#2

 美祢から電話のあった週の日曜夜、彼女の提案したカフェバー「アトリエ神宮前」で、白井は10年ぶりの再会を果たすことになった。地下鉄の原宿駅から明治通り沿いに進み、横道を何本か入ると、喧噪はすぐに遠ざかり、アパートが立ち並ぶ住宅街が現れた。新たな週の始まりを前に寝静まったような街の中を、白井は店を目指して細い路地を歩いた。


 現代アートのギャラリーを併設したアトリエ神宮前は、飲食店というよりは写真や絵画、そして壁一面に描かれたグラフィティが広がる異空間だった。デート用の店としてグルメ情報サイトでおすすめはされないだろうが、白井にとっては美大時代、そして美祢と過ごした高校の美術写真部の部室に戻ったような気がして、不思議と落ち着く空間だった。

 

 細身でスタイルの良い美祢は高校時代から変わっておらず、客もまばらな店内で先に席についていた彼女を白井はすぐ見つけることができた。ただ、当時はボブだった髪をセミロングに伸ばしており、白いノースリーブに深緑のカーディガンを羽織った格好も相まって、大人びた雰囲気に白井は年甲斐もなくドキドキした。

 

「久しぶりだね、待った?」


 白井が尋ねながら向かいの席につくと、美祢は笑顔で首を振り、店員に合図しながら白井に「何か飲む?」と訪ねた。彼女はすでに、サクランボやオレンジをあしらった前衛的なカクテルを注文していた。


「このピンクのカクテルとか面白そうだし試してみるか。それにしても上山さん、よくこんな店知ってたね」


「ネットでたまたま見つけただけだよ。写真や絵がいっぱいあって、美術写真部に戻ったみたいで楽しそうじゃない」


 酒が運ばれてきて、軽くグラスを合わせる。美祢の優しい眼差しに射られ、白井は10年の空白を一気に飛び越えて高校時代にタイムスリップしたような気分になった。

 

「それで、、その後、どうしてたの?」


 おずおずと、美祢に問う。突然連絡してきた背景もさることながら、話の糸口をつかむためにも、高校卒業後の美祢の歩みを知りたかった。さらに、胸の奥には、才能に溢れていた美祢が部活引退と同時に写真をやめたことが、溶けない氷のようにわだかまり続けていた。

 

「国立大の経済学部に行って、いまは平凡なОLですよ。昨日も土曜なのに仕事があって、こんな時間を指定しちゃってごめんね。ほんと社畜はつらいよ~」


 聞けば、白井も名前を知っている外資系の大手メーカーで、商品企画を担当しているそうだ。本社が渋谷駅近くにあり、白井の職場からも近い場所として、神宮前の店を選んだのだという。

 

「写真は、再開はしてないんだ」


「うん、たまに気に入った景色を撮ってインスタに上げるくらい。これでも結構フォロワー数いるんだよ、ふふ」


 美祢の口調はあくまで明るく淡々としていて、はぐらかされたような気持ちになる。思えば、彼女は高校時代から飄々として真意を掴めない女性だったと、白井は今更ながら思い出した。自分の近況として、美大を出てから外苑美術館に学芸員として採用されたこと、写真の展覧会企画などを担当していることを話す。

 

「あのとき私に伝えてくれた通り、写真の道を進んだんだね。やっぱり了くんらしい」


 彼女の言葉に、高3の夏休みに部室で交わした言葉と、白井が美大を志望すると知って驚いた彼女の顔が脳裏に蘇る。美祢という存在が、自分の人生に及ぼした影響の大きさを生々しく自覚させられ、白井は足元が揺らぐように感じた。

 

「ね、了くんが私の写真、初めて褒めてくれた時のこと、覚えてる?」


「ああ、高1の文化祭だよね。懐かしいね」


 平静を装いつつも、美祢のいたずらっぽい視線に鼓動が速くなる。

 

「そう、私たちが入部して初めて出した展示。ガラス越しに雨の日の景色を映しただけの私の写真を、了くんはずっと見てくれてたよね。あのとき、この写真が好きって伝えてくれたこと、今でも思い出しちゃうぐらい嬉しかったなあ」

 

 切れ長の目を細めながら回想に浸る彼女を、思わず数秒間吸い込まれるように見つめてしまう。そういえば、白井が美祢と親しく話せる仲になったのは、あの文化祭での会話がきっかけだった。

 

「でもね、私の個人的最高傑作は、引退のときに撮った了くんの写真。ふふ、見たい?」


 スマホを差し出され、画面に目をやると、西日に照らされた17歳の自分が映っていた。美祢の被写体となって緊張した面持ちがありありと浮かんでおり、我ながら若いなと白井は目を細める。学芸員としての視点からも、青春の一コマを切り取る美祢の技術は、改めて見事というほかなかった。

 

「やっぱり、上山さんは写真が上手いなあ」


 素直な感想が漏れる。高校時代は美祢の技術に追いつこうと必死で努力した。しかし、あれから10年経ったいま、彼女に天賦の才が備わっていたことは、残酷なほど明らかな事実として映った。美祢には敵わない、そう思って心が沈みかけたとき、彼女の意外な一言で白井ははっと顔を上げた。

 

「被写体がいいからだよ。レンズ越しの了くん、すごい映えたんだもん」


                 ◆      


 週が明け、ベタンクール展の準備に再び追われながらも、白井は頭の片隅で美祢との会話を反芻していた。別れ際に、近いうちにまたアトリエ神宮前で会うことを約束したが、10年ぶりに再開した彼女との距離感をどう掴めばよいのか、内心の葛藤は小さくなかった。

 

 しかし、そうやって悩んでいられる時間は長くはなかった。唐突に矢矧館長に呼び出された学芸課長の三田が、血相を変えて戻ってきたからだ。

 

「白井君、少しまずいことになった。第三美術館が、ベタンクール展に手を挙げたらしい」


「第三が、、」


 白井は絶句した。東京都港区に所在する国立第三美術館、通称「第三」は、国内のみならず世界的にもトップクラスの来場者数を誇る、日本を代表する美術館だ。広大な展示スペースを活かして大規模な企画展を複数同時に開催する能力を有し、その圧倒的な規模・知名度から他の美術館やギャラリーとの出品交渉では常に有利な立場から話を進める。そんなマンモスのような相手が、苑美えんびの担当者である白井の前に突如立ちふさがったのだ。


「難しい交渉になるけど、引き続き頼んだよ。矢矧館長の話だと、うちもまだ脈アリらしいし」


 他人事のように難事を押し付ける三田を、恨めしそうに睨みそうになったが、そんな白井の思いを察してか、三田は慌てて付け加えた。

 

「まぁ、これまで以上にアルマ文化財団と密に話してかなきゃならんし、仕事も増えるでしょう。武藤君にも、白井君のサポートに入ってもらうことにするよ」


「え、やった!白井先輩と一緒にベタンクール展やれるんですね、ラッキー」


 屈託ない笑顔で喜ぶ恵里佳に、白井はあきれて振り返った。

 

「武藤さん、これは普通の出品交渉じゃない。あの第三を相手にして苑美みたいに小さな美術館がどうやって立ち回るか、相当厳しい戦いになるんだよ」


「分かってますよぉ。でも、これも成長のためと思って、精一杯頑張らせていただきまーす!」


 相変わらず能天気な恵里佳に苦笑しながら、白井は肩の力が抜けるのも感じた。たしかにプレッシャーは大きいが、任された以上はやるしかない。そう腹を括ると、白井は早速アルマ文化財団の竹川にアポを取るため受話器に手を伸ばした。

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