セックスアンドデストラクション

仇辺 拾遺

セックスアンドデストラクション

 私はお腹をさすりながら顔を歪ませている。収穫後の何も植えられていない畑が広がる平野、その隅にポツンと立っている小屋の陰で。

 夕方、秋空と周囲の景色が愁いを帯びた茜色に染まる。湿った空気。せっかちな虫がぽつぽつと鳴き始める。蚊柱が光を反射して塊で舞い続ける。地蔵が優しく微笑んでいる。そこに場違いな低い唸り声が木霊した。怪物がいる。

 太い丸太のような腕が六本、足が四本、ケンタウロスのような体形。角があって、縦に六メートル、横に四メートル、金色の鎧や装飾で身体を飾り付けている。顔はブルドックをもっと凶暴にしたような……とにかくこの世のものとは思えないような筋骨隆々な異形。それが眼を爛爛と赤く光らせている。

「あんな凶悪な見た目の奴は初めてッ……!」

「セララ、聞いて下さい。この場面で逃げてしまうと悪化の一途を辿ります。下界ここに適応されたら今よりもっと力を持ってしまう。貴女や周りの人達が酷い火傷をする前に、貴女自身が火の粉を払うしかないんです」

 地面から三〇センチ浮いている女の幽霊? が私を呼びながらごちゃごちゃ何か言ってる。コイツなんだっけ? なんつったっけ? 『ポピン』だっけ? が傍らで座り込んだ私の顔を覗き込んでいる。

「お腹ッ……痛いィ……!」

「それは貴女が魔女の素質があるからです。魔女は子宮に魔力を貯蓄します。だからアレも私も見えるんです。要は……あの怪物がやっている事です」

「だからぁ……子宮が……?」

「そうです。貴女はあの怪物を殺さなくては――」

「待っでぇ……どうすりゃいいか子宮で考えてるがら……!」

「考えてたらきっと手遅れになります。それも子宮でだなんて――」

「んじゃあどうすりゃいいのォ! なんなの、なんなのこれ……」

「私を受け入れてあの怪物を殺すんです。『受け入れる』と言って下さい」

「分かったって! 受け入れる! アイツ殺す!」

 投げやりに荒々しく、そしてうなされるように叫ぶ。するとポピンは隣で確かに呟いた。

「契約成立。魔女化の為、胎内に入ります」

 そしてポピンと名乗った幽霊が見る見るうちに股へ吸い込まれていくのを目撃する。すかさず太腿ふとももを閉じたが関係ないようだった。即座にブレザーのスカートを捲ってパンツを確認し、それでも繊維の隙間から粒子となって入ってきているようだった。

「あぁ……下は出口用でしか使った事無いのにィ……!」

「さぁ、集中して……」

 その声はセララの内側から聞こえてくる。ポピンと私はもう混然一体なんだ、そう悟った。

へその下辺りに手を当ててみて下さい」

 彼女は生理の時のような痛みに顔を歪ませ、夜が這い出てきつつある空を見上げながら探るように手を動かす。すると突起物が段々と臍の辺りから出て来ている感触がする。すかさず腹部に目をやると、光沢のある灰色の物体が下腹部から突き出している。

「なに、これッ!?」

 銀色の物体が刺さってる!? 違う、お腹から出て来てるッ!

 ポピンは落ち着き払った声で呼びかける。

「それが貴女の武器です。天使に立ち向かう為に生み出された、ただ一つの。それを引っ張り出して下さい」

 そう言われる前に彼女は嗚咽を漏らしながら引き抜こうとしていた。それに伴って中の臓器が付いてくる感触。それを皮膚が止めている。気持ちが悪い。反りながら過呼吸になりながら徐々に引っ張り出す。

「うぐ……うあぁ……!」

 息みながら腹部から引き抜くと、それは鋼色のミートハンマーだった。杭を打つ為の本来平らな部分がギザギザと尖っている。そうやっておろし金のようになっているのは、肉の繊維や筋を断ち切る為らしい。

 彼女が息を切らしながら色んな角度からハンマー見ていると、それは一気に大きくなり、驚きと共に咄嗟に手を離す。

 めり込みながら地面に立ったハンマーは鈍く輝いている。長い柄に大きなハンマーヘッド、両手で持たないと、いや、持っても持ち上げれるかどうか分からない程の重量。解体工事の時使うスレッジハンマーより更に大きい。明らかに女性が使う大きさでは無かった。

「それをふるって倒しなさい。貴女にとっては、その槌の質量は無いに等しいでしょう」

 彼女は立ち上がり、言われるがままハンマーの柄を握った。それは驚く程軽く、彼女はバランスを崩してよろつく。見た目にそぐわず羽のような軽さ。これは私だけの物なんだと直感で理解出来た。

 お腹の痛みはもう無い。あの異形に対して沸々と怒りが湧いてくる。

「これで……殴り殺しゃあいいのね?」

「ええ。一撃で決めましょう」

 セララは小屋の物陰から身を出し、風を受け止め、黒い斜めの前髪と三つ編みを靡かせ、怪物を真正面に捉えて叫ぶ。

「かかって来なさい! ケダモノォ!」

 金色に身を飾る怪物は呼びかけに振り返る。セララは怪物に歩いていく。ローファーの靴底に湿った土がこびりついて足元が重い。

 怪物はこちらへ振り返り、その血走った双眸そうぼうがセララを捉えた。見るなり咆哮を上げ、劈くような耳鳴りがする。

 そして彼女へ向け獰猛に、土を巻き上げながら走り出す。風がうねり、迫りくる振動が段々と大きく伝わってくる。あと数十秒後にはあの筋肉の塊のような巨体に轢き殺される。

 そんな緊迫した状況のはずが、セララは何故か全てを曝け出した解放的な気分になっていた。誰も居ない早朝の学校の中、日の光を浴びて一糸纏わぬ裸で踊るような、恐れよりも酷く酔った気分になった。セララは感じる。

 私は何をどうすればいいかが分かる。私に何が出来るのか分かる。全て私の意のままに……。

 セララは大きく息を吸って、止めた。歯を食いしばる。ハンマーを両手で握り、大きく踏み込み、怪物に当たる距離でもないのにスイングする。

 すると、スイングの途中でハンマーの頭が巨大化し、柄が伸び、向かって来る怪物の上半身を容易く破壊した。まるで化け物の身体がゼリーで出来ていたかのように、筋骨隆々の強靭な肉体が原形を留めない程だった。

 グシャグシャになった肉塊からはビビッドでカラフルな血が噴き出す。赤、青、緑、黄……それより遥かに多くの色が混ざり合う。

 怪物の下半身は腸を引き摺りながら上半身が無くなる寸前の姿勢で硬直し、地面に四本の脚を擦り付けながら慣性で進む。遂にはセララに達する事無く止まり、横に倒れた。

 振り切るとハンマーは元の大きさに戻っていく。

 さっきまでの狂騒と打って変わって辺りは静寂に包まれ、自分の呼吸の音と心臓の音が強く響く。

 怪物の屍から血液、体液が溢れ、プールを作る様を見て、セララは得も言えぬ快感を感じ、半ば朦朧もうろうとしながら激しく興奮した。とくとくと欲求が満たされていくのを感じる。

 彼女は熱い吐息を吐き出しながら呟いた。

「私は魔女ね」

「ええ、紛れもなく」

 ここに至るまで何があったか、少し巻き戻してみよう。いや、別に特段何も無いんだけどさ。


 ≪REWIND


「幽霊ではありません。名前を教えてください。貴女の名前を」

「はぁー、身長もだけど、おっぱいクソでっけぇー。最早下品だね。おっき過ぎじゃあない?」

「お言葉ですが、貴女の方が下品ですよ」

「残念、処女でぇーす」

「中身がです」

「だから処女だっつってんでしょ!」

 これが私……セララと幽霊っぽい、ホントは違うらしいポピンとのファーストコンタクト。全然ドラマチックじゃない。情緒もない。下校中の田舎道でいきなり現れた。ナンパとか不審者とかに声掛けられた時とあまり変わらなかった。

「名前を教えて下さい。私はポピン。私の名前はポピンといいます」

「はぁ…………棗谷なつめや世羅來せらら

「貴女はセララ、ですね。少し話をしましょう」

「嫌でーす。悪霊退散。南無三」

 この日は学校から帰ってたらいきなり足も地面に付いてない女に話しかけられた。服装は真っ白な肌を晒さない黒いローブみたいなのを着ている。頭巾みたいなものも被って、シスターの服に少し似ているかもしれない。

 顔は完璧な美だと言えるほどで、睫毛が長く、目はすっと閉じられている。薄目を開けていない、それでも私が見えているらしい。可愛い系ではなく綺麗系で息を呑む端麗さ。素晴らしい美貌を持つ私じゃなかったら卒倒しただろう。やっぱり幽霊って顔が奇麗な人が多い。

 そして特筆すべき所は身長が凄く高い。一九〇センチくらいはあると思う。一六四センチの私よりだいぶ大きい。身体も胸も。

 私も胸はある方だと自負してた。だけどコイツデカすぎ。何カップだ? 全ての男を悩殺する、私のGカップが霞む。

「貴女は対人恐怖症らしい側面があるとお見受けしました。何故私にはそうではないのですか?」

「訂正すると対生者恐怖症。幽霊みたいなのはちょこちょこ見てるし、アンタみたいなのも。誰も信じてくれなかったけど」

「それは多分幽霊ではないですが、まぁいいです。話をしましょう」

「……お腹痛いから無理」

「あの化け物について」

 で、畑に居た化け物から隠れてさっきに至る。経緯もクソも無い。いきなり放り込まれて本当に何が何だかって感じだった。


 ≫FAST-FORWARD


「ちょっと待って、家にまでついてくんの?」

「今日は疲れましたよね。明日詳細を話します。ですが出来ればセララの家に居たいです。いつ私の力が必要になるか分かりませんし」

 そんなお題目よりも、ポピンは知りたかった。セララという人間を。

「……それならまぁ」

 舗装されていない農道を歩き、隣の市に差し掛かる。日が暮れて辺りは仄暗くなっていく。やがてセララの家がある江仁原えじんばら市に入った。

 セララが通う学校、灯江岬ともえみさき西高校がある灯江岬ともえみさき市と隣接する市であり、そこから通学する生徒はセララだけだった。人の通りも家も疎らになり、畦道を歩いていく。

 そして二十五分ほど歩き、セララの家に到着した。黒く、大きい洋風な門と広い庭があり、豪邸だった。セララの住む家はゴシックな洋館で、屋根では風見鶏がキィキィと音を鳴らしながら気怠げに回っている。庭に生えている木は葉を落とし、ゴシックホラーのような不気味な、それでいて美しい雰囲気を湛えていた。

 中心街から外れた場所にあるので、周囲の家は敷地が広かった。農場や果樹園が多い傾向にある。

 家の前に広がる庭を歩いていく。ポピンは痩せた木に近寄り、その幹を見ながら周る。セララは玄関に向かって歩きながら、庭に生えている葉が落ちた果樹を一つずつ指差していく。

「それがマスカット、この木がリンゴ、んでこっちがナツメ」

「ナツメ……」

 ポピンは何かで聞いたことがある気がして、その言葉を繰り返した。セララがすかさず言う。

「そ、私の苗字、棗谷なつめや。犬飼さんが犬を飼ってんのと同じね」

 そう言いながら開錠して家へ入ってローファーを脱いで床に上がり、電気を点けると広い玄関が迎える。中は奇麗で整えられており、管理が行き届いていた。お手伝いさんが昼に掃除しに来ているらしい。大分裕福なのが見て取れた。

 彼女は階段を上がっていく。廊下を渡って自分の札が掛けられている扉を開ける。

「ここ、私の部屋」

 彼女は部屋に着くなり、革製の黒いスクールバッグを机の上に置き、ヘアゴムを外した。束ねた三つ編みを解き、手櫛てぐしいている。

 セララの部屋は飾り物に写真立て、十数冊のアルバム、ぬいぐるみ、窓際にはモービルなど雑多な印象を受ける。

 開けっ放しの大きなクローゼットの中の洋服はさりげないお洒落さを感じさせる服が多かった。シャツワンピース、フレアスカート、カーディガン、ニット、ブラウス、その全てに一貫した感性が見て取れた。

 ポピンがまじまじと服を見ていると、背後から彼女が言う。

「ママに買って貰ったのに全然着ないの」

 ポピンはセララに振り返る。彼女は髪を下ろし、さっきよりも気性が穏やかになっていた。情緒が安定している。

「着なくても分かります、似合うでしょうね」

「言わなくても分かってる、私が麗しいからね」

 一階のリビングに降り、彼女は冷凍のドリアを食べ、おやつにフリアンを食べた。

 そして常温で置かれてある洋梨、ゼネラル・レクラークとシールが貼ってある。その果実の上部を指で軽く押して呟いた。

「やっぱり、まだ食べ頃じゃないみたいね」

 それから彼女はキッチンの奥から水蜜桃すいみつとうを一つ持ち出してくる。小振りのナイフをさやから抜き、桃をナイフの背で優しく撫でる。そうしていると皮が弛んで手触りが変わる。それを頃合いに桃の割れ目に沿って切れ込みを入れると、そこからぱっくり開くように、するりと皮が剥けて瑞々しい果肉が露わになる。

 そして中の種を取り除き、皿の上で一口大に切り分け、左手で口に運んでいた。

 その後、シャワーを浴び、パジャマに着替えて髪を乾かし、歯を磨き、ナイトキャップを被ってベッドに寝そべる。時刻は丁度九時を回ったところだった。

「ママもパパも帰って来るのが遅いから、見られてるの落ち着かない」

「家の外で待ってます」

「そうして。寝顔はブスなの」

 ポピンは壁の向こうへすり抜けていく。セララは暗闇でゆっくりと目を閉じた。そこには軽やかな疲れとそれによる安眠があった。現実との境目が曖昧なまま、緩やかに夢の中へ落ちていった。



 次の日、十一月十二日、家の外でポピンは待っていた。セララは朝食に食パンとゴールデンキウイを食べ、支度を済ませ、早朝に家から出る。曇り空、木枯らしが吹きつけ、耳の奥が痛くなってくる。いつも通り約一時間かけて歩いて学校に通う。

 自転車に乗ると近道や、階段を上ったりする時に邪魔になる。それに加え、彼女は歩くのが好きだった。色んな人の生活を、経過を見るのが好きだった。

 ピンク色の小さな自転車が風除室に置いてある家、猫が窓際であくびしている家、いつかの古びた折込広告が郵便受けに突っ込まれているが、受取人が不在の空き家、大小様々な洗濯物が何日間も干しっぱなしの機能不全の家、それらを見るとこの町にも色んな人が居るという事、この町に馴染めている気がして安らいだ。彼女は四つある通学コースをローテーションしていた。

「何故、灯江岬ともえみさき西高校を選んだんですか?」

「高校デビューってやつよ。遠くを選ぶ理由は皆大体そんなもんでしょ」

 セララはほとぼりが冷めて段々と事態を整理出来てきている様子で、ポピンから少しずつ様々な事を聞いている。

「セララ、貴女は不完全な魔女の状態ですので、私が補助します。私がいれば魔女化出来ますし、安全弁としても機能――」

「そういう理解出来ない話は聞きたくないんだけど?」

「ですよね。そう言うと思いました。端的に言えば『共に戦いましょう』という事です」

「はぁーん」

 それからポピンはセララに与える情報の量に気を遣うようになった。セララがもう一度ポピンに確認する。

「えーっと、魔女の私が人間の負の感情を吸い込み過ぎた天使を天界に還すって事なんでしょ?」

「はい。それで堕天使である私が貴方を補助します。火の粉を払い、天使を昇天させて、平穏な日々に戻りましょう」

「無かった事になるんでしょ? 天使も、それによる災害も」

「そうです。天使が天界に戻り、因果が確定しなければ、要は貴女が天使を逃さなければ」

「でもそれならさぁ、他の魔女に任せりゃいいじゃん。居るんでしょ? 私じゃなきゃいけない理由なんてないじゃん」

「セララ、貴女は他の魔女より一際ひときわ強いんですよ。魔鉄器まてっきとフィジカルが」

 魔鉄器というのは子宮から取り出した、あの鈍色のミートハンマーの事を指していた。しかも魔女はそれぞれ違う魔鉄器を取り出すと聞いていた。

「規格外の暴力ですよ、本当に」

「あぁ、そう……」

 戦うとか、危険なのは男がやれや! ってそっか、子宮は女にだけあるもんね。

 そう一人で納得して自分の綺麗な掌を見つめた。

 ポピンと話をしている間に高校に着き、教室に入って着席する。周りはお喋りをする中、淡々と勉強するセララをポピンは見た。数学のワークをしている。勉強がしたいというよりも、手持ち無沙汰で仕方なく、という感じの雰囲気があった。だからか彼女は成績が良かった。

 その後、授業が始まり、一、ニ、三時間目も順当に終わる。すると、十分休みに彼女は素早く席を立ち、早歩きで人があまり来ないトイレへ行く。

 パンツを下げ、深いため息をついて便座に座る。それから何も考えずにボーっとトイレの壁を見つめた。そうしているとポピンはセララが見つめていたトイレの壁から顔だけ出して喋った。

「遅いですよ、大丈夫ですか?」

 驚いた動きと表情の後、セララは傍らの棚にある予備のトイレットペーパーを掴んでポピンの顔目掛けて投げつけた。

「覗くなァ! クソッ、出そうなのに引っ込んだでしょ!?」

 ポピンは昨日とは違い、荒々しい気性に戻っていると思いながら黙って顔を引っ込めた。

「最悪……」

 トイレから出ると四時間目は理科室で行われるらしく、彼女は一人で学校の廊下で歩いている。周りには誰も居ないのでポピンと堂々と話す。

「セララの家の近くに天使が居ます。人の悪意をスポンジのように吸い込んだのが。動き出したら――」

「それ、今日じゃなきゃ駄目? もっと休みの日とかに……」

「見た感じ、もう少し猶予があります」

「ていうか私……あっ!」

 話を切り上げてセララは窓に貼り付く。接近し過ぎて呼吸をする度に窓が白く曇る。ポピンも窓に寄る。中庭を見ているらしい。視線の先には撫で付けられたマッシュヘアの男子生徒が居た。

「アキト先輩!」

 セララがお熱になっている彼が中庭に居て、それを見てるらしい。でも彼女はすぐに顔色を変えた。

「――の、隣にデブス。はぁー、最悪。早くどっか行って」

「情緒壊れてますよ」

「ステーキの横にうんこが配置されてたらどうよ?」

「さっき出した感じどうでした?」

「あぁー……自分のでギリかな」

 ポピンは溜息をつく。

「アキト……でしたっけ? 彼、悪い噂しかないですよ。女子生徒二人妊娠させたとか、ネットに猥褻な動画を流したとか、その他諸々。余罪は数え切れません。それで本人は犬系男子なるものを自称しているようです。まさかセララが好きになってただなんて……」

 セララに接触する前、ポピンは特別な魔女候補者を探す為に学校の中を回り、色んな情報が入っていた。ポピンの話をセララは聞いているが、どうでもいいらしかった。頬に手をやって恍惚としている。

「はぁ~イケメン……! 運動神経が悪い所も逆に……!」

 黙っていればセララは顔が人形のように整っている。生気が無い、人間味が無い神秘的な顔立ちだった。髪も目も真っ黒、低い位置で三つ編みを結っていて前髪は斜めにカットしていた。その前髪の切り方は内なる反骨精神の表れなのかもしれない。しかし、優等生にも不良にもどっちにも振り切れない、どんな髪型が良いのか高校二年生になっても迷走している、三つ編みと斜めの前髪はそんな印象を与えた。

 そんなセララの美貌なら遊ばれるくらいは出来るのでは、とポピンは思うが言わない事にした。それに彼女は――

「授業始まりますよ。移動教室なら早めに」

「ういっ、すぅ、すいますうぇん」

 通りがかった先生にこう言われただけで動揺し、すぐ走り去る。セララとのファーストコンタクト時にも言ったように対人恐怖症の気があった。

「内弁慶……」

 ポピンは今見たままの感想を呟く。セララはポピンを殴ろうとしてすり抜け、思いがけず壁に拳が打ち付けられる。殴った部分、壁の表層がパラパラと剥離し、破片と粉が落ちていく。

「いやっ……ばぁ……」

「中途半端とはいえ、貴方はもう魔女なんですから。走った方がいいんじゃないですか?」

 セララは教科書を抱え、逃げるように理科室に向かった。「男子がやりました」と心の中で何度も復唱しながら。



 四時間目の科学が終わってチャイムが鳴る。一斉に理科室から人が放出される。

「これからどこ行くんですか?」

 セララは黙ったまま早歩きで『2332』と名札が貼られたロッカーに向かい、科学の教科書や筆箱を置いて、スマホなどを持ち出す。彼女は人混みをするりと抜け、三階へ向かう。

 そして四階への階段の前に設置してある簡易的な木のバリケードを跨いで越えていく。戸惑いも罪悪感も無く、明らかにそうする事に慣れていた。

「そっちは行ってはいけないのでは?」

 彼女は返答せず階段を上がり、その先には銀色の扉があった。そこでポケットから鍵を取り出して屋上に出る。そしてまた鍵を閉める。

 ポピンは扉をすり抜けて周りを見渡す。そこは柵は無く、低い手すりが縁取っているだけだった。地面の緑色のコンクリートには少しひびが入っている。触ったら砕けそうな木葉が隅の排水口付近に吹き溜まっていた。

 空は厚い雲に覆われ、それが偏西風によって素早く運ばれていく。東のずっと遠く向こうの方を見ても、雲の切れ間は見えなかった。その風でスカートがはためく。髪が揺れる。

 セララは身震いしながら乾いたコンクリートにゆっくりと横たわる。彼女は自分の身体は柔らかいのだと改めて実感する。

 そうして寝そべっていると、立っている時よりも吹きすさぶ寒風に晒されない。屋上の縁はパラペットという低い手すりがあり、それが風除けになっている節があった。身の震えが少しだけおさまる。

「ここですか? 風もあって外は寒いでしょうに。中が暖かいですよ。ヒーターも焚いています」

「いい。私の居場所なの。どんなに寒くても」

「一人で居るのを見られたくないのですか?」

「……言わせないで」

 曇った寒空の下、ポケットからスマホを取り出し、イヤホンを耳に入れて目を閉じた。再生するとアコースティックギターとバイオリンが奏でる温かい音色のイントロが流れ出す。背中を丸め、両手を太腿で挟む。その姿はまるで御母堂のお腹の中で眠る胎児のようだった。

 ポピンは音楽のノイズにならないように黙ってセララを見つめていた。朝、お母さんが作ったお弁当も食べていない。彼女を暖めたい。でも触れられない。ポピンはもどかしかったが見守る事しか出来なかった。どうか、せめて今だけでも安らかであるようにと。



 予鈴が鳴ってセララはブレザーをはたきながら学校の中に入った。

 五、六時間目はセララの苦手な班になる活動だった。しかし、自動で出来上がる班なのでまだ良い方である。誘えないので当然誘われ待ちになるが、やはり誰も寄ってこない。あれに比べれば幾分楽だった。

 灯江岬ともえみさき高校生アイデアコンテストというものがある。地元に密着した地域活性化アイデアを高校生に考えさせる。優秀賞は実現するかしないかは置いておいて図書カード一万円分。

 セララは図書カードなんか欲しくなかった。班活動なんてしたくなかった。午後になるにつれて、セララの顔色が悪くなっていく。いつも悪いかもしれないが、今日は特段悪い。

「頑張りましょう。あと二時間程で帰れますよ」

「時間の進みは一定ではない事はご存知? その二時間が長いの」

 先生が指示し、セララの周囲四人の机をくっつけて一班分の席が出来上がる。そこに適当に割り振られた三人が入り、計四人で班活動する。セララの席移動は無かった。

 そしてやってくるのはブリーチをして不自然な茶髪になっているアッパーなギャルと、ボブヘアの髪の隙間から時折見える銀色のピアスが光を反射してちらつくダウナーなギャルと、顎がしゃくれていて声が高い眼鏡陰キャ男子、そしてそこに魔女セララ。おおよそまともな案が出るとは思えない班が出来上がった。

 ポピンは地面をすり抜けてどこかへ行ってしまった。

「ネェ、カラオケのクーポンあるぅ?」

「無いよ、前ので使っちゃったし」

「エェ~、歌いたい気分なんだけどぉ」

 対面ではスカート二回折りのハイテンションなギャルと一回折りのクールなギャルが話している。眼鏡の男子は黙々と箇条書きで一人で案を書き出して、セララはその隣で何もせず下を向いて黙っている。机の下で親指をグルグル回して時間を潰す。

 私の指は回りに回るのに時計の針は回らない。止まっているように見える。あっ、これがクロノスタシスってやつ?

 セララは俯き、前髪で目線を隠しながらチラチラと時計を盗み見ていた。

「――ってかセララちゃんさぁ」

「んあ、はいっ」

 急旋回で話を振られて素っ頓狂な反応をする。セララは相手の顔色を伺う。

 あんまり話した事が無いのに名前呼び、それに「ちゃん」呼びだなんて。距離の詰め方が凄い。何の用だろう……? まさか怒られる? お前も案出せって? あっちも出してないのに? 校則も守ってないような人達だし、どうしよう、どう来る……?

「顔フツーにカワイイよね、いつも俯いててわからないけど」

 えぇ……!? 私、確かに可愛いけど、そんなぁ!? それ程でもあるんだけどさぁ!

 セララは嬉しくなって口元がムニュムニュ色んな形に変わる。頬が緩んだと思ったら真顔になって、また緩む。「私は褒められてもクールだわ……」と「可愛いって言われたし、話しかけられた!」がせめぎ合う。

「ありがとござぃます……」

「セララちゃんさぁ、大人しいから、やっぱ『そういう人』からモテるでしょ? おっぱいもおっきいし」

 そういう人? そういうって? おっぱいは大きいですが。

「いや何それ、どういう人?」

 どういう? どういう人?

「えぇ~、ヲタク的なぁ~?」

 ヲタク? ヲタク……?

「ナツメヤさんにはまだ早いでしょ」

 早くねぇわ。私だって情事の一つや二つ。

「ねぇ、そうだよねぇ、セララちゃん純粋なんだからぁ。ウブなオトメってやつ」

 私がうぶ? 勝手に決めつけるな。私の事知らない癖に。誰も私を知らない癖に。

「うふふふふ……」

 セララの表情は顔色を次々と変える事無く、同じまま固定する事が出来た。作り笑いのわざとらしい上品な笑声。感情を感じられない、人形のような血が通っていない整い過ぎている微笑み。しかし、それが次の一言ですぐさま崩れ去る。

「ナツメヤさんはアキトなんかと付き合ってるアンタとは違うから」

 セララは勢い良く視線を上げ、ギャル二人を交互に見た。

 えっ……アキト? それってアキト先輩だよね? 付き合ってる……?

「なんかってナニよぉ」

 え? 付き合ってる? 嫌。嘘だ。嘘じゃないと。

「私は好きじゃないから、あの男。ナツメヤさんもそう思うよね?」

 私!? 私は……。

「確かにセララちゃんの趣味ではないって感じぃ~?」

 私……。

「あ……そう思います……」

「ほんとにアンタ男の趣味最低」

「えぇ~、イケメンじゃ~ん」

「そう? そう見えないのが全て」

 アキト先輩と付き合ってる? 目の前のコイツが……? コイツが……。

「あ~、愛され過ぎてツラいわぁ」

 茫然としているとあっという間に時間は過ぎていく。結局セララの班は顎がしゃくれてる、ギャル達には「シャクちゃん」と呼ばれてたソイツの案になった。この班は灯江岬ともえみさきの特産品であるホタテ貝殻の再利用というアイデアを提出した。肥料や洗剤やチョーク、歯磨き粉にまでなるらしい。

 だが、結局他の班のアイデア、潮力発電を灯江岬の近海でやるというものが採用となり、このクラスの代表として役所に送付される事となった。

 しかし、セララにとってはそんなものは死ぬ程どうでも良かった。

 帰り道、ポピンが話しかけて来ていたが、何も返答しなかった。そういう気分じゃないというのを言外に伝えていた。それを察したようで、ポピンも黙って付いてきた。

 纏わり付くような不気味な夕焼けが顔を照らす。他の色彩の上から橙色で厚塗りして世界を汚していく。鬱々とした異常な景色、その異常さに気付いているのは私だけ、セララはそう思った。

 気分が悪くなるような景色が続いていく。舗装されていない道、傍らには田畑がある。木の柵から飛び立ったカラスが喚くように点呼し、鬱蒼とした山の中へ消えていく。空には鱗雲がどこまでも続いている。

 以前よりは弱まったものの、不吉で気が滅入るような秋風が吹き抜けていく。誰かの呼吸音のような、ヒューヒューという音を耳にしながら歩き続ける。

 その道中、喉が無性に乾いて道端の褪せて汚れた自動販売機に小銭を入れる。そして人差し指でボタンを押そうとした瞬間、班活動での幾つもの会話、表情、立ち込めた空気、そういうものが鮮烈にフラッシュバックする。

 セララは出した人差し指を引っ込め、握り拳にしてボタンを強く殴った。その衝撃で電灯が全て消えた。数瞬の暗転の後、殴られた部分以外はまた大袈裟に光り出す。

 下から缶のレモンスカッシュが出てくる音。プラスチックのボタンとショーケース部分が割れ、その部分だけが筐体がへこんでいた。拳を引くと透明の破片がパラパラと落ちていく。ポピンが心配そうな表情と共に尋ねる。

「セララ、大丈夫ですか?」

「…………釈然としない。やっぱ無生物じゃ駄目ね」

 セララは屈んで缶を取り出す。プルタブを開けながら明るく振る舞う。

「決めた! 育ったっていう天使を今! 収穫する!」

「朝、私が言ったやつですか?」

「どの辺に居る? 案内して。ぶっ殺っ……昇天させてあげるからね」

 セララはレモンスカッシュを口に付けながら先導するポピンに続いた。

 ローファーのつま先を見ながら歩いていると、背後から甲高い鳴き声がする。振り返ると、三匹の白鳥が頭上を飛び去っていく。冬の風物詩で、白鳥が渡り鳥としてオホーツク海やシベリアから長い旅を経て日本にやってくる。今飛んでいったのは、この辺りに点在する湖を飛来地としているらしい。

 セララはふと幼少期、白鳥に食パンをあげようとしたら小さな御手手ごと食べられ、泣きじゃくった事を思い出す。その瞬間を写真に撮られ、アルバムに保存されている事も。ぷっくりした頬っぺたであどけない、活発な女の子。はそうだった。

 口を付けた缶の縁を親指でなぞりながら、自分は喪失の最中に居るような気がした。

 ワタシ、コレデイイノカナ?

「セララ、この天使です」

 セララは対象の天使を見て驚いた。その驚きの高さに。竹のように真っ直ぐ天を突く、巨木の幹のような太い芋虫。それが閑散とした緑地の真ん中にそびえている。砂漠に居るらしいUMAのモンゴリアンデスワームに瓜二つだった。

 もしかして、そういうUMAとかの正体も天使だったりするのかな?

 セララは缶ジュースをぐっと飲み干して芝生に置き、屈伸や伸脚、前後屈など準備運動をしながら言う。

「前のと違うけど?」

「こちらは適応すると動き出すタイプの天使です。入りますね」

 ポピンは光の粒に分解されて下半身から入ってくる。そして臍の辺りにから突起物が飛び出す。セララは一気に引き抜く。

 大きく鈍く輝く銀色のミートハンマーを両手でしっかりと握って力を込める。頭の中のイメージを自身の身体で再現する。

「だるま落としの要領で……!」

 セララはハンマーを横に振って遠心力を働かせ、自分を中心にしてバレリーナのように素早く加速しながら回る。スカートの裾がふわりと膨らみ、つぼみから開いた花のように、たおやかに舞い広がる。

 そうして自重で落ちてくる天使の身体を着々とグロテスクな肉塊にしていく。血飛沫が地面をカラフルに彩っていく。段々と芋虫型の天使の頂上が見えてくる。目が回らないのはセララ元来の能力だった。三半規管が異常に強いらしい。

 遥か上にあったはずの芋虫はものの一分でセララより低くなっていた。顔部分を見ると芋虫よりヒルに近い。

「これでぇ……おっしまぁーい!」

 セララは頭を叩き潰し、虹色の返り血をその身に浴びた。ハンマーを持ち上げると、おろし金の尖端から天使の血液が滴り落ちる。彼女のいつもの癖で上唇を舐め、満足気に言った。

「私なら、こんなもんよ……!」

「お見事です」

 天使の血液はセララの身体からぺりぺりと剥がれ、天に昇っていく。天使の死骸も少しずつ消えていく。ポピンが股間から粒子となって出てくる。セララは天使への八つ当たりによって心の角が取れ、丸みを帯びた穏やかさがあった。

 ゆっくりと消滅していく天使の残骸を横目にセララはハンマーの頭の部分を丁度良い具合の大きさにし、水平になった柄の部分に座って、足を揺らしながらリュックから弁当箱を取り出す。

「今食べるのですか?」

「残すとママが悲しむし、心配しちゃう」

「でも夕飯も食べますよね?」

「うん」

「お昼に食べればいいんじゃないですか?」

「あそこじゃ喉通らないもの」

 セララは太腿ふとももをぴったり合わせてテーブルにし、巾着の中から二段弁当を出して広げる。

「あ、今日十六穀米かぁ、おかずとの相性が悪いんだけど」

 セララは冷めても美味しいママの卵焼きを食べる。ご飯や他のおかずも食べつつ、今日の色々な出来事を落ち着いて振り返る。

 寝取られた。いや、寝てないからこれは違うかも。あ、話しても無い。だけど、それでもあれは屈辱的で、恥辱的だった。迂遠な言い方で、お前は手頃な女だと言われたんだ。そんな嫌な事を言われてるのに、なんで私はいつも、相手に都合の良い顔をしてしまうんだろう。多分、私は発言より沈黙を選んできた人間なんだ。だから踏み躙られても何も言い返さず、作り笑いが出来ちゃうんだ。班が解体されればもう話す事なんてないのに。こんな気分になっても、多分次もまた同じ事をする。また同じ気持ちを味わって笑って――

 考え事をするセララの顔を覗き込んでポピンは切り出す。

「セララ、これから貴女の事を知る為に色々と質問していいですか?」

「えー、まぁいいや。いいよ」

「では好きな食べ物は何ですか?」

「果物類とチーズとママが作ったポテトサラダ」

「趣味は何ですか?」

「妄想……かな?」

「自分の好きな所はどこですか?」

「……顔?」

「内面ではどこですか?」

「さっき考えたけど、無い、分かんない」

「お母さんとお父さんはどんな人ですか?」

「ママは美人でパパはカッコイイ! それで凄く優しい! ……その優しさが辛い時もあるけどね」

「セララ、アキトって人のどこに惹かれたんですか?」

「あっ、えっ? そりゃ、か――」

「顔以外で」

 先読みされ、それ以外の答えを用意してなかったセララは少し間を置いて答えた。

「……さこ――」

 セララの声がさっきより小さくなり、ポピンから顔を逸らした。

「もう一度お願いします」

「あぁ、もう! 鎖骨よ! さ・こ・つ! あの骨ばった部分に噛み付きたいの!」

「それは一般的なんですか?」

「分がんない……」

「はぁ……そうですか。なんだかロクなものじゃないですね」

 セララは負の感情を吸い込んだ天使に八つ当たりし、気分が晴れ、穏やかな気性になった。

「私のなんてどうでもいいから、そっちの話も聞かして。何で堕天使になったの?」

 そよ風が吹いてきてセララの前髪を揺らした。ポピンは言い難そうでつっかえながら話し出す。

「それは、えっと、有り体に言うと、私が人間に恋をしたからです」

 セララはまさかの恋バナでポピンの方を二度見した。

「それだから堕ちて来ちゃった訳? 意外。私みたいな事すんだ。天使とは違うの?」

「色々違います。天使はああやって人の悪意を吸い込んで天界で浄化します。天界に戻れず、吐き出せず、人間の悪意のまま行動してしまうと前の天使みたいに暴れ出してしまう。そして人間に寄り添ってしまうと堕天使です。天界は暴れてしまう天使よりも堕天使の方を問題視しています。欠陥品みたいなイメージかもしれません」

「ねぇ、私に寄り添ってる?」

「つもりでは」

「ふぅーん」

 セララは夕闇が迫っているのに気付き、弁当のおかずとご飯を口の中に放り込んだ。そうして完食してからハンマーから降り、自分が飲んだ缶を拾う。彼女は口を手で押さえ、頬張りながら言う。

「そろそろ帰る。次はもっと面白い話して。話題考えといて」

「頑張ります」

 セララは家に帰り、ポピンは地域を巡回するらしい。そうして天使を探して報告する。

 セララは帰宅し、いつも通り毎日のナイトルーティンをこなして部屋の電気を消す。

 真っ暗な中、ベットに入って仰向きになり、天井をスクリーンにして色んな映像を投影する。そういう時に上映されるのは楽しい事ではなく、苦しかった事。一人きりで誰に向けた訳でもない言葉を呟く。

「分かってる、分かってるから、良いでしょ……」

 そんな暗い彼女の部屋に壁をすり抜けポピンが入ってくる。

「寝る所でしたか。外出ますね」

「……ちょっと待って。もう少しだけここに居て。夜は嫌な事思い出すから」

 ポピンはセララの萎れた雰囲気を感じ取った。彼女が寝付くまで黙って傍に居ようと思った。セララがポピンの方を見ながら話し出す。

「いつもこの時間は考えても仕方無い事ばっかり考えてる。どうしようもないって分かってるのに。私、自分っていうのがよく分からなくて、人格がいくつもあるような気がするし、私は私でしかない気もする。この複雑さは簡単にならない。もっと単純に……もっと鈍感に生きられたら、誰かの悪意にも気付かないのに。つまらない事で悩んだりもしないのに。こんなのも、すぐに忘れられるのに。馬鹿みたいね」

「それではささやかな愛も心の機微も感じ取れなくなりますよ」

「分かってるけどね、心の不感症も悪くないかなって思うの。そうなったらスッキリ爽やか、何も感じない」

「何が平常なのか分からなくなりそうですね」

「そう……でもすっごく生きやすく、楽にね……」

 彼女の声が消えてしまいそうになり、瞼がゆっくりと下りてくる。微睡んで脳の表層だけを使って会話している雰囲気があった。

「明日も学校ですよ。もうおやすみ、セララ」

「うん……」

 セララは眠たそうな細めた目でポピンの方を向いた。

「ねぇ……いいよ。寝顔見ても」

「実は初日に見てました。眠っている時は愛らしいですね」

「そっか、そうなのね……私は見た事ないけど……」

 セララの瞼は暗闇の中で閉じられる。柔らかい輪郭に白い陶器の肌、長い睫毛に薄い唇。ポピンは寝息を立てる彼女の寝顔をなぞるように見ていた。



 次の日、十一月十三日金曜日、セララは制服のブレザーに、黒いマフラーと裏起毛の黒いタイツを着て来た。

「マフラーって良いよね。可愛さ増すよね。利便性で言うとネックウォーマーにボロ負け感強いけど」

「似合ってます」

「私もそう思ってた」

 今日は昨日よりも気温が低く、朝方は一段と冷えて霜が降りていた。土や草葉の表面に硝子の破片のような氷の結晶が付着し、朝陽を浴びてきらめいていた。セララはこの染み込んでいく、しんとした空気が好きだった。澄み渡った清浄な世界。

 そんな登校の道すがら、同校の男子高校生から話しかけられた。

「あの、すいません、どっかで会った事あります?」

 学校付近の都市部に入る直前、田舎道の途中。セララは狼狽えながら振り向く。小さい声で精一杯応答する。

「えっ、あっ、面識無いと思うんです……」

 セララは相手の品定めするような目が、大きく開く瞳孔が怖かった。身長の大きさも、挙動不審な身振りも。パーソナルスペースを平気で侵していく。胸の内に息苦しさが広がり、視点はいつの間にか足下に追いやられた。

「いや、あるって。名前、セララさんでしょ?」

「それは……一緒の学校だから、多分すれ違って――」

「それ以前に会った事あるんだって!」

 男子はセララに詰め寄った。その圧がまたセララを怖がらせ、足を竦ませる。

「あの……や、やっめ……」

「いやいや、話がしたいだけだから」

「やぁめ――」

「いや、あのさぁ」

「ろ……やめろ」

 その瞬間、セララの目の色が一変した。さっきまでのオドオドしたか弱い子という印象は消し飛び、すっと相手の目を真っ直ぐに見据えた、したたかさと美しさ宿ったまなじり。それに射竦いすくめられ、彼は言葉を漏らした。

「え……?」

 セララの手は素早く相手の首を掴み、持ち上げていた。男子生徒は地面に足が付かないで藻掻いている。セララの声色が変わり、抑圧された情動を解放する。

「ほら、私の御尊顔を見な。どう? 釣り合う? 私とアンタ」

 セララはそう叫んだ。男子生徒の顔が赤くなっていく。まるで茹蛸ゆでだこのようだった。

「冗談でしょう? この鼻デカ野郎ォ!」

 セララは手を離し、男子生徒は地面にへたり込む。汗が噴き出し、首をさすりながら必死に呼吸する姿を見下ろす。首元にくっきり赤い跡がついていた。

「心身共に汚らしいわ。身の程を弁えなさい不細工」

 そう吐き捨て、セララはカバンを肩に掛け直す。いさかいも何も無かったかのように歩いて去っていく。

 そして車通りの多い賑やかな都市部に入った時、ポピンが下半身から出て来たタイミングでセララは気付いた。

「あ、私……そっか、私の中に入ってたのね、ありがと……」

「いえ、何も言わずあのまま逃げ出すよりスッキリしますよね」

「うん、良かった。じゃないと……で、誰だったんだろ、あれは」

 そうして無事に学校に着き、何の気なしに下駄箱を開けると、セララの中靴の上には白い何かが置かれていた。それが何かを観察してみると、手紙らしき物が置かれていた。セララは一度下駄箱を閉め、そこに書いてある出席番号が自分のものか確認した。

「2332、二年三組三十二番……」

 無意識に音読する。そしてもう一度下駄箱を開ける。やっぱり自分の中靴、その上に手紙が置かれていた。

「んおっ!? な、これ……!」

 頭が桃色のセララは勿論ラヴなレターだと思った。しかし、セララは頑張って舞い上がらないように自分を落ち着かせる……事が出来なかった! 軽いパニックになり、一旦その手紙を持って再び外へ飛び出す。

 セララは走りながら頭の中で色んな可能性を探っていく。そもそもまずラヴなレターじゃない可能性を加味し、その上、ヲタクからの手紙の可能性も加味した。それでも浮かれているのが分かる。期待して裏切られるのは嫌だから、あんまり期待しないようにしようと思った昨日の今日で。

 そうよ、こんなの、何とも無い日常よ。日常茶碗蒸しなんだから。引く手数多なんだから。激マブ、激モテよ。立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花でしょ? 大丈夫、大丈夫。こんなのでいちいち心乱してらんないんだから……。

 体育館の裏、日陰になっている誰も居ないジメジメした場所に隠れながらその手紙を吟味する。表、裏、また表。そうしているとポピンが口を挟む。

「早く開けて学校入った方が――」

「うるさい! 遅刻しても良いから!」

 そうして丁寧で細心の注意を払う手付きで手紙を開けて中身を見る。まるで爆弾処理班のように。

 鼻息が荒くなって、心臓が跳ねる。脚が少しだけ震えている。そんなセララに差出人の名前が飛び込んで来る。

「アキト先輩!?」

 そこにはなんと、あのギャルの彼氏であるはずのアキト先輩が綴った手紙であった。ヲタクではない。その手紙の中身を要約すると――

『今日の十七時、第二運動場に来て下さい。伝えたい事があります』

 これは来た。私の全盛期到来。人生には三回モテ期があるという。これまで一回も経験した事が無かったけど、ここにきて一回目。このペースなら熟女の時に三回目が来そうな感じ。熟女、そう、私は今しがた熟したんだ。食べ頃だ。追熟が必要なあの洋梨と同じように、時間を掛けさえすれば甘い匂いを振り撒き、やわく、美味しくなる。

 その有頂天の余韻に浸り、しっかり遅刻し、朝の会が終わった後に教室に入った。それもこっそりではなく、悪気無く堂々と入室。自信に満ち満ちた表情だった。

 アキト先輩の彼女であるギャルに優越感が凄い。彼女の顔もへのへのもへじに見える。何も知らない馬鹿面の間をランウェイに上がったかのようにしゃなりと歩く。

 お前ら全員、私を知らないのだ。知らない事を、知らないのだ。

 ここで一転、差し込んだ不安。この手紙について加味すべきポイントが増え、セララは一気に不安になっていく。

 あれ? この手紙、これは嘘告白ってやつで、私はめられてる?

 それを皮切りに、色んなマイナス要素が頭を占めていく。

 ていうか、下駄箱勝手に開けないでよ、臭いかもしれないのに! 女の子だから匂わないっていうのは男の子の幻想で……いやいや、それよりこれからの事、どうすればいじめられないか考えないと! 私はどうしよう……。

 自分の席に座って何度も何度も机の木目をなぞる。十分休みにトイレで用を足しながらポピンに相談すると、提案が帰ってきた。

「隠れて第二運動場を監視して、取り巻きが居ないか確認して、彼だけが来たら行けばいいじゃないですか」

 セララはトイレットペーパーのガラガラと巻く動作を止めて言う。

「そうっ、それ! そうしよう!」

 彼女は一日中そわそわしながら過ごした。待ち遠しいような、来ないで欲しいような変な気分だった。ただ時間は着実に過ぎていく。

 授業中、いつもなら誰かに見せる時の為に奇麗だと思われるようなノートをとっていた。しかし、今日はというと震えた線を六本引いて終わった。口を開いて間抜けな顔をしていた。頭の中もぼんやりしている。

 休み時間も独りで居る所を見られたくないはずが、今日だけは自分の席でぼーっと虚空を見つめていた。見栄とか体裁とか、そこまで気が回らなかった。

 いよいよ放課後、帰りの会が終わり、下校時刻になった三時五十分から第二運動場を見張れる二階図書室の奥ばった所に身を置く。スプリングが死んでいる、ブランケットがかけられたソファーに座りながら、汚れた飴色の小窓から監視しようという考えだった。いつもなら野球部が使っている第二運動場の誰も居ないバッターボックスを凝視する。

 窓が少なく、蔵書の為に直射日光は避け、日陰を作って薄暗くなった図書室で一人きり。古書が多く置いてある場所特有のかびっぽい匂いも慣れてきた。セララがお尻の位置を調整して身動ぎする度、ソファーからハウスダストが舞い、斜陽に照らされてよく見える。それによってくしゃみが出そうになり、目もやや痒くなってきた。

 そうしていると少しずつお腹が減ってくる。弁当を誰も居ない図書室で隠れながら咀嚼そしゃく音を立てないようにして食べた。

 それから数十分後、生徒達が下校し、静謐せいひつな空気が辺りを包む頃、ピッチャーマウンドに立つ人影が見えた。周りには誰も居ない。セララは振り返って図書室の掛け時計を見る。秒針は四時五八分を差している。

 あれはアキト先輩! 私なら輪郭で分かる! 今行きます!

 セララはソファーから立ち上がり、傍らに置いたバッグを肩に掛け、マフラーを巻いて走る。

 人が居ない校舎を駆け抜け、階段を下る。シンデレラが十二時を過ぎ、走り去るよりも早く彼の元へ向かう。ポピンは後ろから黙って付いてくる。

 中靴から外靴のローファーに履き替えてアキト先輩の背中に走って行く。防球ネットを持ち上げて下をくぐる。

 今日の夕陽のオレンジ色は奇麗な気がする。身体も軽い。ただ走ってるだけなのにスキップみたいな、そういう跳ねるような足取りになる。自然に心がそうさせてる。なんて素晴らしい日なの!

 そしてピッチャーマウンドに立ち、バッターボックスの向きに立っているアキト先輩の背中に近付く。息を整え、前髪を直しながらそっと歩く。緊張を緩和する為、大きく息を吐いてアキト先輩の前に立つ。俯いていて前髪で表情が見えない。

 あ、先輩も緊張してる。これってやっぱり、告白?

「あのっ、来ましたけど……」

 今はこう、なんていうか、少し受け身な素振りを見せなきゃ。前のめりなのは男の子の担当だし、そういう言葉選びと態度が良いかも。そうしましょ、そうしましょ。

「な……んですか……?」

 手を後ろで組み、少しだけ上半身を前傾にして、鏡の前で練習した渾身の可愛い顔を作る。アキトは俯いて黙ったままで居る。そして小さく零すように言葉を紡ぐ。

「君の――」

 の……?

「事が――」

 が……?

「事が……がぁ……」

 その瞬間、アキトは俯いた顔を勢いよく振り上げた。

「んがァ……!」

 その声量はこれまでより遥かに大きかった。今までとは違う野太い声。

 そしてセララは確かに見た。アキトの口の奥から血走った巨大な赤い目玉が這い出て来たのを。その目玉は歯の近くまで来て、セララを見つめた。口内を全て覆う程に大きい。ポピンの顔が強張っていく。セララは声が漏れる。

「えっ……?」

「セララ、離れてッ!」

 ポピンがそう叫んだ瞬間、口の中からアキト先輩の体積以上の黒い巨腕が出てきた。

 セララは血管が浮き出たその巨腕に腹部を殴られる。そして凄い速さで飛ばされ、バッターボックスの後方にある金網に叩き付けられた。金網はぶつかった衝撃でひしゃげ、耐えられなかった部分は鉄線が断裂した。彼女は痛苦の唸り声を漏らし、腹と背中が燃えるように熱くなり、息が出来なくなる。痛みが広がっていく。

 タイツは金網の切断面、尖端に引っ掛かり、太腿ふともも脹脛ふくらはぎの部分に切れ込みが入る。セララがゆっくりとくずおれるとタイツが破け、伝線が、素肌の部分が広がっていく。

 殴られる寸前、セララは肩に掛けていたバッグを咄嗟に盾にした。その為、バッグは裂け、穴が開き、持ち手の部分も根元から切れていた。バッグの中身もぐしゃぐしゃに潰れ、中に入っている何もかもが使い物にならなくなった。

 セララが首に巻いていたマフラーも千切れ、バッグと一緒に傍らに落ちている。

 ポピンは今の目で追えない一撃に暫し唖然とした。そして魔力を感知されて狙われた事に気付く。

 アキトの体内から出て来た黒い天使はタールのようなものでアキトをのみ込んでいく。そして鶏の顔に牛の角、人間ような胴体、背中にはわしの羽を生成し、言葉を発した。

「小娘、セララという名前らしイな?」

 セララは嗚咽を漏らし、お腹を押さえながら激しく咳き込む。ポピンは振り返って座り込んだセララの方へ向かう。

 天使は不気味で不愉快な半笑いで続ける。

「馬鹿な女、お前は最低で最悪だ。プライドが高イ、性格が悪イ、その割に中身が伴わなイ。だから嫌われる、誰からも相手にされなイ」

 ポピンがセララの顔を見た時、その言葉に耳を傾けているのが分かった。身体の痛みよりもこたえたのも。

「コイツの事が好きらしイが、友達すらイないお前にコイツの何が分かるんだイ? その淋しさを性愛で埋めようとしでェ、コイツを見てイないクソ女にィ?」

 その天使の身体はどんどんと大きくなり、スライムのように変幻自在で色んな形に移ろっていく。そうして団子のように丸まって、モチーフを失くした。その後、ミミズのような触手が多く形を成していく。まるでイソギンチャクのようだった。

「お前はずっとそうしでイくんだ。これからもずっと、お前の見下しでる奴らに見下されるんだァ! お前みたいな奴は死んだ方がイイんじゃないのかぁ? 親に謝って自殺するべきだ!」

 天使は高笑いし、また一段と大きくなっていく。その大きさは家一軒程になっていた。頭上では一変して暗雲が垂れ込め、陰鬱な雰囲気が漂う。

「セララ、セララ! 大丈夫ですか!?」

 ポピンの問い掛けに答えず、セララは呟く。

「確かに……友達が居ない私に何が分かるんだろう? ママもパパも優しいから触れずに、その話題をずっと避けてたけど……」

 誰も言わなかった事を、ずっと気付かないように目を逸らしていた事を大声で罵られ、嘲笑われた。セララの目が意識の奥に沈んでいく。殻に閉じこもるように、独りの世界に閉じ込められるように。堰き止めていた嫌な記憶や自己嫌悪が溢れ出してくる。

「セララ、あんな奴の言葉に耳を貸さなくていい。私はセララの味方です」

「でも本当だよ? 色々と難しくて、私じゃ要領悪くて、それでね、私、何もおかしくないの……!」

 誰かに弁明するように、訴えるように一人で俯き、呟いている。セララの目には涙が溜まっていく。表面張力で保たれているが、それは今にも零れ落ちそうだった。

 物心ついた頃から見えてはいけないものが見える少女。何かに怯え、指を差し、「そこに居る」と繰り返す病気の子。他の人達が正しくて自分が悪いんだと呑み込むまで時間がかかった。その時に出来た古傷は癒えずに、かさぶたにもならずに、生傷のまま彼女の身体を覆っている。

「友達居ないもん。分かんないもん。独りぼっちだもん」

 ポピンはセララを見ながら考える。

 完全に魔女になると自分の心の枷が外れる副作用がある。いつも情緒不安定ですが、これで魔女化したら更に……。

「それは『ここ』で独りなだけです。それに友達なんて居なくたって良いんです。そうです、貴女には私が居るではないですか」

 ポピンは宥めるように、ゆっくりと優しい声色で話しかけた。

「でも、だって多分これは私が作り出した誇大妄想で……」

「この際妄想、空想、なんだっていいんです。こうして対話してるのが大事なんです。それに貴女は誰よりも孤独の辛さを知っているはずです」

「私は……そんな私が嫌い」

 セララは振り絞るように声を発した。そこで涙が一粒零れ落ち、地面に染みを作った。

 ポピンは、さっきまでの優しく諭す声色ではなく、確固たる口調で淀みなく言い切る。

「私は好きです。『こうでなければいけない』に雁字搦がんじがらめの貴女が」

 その一言でセララの目が大きく見開かれる。ポピンはこれまでにないほど語気を強め、続ける。

「美しくなければいけない、友達がいなければいけない、勉強が出来なければいけない、そういうものに雁字搦めで不器用なセララが」

 セララの目から流れ落ちる涙の粒が大きくなる。彼女は手を握り込みながら、震える声音で訊く。

「ほんと……?」

「本当です」

「ほんとに……?」

「嘘じゃないです」

 今の今まで俯いていたセララがやっとポピンの顔を見た。

「ねぇ、ポピンは友達?」

 ポピンはセララの潤んだ深い純黒の瞳に吸い込まれそうになる。微笑んで心を込めて答えた。

「ええ、貴女が望むなら、いつまでも」

 セララはそれを聞くと小さく吐息を漏らした。そして涙をブレザーの袖で拭いて鼻をすすって深呼吸した。目元はまだ赤らんだまま、意を決したように立ち上がる。肩に掛かって前に垂れている三つ編みを後ろへ払い、強がってスカートを捲りながら言う。

「んっ、もう大丈夫だわ。入って来て頂戴。あの、私を苦しくさして泣かせやがって……!」

「天使は雌雄同体なので性別はありませんよ」

「繋がる必要が無いだなんて、可哀想な種族」

「堕天使はあります。私は女性です」

「ポピンが女性で良かった」

 そうしてセララとポピンが一体となり、完全な魔女と化す。ポピンが胎内の魔力を全身に送るポンプの役割を担う。

 そして精製。お腹から銀のミートハンマーを取り出し、大きくする。魔女の象徴、魔鉄器を手に、憎き天使を見据えた。アキトの口から出て来たそれは現在進行形で大きくなり続けている。

「あれはアキトの悪意に巣くった天使ですね。彼の弱さに付け入って、あんなに大きく……」

 セララは天使を観察して何かに気付き、声を上げた。

「上に固定されてる!」

 天使の大きくなり続ける身体の上にアキトの身体が見えていた。はりつけのように手足が天使の筋肉で挟まれ、拘束されている。

「どこかに核があって、そこから成長を続けていますね。核さえ破壊すれば、私達の勝利です。彼以外の部分から削るのがいいかと」

「そうね。やってみる。まずは接近しないとね」

 黒色粘土のように形が変わるアキトを取り込んだ天使は、身体中から触手を勢い良くセララの方へ伸ばした。触手の先端は棘付きの鉄球のような形に変形して迫ってくる。それを走りながらハンマーで薙ぎ払って捌き、接近していく。

 足取りが軽い。力が漲ってくる。身体の隅々まで感覚が行き渡っている。私はこんなに動けるんだ。

 セララは天使の本体へ辿り着き、ハンマーで殴ろうとした。しかし、セララが殴ろうとすると、目の前にアキトを人質として出すような挙動を取る。上に居たはずのアキトがスライドしたように前に盾として駆り出される。そしてアキトの身体から天使が全て出た為か、意識が戻っていた。

「早く助けろや! おいッ、何やってんだよ!」

 セララは魔鉄器を振れず、鉄芯が入ったような硬い棘の触手に背中側から殴られる。他の触手は脚や腕に巻き付いて拘束しようとしたがすぐに引き千切る。キリがないほど数多の触手が次から次へと追うように伸びてくる。

 それらを掻い潜りながら天使の周囲を走り回る。それでもセララの方へ常にアキトの身体が向けられる。魔鉄器で殴られないようにする天使なりの生存戦略である。

「もう、本当に邪魔!」

「彼を盾に、人質にするなんて小賢しいですね」

「まずは、あれをどうにかしないとね」

 セララはその場で触手を一通り粉砕すると、ハンマーを地面に立て、柄の部分を伸ばした。セララは柄に掴まって、彼女の身体も一緒に高く上がっていく。天使の触手も届かない高度になった。

 あんなに大きかった天使が小さく見えた時、ハンマーの柄の部分を一気に縮め、セララは天使の方へ飛び込んでいく。当然、天使は上の部分にアキトの身体を寄せる。磔刑のような、十字のような体勢で腕や足を拘束されている彼を見た。

 しかしセララは動揺する事無く、満面の笑みでハンマーを頭上に掲げ、しっかりと両手で強く握った。そして自身の上唇を舐めた。

 セララは落下中、身体を捻りながら触手の打撃を躱した後、ハンマーで振り払って破壊する。何も怖くは無かった。

 そしてとうとう天使の真上に来る。セララはその勢いのままハンマーは振らず、天使の身体に飛び乗った。

 セララは大声で何か喚くアキトに覆いかぶさり、アキトの腕と脚を見る。やはり腕と脚は天使の筋肉にめり込み、挟まれて動けないらしい。

 そうしていると天使の触手が波立ち、表層に取り付いた異物を感知する。セララに向かってそれらが伸ばされ、触手の先端に切り込みが入り、その割れ目が開き、口が出来上がった。人間と同様の、その生え揃った歯を持って、首、腕、腿、足首、全身くまなく噛み付く。

 続いて天使は自身の身体からセララを引っぺがそうと外側に力を加える。彼女は触手を掴んでいたが千切れ、すかさず天使の肉に五指をめり込ませてしがみつく。

 セララはぎりぎりと磨り砕くように噛まれる痛みに歪んだ表情のまま、ハンマーを掌サイズくらいまで小さくし、天使の肥大化した筋肉に押し当てた。身体の痛覚を口から発散するように叫ぶ。

「伸びろォ!」

 ハンマーは筋肉にめり込んでいき、ジュクジュクと腐った果実を押し潰したような感触と共に奥へ伸びていく。そして丁度天使の身体の中心に達したのを感じ取った。

「中でおっきくしてあげる!」

 ハンマーの頭の部分は天使の体内で急速に大きくなっていく。イソギンチャクのような天使の身体は風船のように膨らんでいく。その内側からの圧力に耐え切れず、至る所から七色の血液が勢いよく溢れ出す。触手は力を失い、萎れていく。天使の身体はどんどんと膨れ上がり、溺れている時のような呻き声が辺りに響き渡る。

 そうして押し上げられる事で、腕と脚を挟んでいた天使の筋肉が緩んでいき、アキトは解放される。アキトは自身の腕と脚を見ながら言う。

「取れっ――」

「邪魔ァ!」

 セララはすかさずアキトの胸ぐらを掴み、片手で遠くへ放り投げる。天使の体内から、今度は小さくしてハンマーを引き抜く。開いた穴は折り重なる天使の肉ですかさず補修されていくのが見えた。

「これで……」

 セララは立ち上がって頭上高くハンマーを振り上げ、それは急激に、彼女自身の身体よりも、天使の身体全体よりも遥かに大きくなっていく。

 そして待ちに待った一撃。

「ミンチだァァァーッ!」

 セララは叫びながら今までの鬱憤うっぷんを込め、思い切りハンマーを振り下ろした。

 そのハンマーの威力と質量によって地震が発生する。そこでミサイルが着弾したかのような地響き。セララを中心に広がり、運動場全体に行き渡る地割れ。砂粒が飛び上がる。

 平坦だったグラウンドは一瞬で大きな起伏が出来上がり、クレバスのような溝がいくつも口を開いている荒れた土地になった。

 天使からは極彩色の血潮が上がり、呆気なく潰れ、肉片や臓物、血糊が飛び散った。セララの足元では多彩なフルイドアートのような血溜まりが出来上がる。核なんてどこにあるか見当も付かなかったが、再生しないという事は砕いたらしい。

「はぁ……はぁ……」

 セララの脳内は快感で支配され、大口で呼吸してよだれが垂れる。これまでで一番の手応え。地形が変わる程の過剰な攻撃。怒りもしこりも全てを出し切った。

 そうして陶酔していると、背後から声が聞こえる。

「あの! 棗谷なつめや世羅來せららちゃんだよね?」

「……んあぁ?」

 ハンマーを肩に担いで振り向く。天使が動かなくなり、事が終わったのと同時にアキトが少し遠くから声をかけた。セララはアキトの存在など忘れていた。隆起したグラウンドを越えて平坦な地面に下り、アキトの方へ近付いて訊く。

「話した事、無いと思うけど?」

「知ってるよ。有名人だからさ」

 セララは何で有名かは訊かない事にした。さっきまでとは態度が一変したアキトが続ける。

「助けてくれてありがとう。凄いね。いつも……こんな事やってるの?」

「趣味。最近始めたの。もういいよね? 私帰る」

「ちょっと待って!」

 背中を向けて帰ろうとするとアキトの声に制止され、セララは振り向く。

「あの、こういう形になったけど、僕と付き合わない?」

 セララはアキトの言葉の裏にある軽薄さを感じ取った。

「良いでしょ?」

 そう言うとアキトはセララの両肩を掴んだ。その行動にセララは嫌悪感を前面に表した。彼女の気分が快から不快へ急降下していく。

「ねぇ、どう? 僕は君が好きなんだ。悪くない提案だと――」

「なぁ~に気安く触ってんだチンカス!」

 セララはそう吠えると共にアキトの股間を蹴り上げた。それによってアキトの身体が地面から少し浮いた。悶絶し、股間を押さえながら蹲るアキトに背を向け、悠然と言い放つ。

「性格なんてどうでもいいけど、器が小さいのは嫌。アンタは私をもてあそぶ器じゃないわ。それこそ、手頃な女で満足してたら?」

 セララは第二運動場から歩いて去っていく。顎が上がり、胸を張り、背筋は伸びている。

「憑き物が落ちたって感じね」

 セララの表情は凛としていた。真っ暗な重たい雲間から輝く星を見つめた。もう間もなく冬が訪れる。それを肌で感じさせる冷たい夜風が火照った身体を冷ましていく。澄んだ空気。吐息が白い。心地良い寒さだった。

「…………で、ポピン的にはこれでいいの?」

 ポピンはセララの胎内から出て来て、満面の笑みを見せた。

「ええ、最高にカッコよかったですよ」



 あの戦いから土日明け十一月十六日、革製の黒いスクールバッグは責務を全う出来なくなったので、文房具や必要な物と一緒に休日の二日間で買って貰った。両親には忘れちゃって失くしちゃって――と言って謝り倒した。今度は大切にしようと黒い革製のバッグを抱きしめた。

 冬の到来により、朝ごはんの味噌汁が普段より四割増しで美味しく感じる。そして横目で見た窓の外では雪がしんしんと降り落ちる。降り落ちる純白の綿で世界を覆っていく。暖かいリビングとは違い、外は寒いはず、セララは想像して身震いした。

 彼女はお腹を壊しやすいのでカイロをシャツの腹部に貼り、紺色のダッフルコートと灰色のミトン手袋、灰色のニット帽を着込んだ。帽子を被ると髪型がどうだとか、静電気がどうだとか、そういうのは雪国の女の子はあまり気にしない。耳の穴を塞ぐように深く被った。

 可愛いベージュのスノーブーツを履き、玄関横に取り付けられている姿見鏡を何気なく見る。そこには着膨れした自分、それによって体型も捉えにくくなっていた。子供の頃を思い出して表情が綻んだ。

「行ってきます」

 玄関から外に出ると関節が動かなくなるような寒さが待っていた。それに負けじと何とか一歩一歩新雪に足跡を付け、白い息を吐いて舞い落ちる綿雪の中歩を進める。

 そうして積雪に足を取られ、いつもより遅めの時間に学校に着く。やはりそこでは大きな力が働いたようで、第二運動場は奇麗に均され、何事も起こらなかった事にされていた。

 中靴に履き変え、長い渡り廊下を歩くと、これまでと違ってオイルヒーターだけではなく、大型ストーブも至る所で焚いてあり、埃の燃えた匂いと灯油の匂いがする。ぼうぼうと音を出しながら、青い火を揺らめかせている。

 階段前広場で数名の女子生徒がストーブを囲んで床に座り、暖を取りながらお喋りしている所を横切って階段を上がる。その先の踊り場でもストーブが焚かれており、そこにも人が集まっていた。

 朝の会が終わり、セララはぼんやりとヒーターが稼働している生暖かいトイレでジャージを着替えた後、一時間目の体育の授業に向かう為に廊下を歩いている。廊下を歩きながらセララはポピンとあれこれ話していた。

「でもね、セックスフレンドから始まる恋もあるって聞いた事があるよ」

「別に深い意味は無いですが、体験が無いのに男女間のことをいろいろ聞き知っている若い女性の事を耳年増みみどしまっていうらしいですよ」

「……私ですわね」

「頻繁に口調が変わるのは何なんですか」

「だってどれが……あっ!」

 会話を勝手に切り上げるとセララは手すりの縁に貼り付いた。吹き抜けの二階から一階に向けて視線を注いでいる。そんなセララの後ろ姿を見て、ポピンは最初に会った時の事を思い出した。

「……今度は誰ですか?」

「フユタきゅーん」

 ポピンは溜息をつく。

「先の一件は顔で決めない方が良いって教訓だったはずですが」

 手すりから離れ、廊下を歩きながらセララはむっとする。

「知ってるもん! ほら、サッカー部でレギュラー取る為に頑張ってるらしい……って事! 休日にも雪上サッカーしててさ、バスケ部、バレー部、ハンド部とかが体育館からけたら夜間練習とかもやってて……それで改めてって感じ?」

「そうなんですか。どんな人なのかもっと教えて下さい。他には?」

「んー、それくらいしか知らないけどさ……」

「知ろうとしてないんですよ。セララ、まさか……付き合ってから探るつもりなんですか?」

「そうだみょーん」

「付き合う前から探りましょう?」

 そこで隣のポピンが思い出したように訊く。

「ところで、あの後アキトは勃起不全になったらしいですよ。セララ、何かしました?」

「へぇー、知らなーい。何せどうでもいい事、私関係ないもぉーん」

 階段を降りると、丁度そこにアキト御一行が通りかかり、セララを見るなり、アキトだけが足を止めた。下半身を見ると、勃たないはずの股間の部分が突き出ていた。ポピンはセララに耳打ちした。

「あらあら、勃ってますね。セララだけには、ですか」

 セララ以外には反応せず、セララを見ると条件反射的に勃つようになってしまったらしい。彼女は凍えるような目つきで見下し、呟く。

「きしょ。パブロフの犬系男子ね」

 セララは颯爽とアキトの横を通り過ぎ、体育館へと向かう。アキトは訳も分からぬまま、セララに首ったけで、通り過ぎたその背中と三つ編みをじっと見つめていた。

「ああやって呪うのもほどほどにしましょうね」

「えっ」

 ポピンにそう言われた時、セララは心臓を掴まれた気分になった。まるっきり何もかもお見通しだったらしい。彼女は動揺して誤魔化そうとした後、開き直るように答えた。

「……ポッ、ポピンは気付いてたのね? あー、そう、あれ……呪いっていうんだ?」

「ええ。魔女の呪いは天の大いなる力、因果律の修正を越えていきます。その力に目覚めているのなら、貴女だってそういうものと分かってかけたのでしょう?」

「ん、まぁね」

「まさか、魔女の特性をもう使えるなんて。セララ特有の呪いは異性を魅了するものらしいですね、色欲の魔女さん」

「ふぅーん、色欲ねぇ……」

「しかし、随分強く心を込めましたね。いつ解けるか……解けないかもしれませんね」

「ふふっ」

 セララは考えているポピンの前に出て振り返り、あでやかに微笑んだ。

「魔女が与える鉄鎚よ」

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セックスアンドデストラクション 仇辺 拾遺 @adabe

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