15.悪意を超えるもの
悪意は、この世界に満ち満ちている。
他者の優しさを踏みにじり、苦しませては、憎しみを生み出す。自覚なくとも、ありとあらゆる摩擦は悪意となり、刷り込まれていく。
他者を自分と混同して考えてしまうのは、人間の業だ。決して分かり合えないのに、同一になることはできないのに、それでも、求める。
ーーみんな、優しいから言わないだけなの。でも、心を鬼にして言うわ。あなたはみんなにとって、迷惑なの。だから、ね。言わなくてもわかるよね。
ーーみんな、あなたを嫌っているの。わかってるでしょう? ここに合ってないから、自分のためにも辞めたらいいと思うわ。あなたに見合う場所を探しましょう?
ーーね、私の言ったとおりだったでしょう。
気味の悪い、笑い声。
ーー好きなんだ、別れないでほしい。
ーーどうしてわかってくれないんだよ、俺は悪くない、母さんが悪いんだよ。
ーー俺のことがまだ好きだろ? なぁ。
胸に重く響く轟音。
ーー訴える? こちらの方が訴えたいと思っていたんだ。
ーー録音がある? いくらほしいんだ、どうせ、金の問題だろう?
ごぉん、ごおん。醜い囁きと共に鐘の音が聞こえる。
『さあ、呪おう』
やがて、それは返ってくる。自分の身に降りかかってくる。いつか嘲った自分が、いつか嘲けられる自分になるのだ。
『人を呪ったら最後だ。もう、戻れない』
偽善と上辺が自分の皮にへばりついて、自分を装飾していく。あぁ、気持ち悪い。
私のためにみんな動いて。
自分のことを愛している。自分が好きだから。あぁ、自分が可愛い。自分が可愛い。あなたが憎らしい。
自分以上の存在なんていらない。
罵り、嘲り、相手の心を貶めて。
ーーどうぞ、私のところまで堕ちてきて。
差し伸べられた偽りの優しさに、つばを吐く。
『呪い呪われて死ねるなら……本望だよ』
足りないものはコンクリートの塊で塗り付けて、汚れた中身を押し固め、やがては朽ち落ち、腐敗をよばう。
ーーみんな朽ちたドロドロの土の中。俺は俺を食べたい。
モノクロの世界で、いつもそう思う。
♢
一瞬、散り散りに分たれた感情が、カエルの脳を揺さぶった。どこまでもミックスされた思考と欲望は、彼の思考を奪っていた。
それは彼女のーー恵麻の苦しみが大半を占めていた。
はっと意識を戻すと、圧倒されるほどの憎しみがその場を支配している。何も見えない。感情が世界の一端を埋め尽くして、黒く塗りつぶして。哀れな少女の憎悪が、絶望のように胸に去来する。
ーー彼女の生前。
彼女はすべてを奪われたのだ。貧しくても、努力し続けて築いてきた幸せな生活は、育ちが違うという理由、気に食わないということのみで、無残に潰された。それからやっと解放されたと思えば、執着し続ける少年の押しつけの優しさに傷つけられる。
やがては凶器となった少年の感情が、衝動を伴って彼女を襲った。被害届を出そうとした彼女に押しつけられたのは、侮蔑のことばと金。情けなさと苦しみでいっぱいになりながら、その金を握りしめた。
ーーそして出会った、逆上した少年。
何もわからないうちに殺された彼女は、バラバラにされて、粉になった。地中に深く埋められて、動くことができなくなった。ぜんぶ、なくなった。
恵麻は普通の少女だった。でも、この時から彼女は呪いそのものになったのだ。
その思いがこの場を覆い、カエルの思考も支配しようとする。
ゆるさない、ゆるさない、ゆるさない、ゆるさないという気持ちがあふれてとまらないのだ。
ーーだって、私にはもっと幸せな未来があったはずなのに。
台無しにされたんだ。彼らだけが幸せになるなんて、ゆるさない。
『ゆるせないね』
彼女に同意しながら、カエルは全力で抑えた。彼女を使うべき時は今じゃない。
濃い呪詛に身を染めながら、彼や彼女の感情を取り込み、ごちゃまぜの苦しみの中でもがいて、自分の憎しみを糧に自我を保つ。
彼女のように、カエルも苦しんだ過去を持っている。彼の眼球が時に色を失い、心が不安定になるのは、その名残であった。
彼が呪いに身を任せるのは、それこそが自身の救いだからだ。
誰も助けてくれない。自分の苦しみもわかってくれはしない。だから、自分の力で報復する。
『苦しんでいるのが自分だけなんて思うなよ』
『じゃあ、同じだけ苦しんでみろ』
どこまでも心の中に屈辱の光景が残っている。フラッシュバックする絶望の瞬間は、色を奪い、感覚を鈍くさせてしまう。痛み以上に、茫洋とした心が、定まりがつかずに浮くのだ。
カエルは、恨んだ相手を同じ環境に身を置かせ、同じ苦しみを味合わせてやっと、幸せになった。苦しみ悶えている相手を見て、自分と同じになったと喜べた。
尊厳を奪い、視力を失わせた上で、呪いの壺に閉じ込めて、やっと、やっと、幸せになれた。
それでも心は空白に狂って、自分以外のものの恨みを果たすために呪詛師となった。
ーー四肢を失った子は、相手の四肢を奪い。両親を失った子は、相手の両親を奪う。命を失った子は、相手の命を奪うべきだ。
だって、奪われたんだから。
それが、正しい在り方だろ。なんで、俺たちだけが奪われないといけないんだ。
……ナラ、ドウスベキダ?
恵麻の感情が、さらには裕也という少年の邪念が、カエルの感情を汚染していく。視界だけでなく、四肢の感覚を失ったでくの坊に変化していくのだ。
カエルは、五神ーー生命活動を支配している気ーーを犯されていた。活動を支配している
カエルの意思だけでなく、見知らぬ憎悪がへばりついて、彼を動かそうとしている。
無意識までも支配する、こんな呪詛は聞いたことがなかった。体の中に虫が這ってくる感覚がした。これは蠱毒ではなく、なにか、もっと危険なものだ。明があぶない。
しかし、その思考までも瞬時に塗りつぶされ、
ーー手が勝手に動いていく。
この場にいる全員に、コレヲ振りまかなくてはいけない。……だめだ、これではだめだ。呪詛をこのように使うくらいなら。
ーーごめん、恵麻。
カエルはまだ残されている理性に従って、呪を組んだ。
『……骨は礎、形を作る。礎なければ、形は解ける』
手の中には、白い粉。ぐるぐると渦を巻いて、小さな指ができた。周囲の土を巻き込み、葉を巻き込み、肉を巻き込んで、いくつもいくつも指が生まれた。指はまるで小さな花のように咲いて、指がつぼみになるのを繰り返していく。もしこの手に捕まってしまえば、骨は抜き取られ、肉だけの生き物になる。
ーーきぃぁ、きぁあああ、きぃあああ、きいいいあ。
虫がうるさい、痛い、でも、まだ、耐えられる。
カエルは続きの呪を紡ぐために、息をゆっくりと吸った。
『骨は砕かれた。形は解かれた。痛みはすべて、持ち主に返れ』
指の一つ一つが、ばらばらと粉になっていき、土や葉、虫の肉をぐちゃぐちゃに丸めて、ちいさくする。呪われたものすべてを対象にする大規模な呪だ。
生まれた指は、呪う相手に帰って行く。そうなるように、カエルが作った呪だ。
『形作る花』と名付けたその呪は攻撃を、『散る花』は呪い返しのための呪であった。蠱毒対策のために作ったので、まさかこの場で使用することになるとは思わなかったが、それが役に立った。
その力のおかげで、空間を飲み込んでいた邪念は、呪の中に取り込まれ消え去った。濃密な憎悪も、増幅するための呪を解除してしまえば、静かになった。暗闇はなく、静かな庭園だけが残っている、はずだ。
ーーこれでなんとか、この場所から呪いの念はなくなった。……カエルの中に入った恵麻と裕也以外は。
自分の中にいる呪に関しては、自分が耐え続け、相手の自滅を狙うしか今は手がない。どんなに苦しくても心を奪わされそうになっても、明がここにいる限りは絶対に暴走できない。……明はやみこちゃんを呼んでいるだろうか、それともぬしさんを呼ぶだろうか。
「……卜さん、卜さん?」
呪は破ったのに、明のこえがきこえない。何も聞こえない、何も見えない。カエルはその場に座り込んだ。
ただ、虫が中に入ってこようとするのを抑える。『葛の葉』の守りを使って、細胞が破壊され、筋肉の中に入ってくるような感触と痛みに耐える。
ーーあぁ、俺のことを悲しんでくれる相手もいないのに。どうしてこんなにがんばってんだろ。
カエルの人生は、順風満帆とは言いがたかった。それどころか、山あり谷あり、断崖絶壁、もう終わりみたいな人生だった。
それなのに、いつの間にか普通の生活をするようになっていたから、この痛みを忘れていたのかもしれない。
カエルを呪詛師として、
ーー昔の言葉を思い出した。
『どうして危害を加えられた俺たちが、許さなきゃいけない。そんなの間違ってるし、もっと苦しんでくれないと』
『許すなよ、死んでも許すな。……でも、報復は、おまえの全部を捨ててまでしなければいけないことじゃないんだ。自分は許してやれよ、おまえの人生はおまえのものなんだから』
自分を責めていたわけではなかった、そう思っていたけれど、いつしか復讐することでしか自分は生きていけないと思い始めていたのかもしれない。復讐を終えた後でも、ずっとそれにとりつかれていた。相手を許すことじゃなくて、自分を許すだなんて、考えられないようなことだったけど。不思議とその言葉が頭の中に入ってきた。
『じゃあ、俺はどう生きればいいか占ってよ』
『どう生きたいんだよ、幸せになりたくないやつの占いはしないぞ』
『……そうだね、幸せにはならなくてもいいけど、生きててよかったと思うような、そんな導きがほしい』
そう言った後、カエルに示された道は本当に堅実すぎるくらいの道で。なんか、笑えてしまったことを覚えている。
「ぉぃ、おぃ……」
もうろうとした意識の中で、ふと声が聞こえた。
「おい、カエル。何ふてくされてんだ」
明の声だ。至近距離にいるのだろうか。とても声が近くに聞こえる。
どんどん、感覚が戻ってくる。
「起きろ」
命令のように、優しさなんてかけらもない声で、明はカエルに話しかけた。
ーーそれがうれしかった。
絶望なんてすべてひっくり返してやると、言わんばかりの、少年。切り開くために力を用いることを自らに定めている
ーーなんでだろう、いつも彼が道の先にいるんだ。そして、俺はそれがうれしいと思ってるんだ。
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