第1話 神速のイリーナ
雪の降る夜だった。
街の雑居ビルの間に立つ、
「お母さん、このアパートにお父さんはいないよ」
イリーナはそう言って、母親のくたびれたコートの裾を軽く引っ張った。母親は1階の部屋の窓を覗き込みながら、ぶつぶつと呟いていた。イリーナはふうっと白い息を吐き、母親の裾から手を離した。
足元を見ると、もう何年も履き続けて破れかけた布のブーツが、雪の中に沈んでいた。冷たい水がブーツの中に染み込んできて、足の指がずきずき痛んだ。
「ねえ、もう帰ろう。今ならまだ船で引き返すこともできるし。復路の半券、持ってる?」
イリーナは母親のポケットをまさぐった。
「良かった、ちゃんと持ってるね」
イリーナと母親は、この街の住人ではない。遠く離れた小さな町から、馬車と船を乗り継いで、3日間かけてやって来た。イリーナがまだ7歳の時にイリーナと母親を捨てた父親が、この街で生活しているという情報を知人から得たためだった。
すると、母親は雪にまみれた茶色い髪の毛を、狂ったようにかきむしり始めた。
「あの人は、ここにいるはずなの。このアパートに……」
イリーナは嘆息して言った。
「お父さんはいないよ。部屋の中を何度も見たでしょ、空室だよ」
「ここで待ってたら、帰ってくるかもしれないし、それに……」
「もういい加減にしなよ!」
往生際の悪い母親に、イリーナは怒りを隠せなかった。見知らぬ土地に対する緊張感も重なって、疲労もピークに達していた。
「お父さんがここに住んでるっていう情報は、間違いだったんだよ。うっ、ごほ……」
ビルの排気口から放出された食用油の臭気が、狭い路地に充満する。
「ここは空気が悪いから、もう行こう」
イリーナは咳き込みながら、冷たくなった母親の手を引いた。だが母親は、イリーナの手を振りほどくなり、その頬を平手打ちした。
「あんたが悪いのよ。あんたのせいでお金がかかって、そのせいでお父さんは出て行ったの。こんなことなら、あんたなんて――貰わなきゃよかった!」
母親は泣き崩れた。
「あんたはね、私の子供じゃないのよ。本当は私の子供じゃないの!」
イリーナはじんじん痛む頬を押さえた。腹立たしさで体が震えたが、やり返しはしなかった。母親は父親に捨てられて以来、精神のバランスを崩している。これ以上、追いつめるようなことはしたくなかった。
イリーナは気持ちを落ち着かせてから、母親に優しく言った。
「私はお母さんの子だよ」
「私の子じゃない。どこかに行って!」
母親はまた叫んで、ふらふらと立ち上がった。
「お母さん、待って!」
イリーナの呼びかけを無視して、母親は歩き出した。
「お母さ……」
イリーナは2、3歩追いかけた。だが、すぐに足を止め、その場にうずくまった。みぞおちの辺りが、急にジクジク痛み始めた。
《アブナイ、アブナイ……》
イリーナの頭の中に、獣がうなるような荒々しい声が響いてきた。
「幻聴まで聞こえてくる……」
イリーナは声をかき消そうと頭を振った。心身が限界に達していた。母親を追いかける気力はもう無かった。
「勝手にすればいい……」
ずっとうずくまっていたかった。同時に、ここで立ち止まるのは危険だということも分かっていた。大人の庇護下にいない少女は、闇世界で生きる者たちにとって格好の餌だからだ。
現に、ビルの陰から一部始終を観察していた男は、イリーナの乳白色の肌を見て、皮を剥いで絨毯にするとか、あるいは臓器を富裕層の美食家連中に売るとか、それとも無難に娼婦にするとか、生臭いことを目論んでいた。
イリーナは悪意の視線に気づくと、痛み続けるみぞおちを押さえながら、すぐに立ち上がった。毛糸の帽子を目深にかぶり、港の方に向かって足早に歩き始めた。男もまたイリーナの背後に回った。
雪を踏みしめながら、しばらく進んだ。遠くに汽笛の音が聞こえた瞬間、イリーナは脱兎のごとく駆け出した。背後に付いていた男は、慌てて追いかけた。
イリーナは1つにしばった茶色い髪をなびかせて、風のように街を走り抜けた。
(追いつけるわけない)
イリーナは笑った。なぜなら、ぼろきれ同然のズボンの下に、一流のアスリートが舌を巻く健脚を持っているからだ。それは、貧困層に属するイリーナが母親と生きていくために、他人から金品を奪い、その追跡から逃げる中で、たくましく鍛えられてきた自慢の脚だった。
イリーナがぱっと後ろを振り向くと、男と目が合った。男は何かに驚き、たじろいだように見えた。間もなくして、イリーナを追う足音は完全に消えた。
(意外に早く諦めたな……)
暗闇の中に、
港には1隻の客船が停泊していた。
「おや、お譲さん。こんな寒い日に汗をかいて、どうしたんだい?」
検札所の職員が、イリーナを見て目を丸くしていた。髭をたくわえた温厚そうな老人だった。イリーナは頬を緩めた。
「……別に。追いかけっこしていただけ」
「子供は元気でいいね。チケットはある?」
イリーナは、ジャケットのポケットに突っ込んでいた復路の半券を差し出した。
「そういえば今日の往路にも乗っていたね、お母さんと一緒に。お母さんは帰らないのかい?」
職員は半券を受け取り、
「おや、どうしたんだい。目が変だよ」
「え?」
「目の奥が、光っているような……」
職員は何度か瞬きをしてから、イリーナの目を覗き込んだ。
「ん……気のせいか。もうすぐ船は出るよ」
職員はイリーナに半券を返すと、検札所の奥に引っ込んだ。
イリーナは船内に入り、1等エリアに続く上り階段を通り過ぎて、2等エリアへ向かった。1等エリアは富裕層の利用する個室で、2等エリアは貧困層が利用する雑魚寝スペースだ。
2等エリアは、すでに老若男女でごった返していた。靴底の雪が落ちて水浸しになった床に、人々は布切れを敷いて横たわっている。
「なあ、お嬢ちゃん」
後ろにいた男が声をかけてきた。
「さっき走って来たのを見てたよ。人間離れした速さだ。まさに『神速』だな」
「……どうも」
イリーナは空いているスペースに腰を下ろした。その瞬間に一気に緊張が解け、激しい疲労に襲われた。目を閉じ、眠りに落ちた。永遠に朝が来ないことを祈りながら。
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