第112話 【12月21日】

「私、ダイエットしてるんですよ」

 仕事帰り、またあの噺家の老人に会った時は驚いた。人は知り合えばこんな風に声を掛け合うことが日常になるのか、とも思った。

「何だか顔色が冴えないね。仕事、大変なのかい?」

 老人は前回よりは気さくに横に座った。「それとも何か心配事か?」

 そう言われてみると仕事も心配事も、それなりにボクの懸案事項に思えてくるから不思議だ。それで思わず先ほどの言葉が出た。

「へえ、ダイエットかい。そりゃ大変だ。飲まず、食わずで体を絞ってるってわけかい?」

「いえ、ダイエットも無理は禁物ですから、専ら体を鍛えて筋肉を増やすやり方なんですが…」

「へえ!すごいね。道理でアンタ、女にしては体格がいいってわけだ」

 思わず『おじさん、それセクハラ』と言いたくなったが、寸でのところで止めた。

「ええ、まあ」

「でもさ、どうしてそこまでして痩せたいんだい?もう十分なんじゃないの。それだけやってりゃ」

 そう言われると今度は本当に言葉に詰まった。

「何ででしょうかね。鍛えるのが癖になったわけでもないんですけど。止めるきっかけもないもんで」

「自分で納得がいかねえのかい?」

「ええ、まあそんなところですかね」

 そう言うと老人は黙り込んだ。

「どうかしましたか?」ボクは気になって声をかけた。

「いや、俺と同じかもと思ってな。俺もな、商売柄稽古と本番を繰り返しやってきたわけさ。でもな、いくらやっても終わりってもんがねえ。『これでいい』ってことがないんだ。何だか最近その繰り返しに飽きちゃってさ」

「おじさんの仕事と私のダイエットじゃ格が違いますよ。私のはただの道楽みたいなもんですから」

「はは、それそれ。俺だって道楽から始めたんだよ。若え頃ラジオで師匠の噺を聴いてな、何にもやることがなかった俺は『ああ、これだ』って勝手に思い込んじゃったわけだ。それで気がついたらどっぷりこの世界に浸かってた」

「へえ、良いですね」

「そうかい?まあ、後悔したことはねえよ。実際噺は好きだったからな。でもさ、修行してようやく自分の芸でなんとか格好がつくようになって、そのうち師匠もあの世に逝っちまってさ。気がつくと自分が『師匠』なんて言われてんだ。ぞっとするぜ。俺はな、ただ自分で面白え噺がしたかっただけなんだ」

「分かりますよ」

「でもな、ある時思ったんだ。『俺は噺がしたかったんじゃない。ただ噺が好きだっただけなんじゃないか』ってな」

「それって?」

「つまりな、俺は余計なことに手出してたんじゃねえかってことさ。世の中にはもっといろんな大事なことがある。俺なんかよりよっぽど真面目に生きてる人間だっている。そう思うとさ、だんだん人前で噺をするのが億劫になってきてさ。気がつくとこうしてぐるぐる地下鉄に乗って人の顔ばっかり見てるのさ。まあ、これは若い時分の修行の名残でもあんだけどな」

ボクは何と言っていいか咄嗟には分からなかった。ただいろんなことが頭の中で想像はできた。

「ボクがダイエットを始めたのは…」

 老人が変な顔をしたのが分かった。

「あ、ボクってのは自分の口癖で。自分は」

「いいよ、『ボク』で」

「はい。ボクがダイエット始めたのは、自分が嫌いだったからなんです。ボク、自分が嫌いなんです」

 初めて言葉に出して言った。そうしてみると言葉はまるで蝶々のようにおじさんとの間を彷徨うようだった。

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