#5

 翌日、二日酔いで重い体を引きずりながらも早めに苑美の事務所に出勤すると、すでに恵里佳の姿があった。あれほど酒にやられていたのに大したものだと思いながら、白井も自席につく。タクシーでの一件は頭に残っていたが、その話題に触れるのは気が引けたため、黙々と自分の作業を進めていると三田や他のメンバーも出勤してきたので、白井は恵里佳に昨夜の言葉の真意を確かめる機会を逸した。

 

 第三に傾いたアルマ文化財団の心を苑美に引き戻す方法について、白井は未だに妙案を編み出せずにいた。広々とした館内スペースを活かした展示企画の自由度の高さは、小さめのビル一棟しかない外苑美術館には到底真似できない。苑美のこれまでの企画展でも、複数階分の展示スペースを使いながら工夫して全ての作品を収めてきており、各フロアにどの作品を配置するのがベストか、絶えず学芸員たちは頭を悩ませてきた。長い活動歴を持つ写真家の展示であれば、時代の変遷とともに変わる作風に合わせてフロアを変える手もあったが、若干25歳のベタンクールの作品にも同じ手法が通用するのか、白井には確たる自信が無かった。

 

 恵里佳は、昨夜の出来事を覚えているのか定かではなかったが。いつもより静かに淡々と仕事をこなしていた。学芸課長の三田も、今日は何やら矢矧館長に呼び出されたりと席を外しがちで、白井は煮詰まってきた思考をリフレッシュするためにも、しばらく外に出て歩くことにした。

 

 晩春から初夏に移り変わるこの時季は散歩には最適な気候で、白井は足の向くままに神宮前の細い裏道を進んでいった。頭は絶えず企画展のことで一杯だったため、無意識に知っている道を進み、アトリエ神宮前の前に着いたとき、白井は初めて我に返った。美祢とここで会うのは夜だったため、明るい陽光に照らされた外壁の派手な配色に初めて気が付き、白井はぼんやりとカフェバーの前に立ち尽くした。


「すみまセン、、猫カフェは、この辺りで当てマスか?」


 急に話しかけられ、白井が声の主を見ると、どこか見覚えのある整った顔立ちの外国人青年が立っていた。スマホとガイドブックを交互に見やりながら、困った表情を浮かべている。道に迷った観光客かと思った矢先、白井の頭に電流が走った。

 

「もしかして、二コラ・ベタンクールさん、、ですか?」


 青年は驚いた顔をすると、「ウイ、そうデス」とにこやかに頷いた。偶然のエンカウントに呆気にとられていると、「僕のこと、知っているんデスか?」と問われ、白井は自分がベタンクール展を担当している苑美の学芸員であると伝えた。途端に、ニコラの顔が輝いた。

 

「アルマ財団のミレイから話は聞いてマス。外苑美術館の方がとても頑張って展示を考えてくれてると。ボクも大好きな日本で個展を開けて、白井サンのような方と一緒に仕事ができて嬉しいデス!」


 聞けば、年末の企画展に先立って会場の下見を兼ねて東京に来ており、時間が空いたので前々から興味のあった原宿の猫カフェを探しているうちに迷ってしまったのだという。流暢な日本語は、小さい頃から見ていたアニメで学んだそうだ。

 

「猫カフェ、場所分かるので案内しますよ。このあたりは道が入り組んでいて、地図アプリがあっても迷っちゃいますよね」


 白井が提案すると、「どうせなら、白井サンもいかがですか?」と屈託のない笑顔で誘われ、そのまま流れるように男二人で猫カフェに入店していた。


 海外にもファンの多い猫カフェだけあって、原宿駅にほど近い店には外国人の姿もちらほら見えた。単に猫と遊んだり餌をやったりするだけではなく、奥の方にはゆっくり本やマンガを読むためのスペースもあり、猫が沢山いる大きめのカフェという風情の店内で、白井はニコラと席についた。ふてぶてしい顔をしたトラ猫がやってきて、自然とニコラの膝に乗ると昼寝を始める。さすが、世界的な写真家の人気は人間だけにとどまらないと、しょうもないことを考え始めたところで、ニコラがおもむろに口火を切った。

 

「ボクの写真、白井サンはどういう展示プランを考えてくれているのデスか?」


 興味津々に問われ、白井はニコラのカラフルな作品群を最大限に引き立たせるための展示プランを考えているものの、競合の第三美術館に勝るような展示構成が思い浮かばず、頭を悩ませていることを正直に話した。ニコラは熱心に白井の話を聞き、「たしかに、美術館にとっても大変な仕事デスよね。キュレーターの皆さんは本当にすごいデス」と共感を示してくれた。


「いえいえ、我々の仕事は所詮裏方ですから。むしろ、若手写真家のホープとして色々な期待を背負って活動されているニコラさんのような方こそ、プレッシャーも大きいだろうに、本当に立派だと思います」


 心からの賛辞を伝えると、ニコラはかぶりを振った。

 

「そう見えるかもしれまセンが、ボクは今、誰かの期待に応えなければいけないというプレッシャーは感じていまセン。はじめ、パリの美術学校にいた頃は、毎日が競争でシタ。いつも自分と級友たちの作品を比較し、勝手に思い込んだ正解に合わせて写真を撮っていた時期も、短くはありまセン。でも、ある時、気付いたんデス」


 目を覚ましてもぞもぞ動き出したトラ猫を撫でながら、ニコラは遠くを見るような目で言葉を継いだ。

 

「このまま行っても、ボクはただ他者の目に怯えるだけの人生を歩んでしまう。それは、子供の頃から写真に対して持っていたボク自身の思いとは関係のないことデス。激しい競争に晒されたから却って、自分の歩いてきた道こそが、かけがえのない自分自身の価値なのだと、気付けたのデス」


 にゃーと鳴いて膝から降りた猫を目を細めて見やりながら、感慨深そうに語るニコラを前に、彼の話を自分に引き寄せて考えざるを得なかった。美祢への憧れは、相変わらず写真への情熱の根底にあったが、高校時代のように自分と彼女を単純に比較できる時期はとっくに過ぎ去っていることに、10年の時を超えて気付かされた気分だった。人に言われればこれほど簡単なことも分からないまま、自分はいままで勝手に苦しんできたのだと、白井は自分の頑なさが恥ずかしくなった。

 

「もちろん、作品を撮るにあたって独りよがりではいけまセン。ボクが一部の人たちから「インスタ写真家」と揶揄されていることも、知っていマス。だけど、ボクの写真、ボクの捉える色を好きだと言ってくれる人が沢山いる。これだけで、ボクは写真家として幸せデス」


 ニコラの言葉が、乾いた砂に染み渡る水のように浸透するにつれ、来たるベタンクール展の構想だけでなく、美祢への思いが心の中にはっきりとした輪郭を持って浮かび上がってきた。吹っ切れた白井は、仕事の待っている苑美に戻るべく席を立った。

 

「メルシィ、ニコラさん。あたなの企画展、私が最高の形で実現させてみせます」


 店を出る前に振り返ると、猫に囲まれたニコラは満面の笑みで手を振っていた。


                 ◆      


 苑美の事務所に戻ると、珍しく館長の矢矧嘉一郎が事務所に姿を見せていた。年のころ70代、長いあごひげを蓄え、和服をまとった矢矧は装いこそ浮世離れしていたが、その目には強い光が宿っていた。矢矧と話していた三田は、白井を自席に呼ぶと「実は、、」と真剣な顔で切り出した。

 

「矢矧翁がアルマの上層部に掛け合ってくださって、来週行われるアルマ文化財団の理事会で、展示プランを直接アピールする機会をもらえることになった。ただ、理事会は財団がベタンクール展の会場を決める意思決定の場で、苑美にとって最後のチャンスになる。ここ一番のプレゼンだけど、今まで通り、白井君にお願いしてもいいかな?」


「矢矧館長、三田課長、ありがとうございます。やらせて頂きます」


 白井が即答すると、矢矧は満足そうに手元の扇子をパチンと閉じた。

 

「頼もしい答えだ。それでは白井君、ベタンクール展のこと、託したよ」


 翌日、アルマ文化財団の竹川ミレイから正式に理事会への招待が届いた。公平性の観点から、苑美と第三の担当者がそれぞれプレゼンを行い、その場で理事会が会場を決定する。つまり、第三の木場凛との一騎打ちである。限られた日数で準備に全力を尽くす白井に、もはや迷いはなかった。

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