#4
日曜の夜、がらんとしたアトリエ神宮前の一席で、白井は再び美祢と向かい合っていた。漆喰塗りの白い壁には所々に写真や油絵が架けてあり、白井はまた美術写真部に舞い戻ったような気分になった。夜が更けていく中、相変わらず前衛的な果実酒を片手に、前回に続きお互いの近況などを取り留めもなく話していたが、美祢は次第に物言いたげな上目遣いで白井を見るようになり、どちらからともなく会話が途切れ、十数秒ほどの沈黙が訪れた。
「このまえ私、了くんを撮った写真が私の最高傑作だって言ったよね」
顔を上げた美祢が意を決したように言った。いつもは飄々として風のような美祢の目が、少し笑いながらも静かに白井を捉えていた。
「本当は、伝えたかったのはあれだけじゃなくてね。私が高校のとき写真を心から楽しめたのは、、了くんに見てもらえたからなんだよ」
金縛りにあったように感じながら美祢を正面から見ると、澄んだ瞳と目が合った。言葉が喉元まで出かかったが、咄嗟のところで白井は口を噤んだ。そのまま、美祢が淡々とした口調で続ける。
「久しぶりに連絡しようと思ったのも、高校時代の私の気持ちと、もう一度ちゃんと向き合いたいと思ったから、、だから、了くん、会えて嬉しいよ」
美祢の言わんとすることは、白井には分っていた。けれど、心の中の何かがブレーキをかけ、言葉が出てこなかった。しばらく無言で見つめ合あった後、美祢は目を伏せ、「それじゃ、今日はそろそろ行こうか」と席を立った。会計を済ませ、細い路地を駅の方向に歩く。少し前を歩く美祢の表情は見えなかったが、街灯に照らされた彼女の後ろ姿は、初めて見るような感覚だった。
駅に着き、別々の方向に向かう電車を待つ。美祢の乗る電車が近づいているとアナウンスが流れたとき、やっと白井はかすれた声を美祢にかけた。
「今は、ベタンクール展に向けて仕事が大詰めになってるけど、決着がついたら、また話したい。俺も、、上山さんに会えて、嬉しいから」
ホームに流れ込んでくる電車の明かりに照らされながら、美祢はかすかに微笑んだ。「それじゃあね」と言って車内に乗り込んだ彼女と、そのまま目が会うことはなく、白井は加速していく電車をただ見送っていた。
◆
翌週の月曜日、アルマ文化財団の竹川ミレイからの一本の電話によって、白井たちに急転直下の事態が訪れた。
「ありていに言えば、弊財団の上層部の意向で、第三美術館で開催する公算が大きくなっています。年末のベタンクール展開催に向け、財団としても夏前には会場を選びたいと考えており、予めご連絡差し上げました。白井さんたちが、本企画に向けて尽力されていることは誰よりも存じておりますので、、私自身も力及ばず、このような事態となり申し訳ありません、、」
普段はキリっとした竹川が柄にもなく狼狽している様子を受話器越しに感じ取りながら、白井自身も返す言葉を無くしていた。心配そうな恵里佳と目が合い、なんとか気を取り直す。
「状況は承知いたしました。弊館としても、可能性が残っている限り、最後まで企画をご相談したいと考えております。取り急ぎ、今の時点で改めてご提案できるものがないか整理して、またご連絡いたします」
受話器を置くと、全身から力が抜け、思わず溜め息が漏れた。第三という強大なライバルを前に、企画の磨き上げには全力を尽くしてきたつもりだった。しかし、結果として自らの力が足りなかった事実を、白井はまざまざと見せつけられた。第三の木場のせせら笑いが、聞こえたような気がした。
「私の努力が至らず、申し訳ありません、、なんとか、ここからリカバリーできる案を考えて、改めてアルマ側に相談しようと思います」
がっくりと肩を落として報告する白井に対し、学芸課長の三田は困ったような表情を浮かべながらも、「まあ、難しい出品交渉になることは分かっていたよ。僕も助けてあげられなくてごめん。まだ希望は残っているから、一緒に何とかやり方を考えよう」と珍しく優しい言葉をかけた。しかし、白井の心は晴れることなく、自席に戻るとしばし放心状態のように、何も手に着かなかった。
「せんぱい、、大丈夫ですか?課長の仰るように相手は第三だし、ベタンクール展がもし獲れなくても、白井先輩のせいじゃないですよ!それに、アルマの気が変わる可能性だってゼロじゃないし、一緒に最後まで頑張りましょう」
隣の席の恵里佳から励まされ、白井はようやく我に返った。「ありがとう、、武藤さん。そうだね、まだダメと決まったわけじゃない、、」
恵里佳の手前、無理にでも気丈に振る舞いながらも、胸にはやるせなさが押し寄せていた。美祢に憧れて写真の道に入った高校時代から、彼女の幻影を追うように努力を重ねてきた。写真家としての才能に限界があると悟った後も、自分の目を信じて学芸員として写真と関わり続ける道を選んだ。それなのに、、今回も、ダメなのか。美祢が、あんなことを言ってくれたのに。
抜け殻のようになりながら企画案を練り直していると、あっという間に夜の帳が下りた。一緒に残ってくれてた恵里佳が大きく伸びをすると、努めて明るい表情で向き直る。
「こないだは行けませんでしたが、今日こそぱーっと飲みましょうよ!いつまでも辛気臭い顔をして、白井先輩らしくないです。日頃の感謝を込めて、今日は私の奢りです!」
「後輩に奢られるのは勘弁してくれ、、まあ、ここまでずっと走り続けてきたから、武藤さんを労う会ってことで、どこかで軽く飲もうか」
相変わらず調子のいい恵里佳の言葉に思わず笑みが漏れ、白井は小柄な同僚の気遣いに心の中で感謝した。「白井先輩の奢り、やったー!そうと決まれば、善は急げです」と、恵里佳は茶髪のポニーテールを揺らして足早に事務所を出る。絶望的な状況でも共に戦ってくれる恵里佳のような仲間がいることに、いつになく心強さを感じながら、白井は彼女の後を追った。
◆
「だぁからー、白井せんぱいは悪くないって、さっきから言ってるじゃないれすかー」
後先考えない飲みっぷりを披露した挙句、先に酔っぱらって呂律が回らなくなった恵里佳を、白井は何とかつかまえたタクシーに乗せた。この様子では一人で帰すのは心許ないと思い、自分も恵里佳の隣に乗り込む。何とか聞き出した住所を運転手に告げると、恵里佳がもたれかかってきた。彼女の体温が伝わってきて、思わずどきっとする。
「武藤さん、帰るまではしっかりして」
「しっかりって、、白井先輩はいつも私より、ずっとしっかりしてますよぉ、、」
いよいよ会話が成立しなくなってきたと内心苦笑していると、恵里佳は顔を心なしか白井の方に向けて言葉を続けた。
「私、、白井先輩と一緒に仕事ができて、ほんとに良かったと思ってます。先輩はかっこよくて、私の憧れなんです。だから、これからも、ずっとパートナーでいてくだしゃい、、」
それだけ言うと、恵里佳は頭を白井の肩にこてっと載せて寝てしまった。妹のように思っていた後輩からの思わぬ告白に、白井は酔いが完全に醒めてしまい、恵里佳を家に送り届けるまで車窓に流れる夜景をずっと眺めていた。
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