと引き締めた。


「よし、やるか」


 男たちを観察すると、勤め人にしては体格もよく、どこかの金持ちの使用人か警備員といった感じだった。気になるのは、男たちがドラム缶やら洗濯かごの中やらを覗き込んで、何かを探していることだった。


(こんな汚い場所で何をしているの? まあいいか、探し物に注意が向いている今がチャンスだし)


 イリーナは住宅の陰から出て、男たちの方へ歩いて行った。鍵を持っているのはどちらの男だろうか。とりあえず、2人のズボンのポケットを狙うことにした。

 男たちとすれ違う瞬間、星が落ちるような速さで1人、2秒後にもう1人から、それぞれ抜き取った。1人は財布、1人は鍵の束だった。

 イリーナは舌打ちした。どうせなら、もう1人の方の財布も一緒に抜き取っておけば良かった。


「あっ……あいつ!」


 男の1人がポケットをまさぐりながら叫んだ。だが、イリーナはすでに駆け出した後だった。

 2人の男は必死の形相で追いかけて来た。整髪剤で固めた髪を振り乱しながら、前を走るイリーナに罵声を浴びせた。


(追いついてみなよ)


 イリーナは笑みを浮かべながら、風のようにスラムを駆け抜けた。貧しい者たちがどこからか集めてきた瓦礫の山や、乱立する集合住宅の壁は、男たちの行く手を阻んだ。その上、シャーベット状の路面が男たちの脚を絡めとった。


(遅いよ!)


 イリーナの強脚は、全身をぐんぐん前に押しやり、男たちとの距離をあっという間に広げた。男たちは、地平線に消えたのではないかと思うくらい引き離されたことに絶望し、足を止めた。

 「神速」という言葉が男たちの口をついて出た。これ以上、スラムに入り込んだら戻ることができないと判断し、びしょぬれになったズボンの裾をたくし上げ、意気消沈して引き返した。

 イリーナは後ろを振り返って、男たちが追いかけてこないことを確認すると、念のため回り道して少女のところへ戻った。


「ねえ、盗ってきたよ」


 呼びかけの声もむなしく、建物の陰に隠れていたはずの少女の姿は消えていた。イリーナは慌てて見回したが、少女の姿は見えなかった。

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