第5章:銃置け
クネイトラ空軍基地
シリア人には読めないであろう漢字で警衛上番部隊を示す木札が正門の傍に掲げられたこの空軍基地で勤務する者は既に寝静まっている時間だ。消灯こそまばらだが既に食堂は閉まり、国旗掲揚塔はただの一本足と化している。体力練成場のバーベルは静かな時間を過ごしていて、喫煙所の煙缶に置かれた消火用灰皿には真新しい水が鎮座している。
「帰って来たぞ」
当番外の将兵も帰って来る車列に気付いた者が隊舎から戦闘服姿で駆け出し支援に加入する。他の戦車では聞こえない74式戦車の特徴的な過剰回転音が基地要員を安心させた。拒馬を退けて敬礼する正門歩哨が砂埃に塗れながら捜索第12連隊の帰来を迎えた。見知らぬ兵士だが、警衛上番部隊は高射第12大隊との事なので恐らくそこの新兵だろう。心踊る瞬間だ。所詮は日本から遠く離れた地と言えどもクネイトラ空軍基地は正に精神的な家である。WAPCが意気揚々凱旋する姿に歩哨もどこか安心感を伺わせる。帰来した車列により洗車場とパークは順番待ちで、文字通りごった返している。各中隊の車輛が取り敢えず駐車する場所を探し、兵卒達に不要な積み荷を下ろさせる姿を見て一旦は仕事が終わったのだと安心出来た。
「外川軍曹ですよ」
赤色灯火のペンライトを振り車列を呼んでいる恰幅の良い車輛係軍曹は、強めに自らの尻を叩いた手で空き地とも言える箇所を示した。この位置にケツから、要するにバックで停めろとの指示だ。大東亜共栄圏緊急展開軍である事を申し訳程度に示す加盟国各国の国旗が外周沿いにただ識別の為掲揚されて半ば放置されるこの基地は今この瞬間、彼等捜索第12連隊を安全に受け入れた。シリア政府軍の飛行隊は機材の問題か練度の問題か単にそうした運用をしないのか、兎に角日没後に飛行したりする事は無いので警戒の為に離陸したであろう戦闘ヘリが遠い空を舞う音にすら安心感を覚える。
「ケツから入れろってよ」
「了解、左に頭振ります」
冗談めかして下品に言った黒羽の言葉に操縦手は反応しなかった。ケツから入れる、若者にはまだ早いかなあと内心でボヤきつつ分隊長ハッチから乗り出した上半身を最大限使って周囲の安全確認を行う。操縦手も座席を最も上げた状態で見える範囲に目線を振り、安全を確認した上でWAPCを器用に後退させた。管制灯火にロータリースイッチを入れたままで後退灯が点いていない大型装輪車の後退だ、戦闘から帰って来た者がこんなところで事故を起こす訳には行かない。轢いても停まれる程度の徐行で車輛を後退させ一発で駐車を決める。
「停止よーい、とーまーれっ。運転やめー」
「サイド良し運転止め」
間の抜ける抑揚で車内通話越しに停車を指示し、黒羽はエンジンを止め沈黙を手に入れたWAPCの車内に潜り込む。全員どこか落ち着きが無いが、寝ていた者達は停車の揺り戻しで一様に目を覚ましていた。運ばれていた兵卒達にとってはこれからが仕事だ。
「下車用意下車」
「しゃーっ」
本来すべき下車と言う復命復唱を限り無く怠惰に行い兵士達は死と向き合いながらの疲労回復時間を終えてWAPCから下車する。操縦手は輪留め片手に前面板から飛び降り、前輪へそれを引っ掛ける。その様子を確認している僅かな瞬間で夜闇に姿を見せた城田に挙手敬礼し、黒羽は小隊長として命令を受ける。
「1小隊喫食、2小隊火器整備、3小隊車輛整備。尚、中隊本部については飯上げ済。以上質問無し、了解」
「了解、爾後の行動に掛かります」
黒羽は自制心に満ちた声色で城田に敬礼し自らの小隊へと戻る。下士官の周囲に取り敢えず群がる兵卒達が自分の荷物を自分で携行している当たり前の事実に内心で安堵しながら
「1小隊喫食、武器携行品は舎前に集積。中隊本部は飯上げ済!」
「走れこの野郎、速くしろ!」
初級斥候教育を思い出す急かし方で軍曹達は兵卒を集合させ引率し舎前へと走らせる。89式小銃の脚を開きながら銃置けの号令を待たず整頓して地面に立て、無反動砲や軽機関銃もそれに倣う。将兵は背嚢や斥候バックを痛む肩から解放し、取り急ぎで飯盒を取り出し移動しながら飯盒へポリ袋を掛ける。中隊本部の食事を用意しなくて良いから早く食って交代し、全員になるべく早く食事を与えよと言う城田の指示の意図を全員が汲む。
「他小隊が待ってんだ、階級無視、さっさと受領して食え」
「車載銃はこっちで下ろす、お前らは飯食ってこい!」
クネイトラ空軍基地で勤務する後方勤務の将兵が車載の重機関銃を銃身と機関部に分解した上で取り外し中隊の武器庫まで運搬する。日頃戦闘部隊が後方部隊がといがみ合っていても、それが例え様式美や社交儀礼でも、川上は綺麗な戦闘服を着た直接支援大隊の兵士に敬礼して走る。配食は本来時間外の食堂にバッカンを並べて行われており、各中隊の人事軍曹や文書軍曹達が配食に精を出す。
「すみません、自分2中隊です」
「良いよさっさと食って整備交代して来い!」
並ぶ列を間違えた兵卒の飯盒に白米を盛りお玉いっぱいの具材を掛けて中華丼に仕立て上げる。内地では怠惰と無能により部隊から臨時勤務に差し出された熟年軍曹だが、ここで誰にでも分け隔てなく飯を盛ったのは事実であった。飯盒に盛られた中華丼とサラダ、飯盒の蓋には味噌汁だ。日本人は味噌と米が有れば常勝不敗だと歴史が証明している。レーション用のスプーンや私物の箸で食事を喉に流し込み胃袋に押し込む。上官や先輩より遅く食い終わる訳に行かず食事を残す訳にも行かない兵卒達が口内にめりめりと食事を押し込み車輛整備や武器整備へと走る。ここは中隊、連隊とも一丸で整備を推進しなければならない。他小隊の将兵と交代し喫食させるのが作法だ。
温かい食事の全てが温かいのか?
藤井一等兵という不器用な男が居た。真面目一本槍でおよそ自己利益を知らない他者貢献の権化、恐らく何かの温情かタイミングで漫画の様に飯を盛られた彼は必死の様相で飯をかき込むがその量に見合う様な箸の進み方では無い。彼に喫食時間が30分も有ればあの手この手で完食するのだろうが、今の彼にその余裕は無い様子だ。たまたまレーションが胃に残っているのか、そもそも小食なのか、全身全霊で飯盒に向き合ってなお彼は震えながら鼻をかんだチリ紙より小さい米を口に運ぶ。周囲の兵卒は彼に構わず飯盒を置いて整備へと走って行く。軍隊では胃の大きさも才能の内だ。
「火器整備は外観だけで良いから人要らねえよ、お前らは松島軍曹のとこで通信整備支援してこい」
「了解」
真面目の悲哀、藤井は自分が想像する安い運命と会話をしていた。吐くまで食べて、それですら食事が遅いと殴られるのか、せめても一発で済ませてくれれば有難い。それですら起きず、周囲の者が食べ終わる中で食事を残すことも出来ず半泣きで食事を続けるのだ。食事は尊く、有難く、感謝に満ちているべき祝福された存在で感謝と尊厳の象徴だがここでは違った。藤井は今、この瞬間は飯が食えないのだ。彼にとって真面目とは正義であり、信義である。それが傍目には思考停止にしか見えなくても、小刻みに震える胃袋に冷め始めた中華丼をねじ込む。味は美味いが、事実として胃に入らない。すぐ隣で早食いの同期が、先輩が食事を流し込み整備へと加入する姿に藤井の罪悪感は膨れ上がる。川上は数秒思考し、鼻息を吹いて立ち上がる。
「藤井、お前いつまで飯食ってんだ! 来いこの野郎」
藤井の胸倉を優しく掴んで立ち上がらせ引き摺る様に連れて行く川上を小隊員達は笑いを堪えて見送る。WAPCの影に藤井を立たせ、川上は自身の装具に突っ込んでいた20L入りのゴミ袋を取り出した。
「これに入れて車内のゴミ袋に混ぜとけ。さっさと整備に加入しろ」
川上なりには最大限の威厳を見せたつもりだったが、藤井にはそれが伝わらなかった。軍の無帽敬礼に照らして規格外に深々と頭を下げ川上の善意を受け取り誰よりも速く駆け出して整備に加入する。川上は善人さが突き抜けてしまい、ほとほとこの手の事に向いていない。
「お前、そういうとこが下士官っぽくねえんだよ」
以後気を付けます軍曹殿、とわざとらしく同期の山中軍曹相手に挙手敬礼して見せ川上はいたずらっぽい笑みを見せた。山中は呆れているが、こうした緩い下士官が居るから捜索第12連隊は昨今の体罰を忌避する論調にも適応できているのだろうと飲み込む。
「そもそも飯なんて食えなきゃ棄てりゃ良いのにな」
「それを下に言うのは理不尽だろ」
川上は飯盒のポリ袋を汚れぬ様に小さく纏め、ゴミ袋に押し込む。兵卒を甘やかしてばかりの自分が申し訳無く感じる瞬間を飲み込み、WAPCの車内を清掃する。砂だらけのこの地では気休めだが、塵取りと片手大の箒が一組になった掃除セットで車内を掃いて清潔を保つ努力をする。車内も水で丸洗いしたいが、流石に贅沢だし乾燥する頃には砂まみれだろう。底板に着いた液体の跡は揺れる車内でペットボトルに排尿を試みて大暴れさせた安藤のものか。
「おぉーい川上、無事に帰って来たか」
「高田軍曹、まだ起きていたんですか?」
「そりゃ戦死した連中の遺族に手紙書かにゃならんからよ」
高田軍曹、かれこれ20年もこの階級に居る彼の役職は人事軍曹Bである。筋骨隆々の見た目とは裏腹にもっぱら遺族への手紙を用意する事が業務であり、部隊より先にクネイトラ基地へ還った戦死者の一部や重傷者だった者に添える一筆が筆で書けた方が気持ちが込められている気がして良いという判断での任命である。もう定年間際の貫禄は川上に自嘲気味に語った。
「こんな事する為に軍隊入った覚えは無いけどな」
「あんな綺麗に状を添えて下さるなら安心して戦死できます」
若い奴ってみんなそう言うよな、と小さな笑みを見せながら高田は自身の不満な職務へと戻った。輸送飛行の関係で戦死者は明日、内地へ帰還する予定だ。
「川上軍曹、通信整備終わりました。何をしたら良いですか?」
「背嚢を各人居室に運んどけ、集合は別示する。俺は火器整備見てから戻るわ」
何かをさせなければならない。良き軍人は戦場に慣れるが、元を辿れば金欠学生や就職浪人、冴えない末っ子や軍事オタクだ。手持無沙汰にさせると余計な思考を巡らせるし、気でも狂った日にはおよそ直視したくない光景に包まれる。とは言え何事も大人数で解決する陸軍だ、必要な整備は早々に終わるだろう。
「村上、後送間に合わなかったな」
「マジか、村上駄目だったのか」
片足を千切り飛ばされた村上一等兵は大出血に伴う死のサイクルに飛び込んで、死んだ。意識が戻る事は一度も無かったそうで、苦痛を感じる事も大切な思い出を埃の山から掘り起こす事も無く生命体としての生を終えたのだ。彼の異様に正確な歩測は天性の才能そのものだった、天国までは正確に歩いて行けるだろう。行軍ではないから自分のペースで歩いて行けば良い。
「おーし、小銃こっちに流せ。1小隊はこっち、2小隊はそっちの壁際だ。3小隊は少ないから電偵と併せろ」
3小隊の小銃は確かに少なかった。電子偵察小隊の小銃と併せて鎖でひと繋ぎにされるそれらに各員は特別な感情を封じ込める努力をする。火器整備は大多数の銃器を油拭きのみで格納した。戦闘地域で武器庫に施錠して武器を格納するのは実戦的な将兵の反感を呼んでいたが、おかげで捜索第12連隊では一度も兵卒の自殺が起きていない。
「1小隊の小銃はこっちに整頓しろ、話し聞けよお前」
緑色の雑毛布上に倒れた整備油のボトルを手に取り、ぎと付くウエスの黒ずんだ端切れで89式小銃を拭いてやる。目立つ被筒部や消炎制退器をてっかてかに拭き上げ夜間用概略照準具用軸……だか夜間照準留め軸だか夜間概略照準器用ピンだかが脱落していない事を確認し脚を立てて整頓して行く。軍隊は何でもバケツリレーをしたがる生き物でここでもその習性は普段通り発揮された。
「おい安藤、撃発しろ馬鹿野郎」
安全位置で止まったままの切り替えレバーを指して火器軍曹はそう指示した。同期から当該の小銃を受け取って並べようとしていた安藤は自分の間違いに気付き切り替えレバーを単発位置に回し引き金を引く。閉鎖空間の武器庫の空気を89式普通弾の銃声が貫いた。引き金を引いた安藤が気付いた瞬間には予期しない反動で小銃が火器軍曹に向き、驚きに従って泳ぐ視界の前に巨大な掌が出現した。薬莢が床に跳ねる微かな音を撃砕する張り手に顎の骨が歪む感覚を覚え、安藤は自身の起こした失敗と意識を照合する。
「小隊長として火器操作、安全管理の徹底が出来ておらず、まことに申し訳ありませんでした」
「いえ、1小隊長に頭を下げて頂く事では有りません。当人が反省してくれれば良いのです」
大柄な火器軍曹の体躯に対して余りに素っ気ない応対であった。黒羽は将校であるが、詰め込んでも詰め切れない恥を飲み込み深々と頭を下げる。武器庫の壁に穴が空き、本人が張り手で吹き飛ばされただけで済んだこの事案に対して火器軍曹は存外穏やかに思えた。そんな事とは関係無く、折り曲げていない真っ平なツバの戦闘帽を被った先任曹長が事務室へと押し入る。
「1小隊長、中隊長室へ」
「はい」
黒羽は先任に呼ばれ中隊長室へと足早に向かった。お前は来なくて良い、との手振りを安藤に見せて黒羽は戦闘帽を被り直して去って行く。
「もういい、失せろ」
要件終わり帰ります、と叫び安藤は回れ右をして退室した。事が思いの外大事になると日頃威勢の良い先輩古兵達も誰がどう指導するかで狼狽え出すが、小隊長が中隊長から直接指導を受ける異常事態である。とは言え下士官連中からしても、ここで制裁や指導をするのも何か違うと言う空気感が有る。既に事が上に移った以上、今更どうこうする事でも無い。しかし失せろと言ってもどこへ行けば良いやら。しかし部隊としても簡易的な整備と格納は終えた様で、概ねの将兵は終礼が有るであろう事を察して幹部室周辺に群がっている。今更どこに逃げる事も出来ないだろうが、生半可に茶化す勇気も無い諸先輩に囲まれ気まずい時間を過ごす。或いは頬が腫れていなければ暴力的な制裁を受けたのかも知れないが、火器軍曹の温情で一発で済んだ次第。
「1中隊、終礼2115実施です!」
「屋内終礼ニーヒトヒトゴー実施です!」
思わぬ速さでの終礼だった。終礼時間を報せる兵卒の声に取り敢えずで安藤も復唱した。居室に戻っていた将兵や整備を終えた将兵が幹部室前に2列横隊で整列する。屋内での狭苦しい終礼だ、否応なくの短間隔で、整頓の号令が掛かる前から半長靴のつま先を床材の継ぎ目に合わせて最低限には列を揃える。疲労が目元に出ている小隊軍曹がつかつかと歩み出て小隊の前に立った。
「整頓する。右へ、倣え。直れ休め。お前らも聞いてるとは思うが……」
と、そこまで言ったところで黒羽が中隊長室から出て来た事に気付き、小隊軍曹は話を切り上げ最前列最右翼に移動し号令を掛けた。
「気を付け、小隊長に敬礼! 直れ」
「休め。本日起きた暴発事案については明日、改めて達する」
それだけ言って黒羽は半ば左向け左をし小隊指揮官の位置に小走りで移動した。各小隊長が定位に着いた事を確認し大柄な先任曹長が終礼を進める。
「連絡事項お願いします」
先任の指示に従い中隊本部の列から通信係軍曹が飛び出す。いかにも九州人と言った風貌の小柄だが身体強健な色黒中年軍曹は部隊に向け不動の姿勢を崩した姿勢で語る。
「通信より! 本日、任務後にも関わらず済々と通信整備して頂きありがとうございました。えー、明日1000より通信庫にて引き続き整備を行いますので各小隊兵士3名を目安に人員差出の程、よろしくお願いします。所要時間1時間の予定です。以上」
駆け足で列中に戻る通信軍曹に入れ替わり、身長がひと際高い丸眼鏡の補給係軍曹が駆け足で飛び出す。
「補給より一点、戦闘で破損した装備品が有れば取り換えますので補給まで一報願います。在庫順ではありますが、なるべく交換する様にします。なお階級不問です、以上」
「車輛係より連絡事項、任務お疲れ様でした。車輛整備ご支援頂ける方、0930を目安に事務室へ集合願います。午前中に終わらせます、以上……あー、ライナー携行でよろしくお願いします。以上です」
外川軍曹がどすどすと足音を鳴らし列中に戻る姿を見て日常が日常の様に進んで行く不気味さに吞まれながら、安藤は不安と恐怖を感じ列中で終礼を眺めていた。係軍曹達の連絡事項が終わった後、後退した前髪を戦闘帽に収めた情報幹部が中隊の前に出る。胸に着く遊撃徽章は軍曹として受けた後に将校として再度過程を通過して手にした物だ。他の軍曹達と違い速足だが駆け足では無い歩きで半長靴を鳴らしながら歩き、左向け止まれで中隊を睨む。
「本日、火器整備中に小銃を暴発させた馬鹿が居た。連隊にも当然報告が行き、頭号中隊が連隊に恥を晒す事態となっている。薬室確認もせず撃発させるなど戦闘職種にあるまじき失態だ。士官下士官とも他人事と思わず、まずお前らの指導不足を反省し、その上で再度全員に火器の安全原則を徹底させろ。次やったら殺す。以上」
手短な激を飛ばし情報幹部は列中に戻る。その最中に目を合わせて来なかった事、自身の凡ミスが中隊に波及した事、その事実が連隊という雲の上の単位まで飛び火している事を安藤は受け止めつつ平静を装った。彼の美学で言えば、失敗をした者がおいおい落ち込んで泣き叫んではならないのだ。他方、廊下に立つ城田は腕時計を見た。21時14分、狙いすました時間である事を確認し中隊の中央、2小隊の前に立ち指揮下の面々と正対する。そうでしょうなと言わんばかりの先任曹長が、誤差2秒の体内時計で正確に号令を掛けた。
「その他連絡事項……無し、了解。では終礼実施します。部隊気を付け!」
「つけーっ!」
「中隊長に敬礼!」
「かしらーぁ、なかっ!」
鼻っ柱を向ける隊列の規模はまちまちだった。損耗が各小隊に出たのだから当然であるが、小隊によってその人数はまちまちで内地に帰って新兵の補充を受けるまでは最善でもこの状態だ。
「直れーぇ!」
あくまで整然とする隊列に城田は掛ける言葉を事前に考えていなかった。これはいつもの事で、前に立ってから何となく喋ってどうにかなる程度には部隊と向き合っている。
「休め! バレガ市での掃討戦、ご苦労でした。色々有ったと思うが、明日は休養日とするので各小隊とも少しでも休養してもらいたい。尚、明日は連隊終礼との事であるのでそれだけは全員参加する様に。以上」
所要時間13秒で切り上げ、城田は不動の姿勢を取る。これで終わりとの意図を察した先任は直ぐに部隊へと号令を掛けた。
「部隊気を付け! 中隊長に敬礼!」
「かしらーッ、中! なおれーぇ!」
城田の終礼は速度戦だ。長々拘束するものでも無いと言う人徳一辺倒の終礼に安藤は何か勝手に許された様な思いを感じた。城田は全てを叩き切る勢いで挨拶をし全ての悪い流れを断とうとした。
「お疲れ様!」
「オス!」
おはようございます、も、お疲れ様です、もこの部隊では単にオスと略される。朝礼終礼の締めは押忍だ、最初はくだらないと思っていたこの習慣も自身が不始末をした後では日常の一部分だ。精神論が好みでは無い城田だが、部隊で事案が有った時に長々説教しても意味が無いと考えている。黒羽は小隊の前に立ち普段通りに小隊に一言掛けて解散させる。
「明日について、休暇処置は不要。川上、安藤は車輛整備、火器整備は――」
手短に翌日のボランティア要員だけ割り振り、黒羽は部隊を解散させた。良くも悪くも、この日安藤はそれ以上何か言葉を掛けられる事は無かった。納得いかない思い、渡された他人の小銃だと言う気持ちは有った。しかしそんな言い訳は小学生でもしない、と言う自覚も存在した。黒羽は前に立ち、さっさと解散させるべく手短に声を掛ける。
「なお、業務隊のご厚意で本日は入浴時間が2300まで延長されている。取り敢えずはお前ら臭いから5秒でシャワー浴びて来い。以上、別れ」
厳密に言えば給湯器を遅くまで回しているだけでシャワーしか無いのだが、本来より遅い時間までボイラーを回すと言う業務隊のご厚意に彼等は全力で向き合った。居室に半長靴を脱ぎ捨て、ジャージと戦闘服上衣に着替え大浴場へと向かう大群は終礼解散後即座に自然発生したのだ。クネイトラ基地が如何に日本人向けに整備されようと、大浴場に湯舟を造る事は水回りの工事が大変手間である事から後回しにされている。つまるところ巨大な空間にシャワーが並んでいるだけの空間が大浴場だ。この地に銭湯が有れば繁盛するだろう。
「お疲れ様です」
順番待ちの兵卒に挙手敬礼されるのを洗面器片手に答礼しながら川上は脱衣所へと足を運んだ。不潔の権化、汚らしさの化身であるばっちいおケツ共の隙間を縫って空いている脱衣カゴを見付けた。軍隊生活に程々馴染んだ川上には風呂場で自身の精神衛生を保つ極意を見付けている。まず自分の下着の内側を見ない事、次に下着の内側を見せない様に畳む事。体に密着するボクサーパンツ、彼が黒や紺を愛用するには好み以上の理由が有る。
「やっとだよ、サイコーだなお湯って」
「ほんとだよな、全身カビ生えるかと思ったわ」
同期である渋谷の声に川上もお湯を浴びながらシャンプーを手に吹かし答える。鎧の様に全身を纏った汚れ、急激に温められる体は疲労からの解放を無邪気に喜んでいた。半長靴の中でふやけて鬼の顔面じみてふやけた足裏から伝わる鋭い痛みすら快感に、少なくとも解放感に変える。神よ、それがお湯だ、シャワーだ。瞼の裏に居座る鉛の様な疲れすら退けてくれよう。そして川上はもうひとつ、軍隊生活で身に着けた所作で快適感の為の現実逃避を行った。原則、包皮を剥いて洗い終わるまで自身のひ弱な股間を眺めてはならない。洗い終わったらすっかり唐辛子の様に皮の戻った下半身を一瞥し、相変わらずペットボトルの口に挿れてもそのまま入りそうな男らしさの無い下半身から目を逸らしシャワーを浴びる。
「あー、川上、シャンプー貸してくれ!」
今しがた銃口手入れを終えた手で渋谷にシャンプーを貸してやる。彼も数日洗っていない肛門を洗った手でシャンプーボトルを返しているのだが、知らなければどうと言う事も無い話だ。兎に角彼は、捜索第12連隊の生存者は勝者として人権と科学の象徴であるお湯を浴びた。順番待ちの為に長々とは行かない譲り合いだが。入口に最も近いシャワーだけは兵卒優先のルールが有る。ジャガイモ達は湯がいては交代を繰り返し、帝国軍人に相応しい清潔を取り戻して行く。尻の割れ目からトイレットペーパーを30㎝ほど垂らした池上軍曹がそのままシャワーの下へ歩く姿に驚きながら、川上は脱衣所へと戻った。乾燥した清潔な下着の何と素晴らしい事か。全身を包む温かさと清潔さを毛細血管の隅々まで感じながら川上は居室へと戻った。明日には車輛整備で、しかも暴発した安藤とだ。含みを感じる勤務だと内心で自嘲しつつ、安藤と顔を合わせない様に祈りながら洗面所で歯を磨き就寝した。
大東亜共栄圏西へ 江上 @sugimotosan
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。大東亜共栄圏西への最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます