幻灯のあなたへ

ユーリカ

#1

「もうちょっと右を向いて、、そう、その角度。あとは、もう少し陰影があった方がいいかな、、」


 夏の盛りの8月、外では蝉がうるさいほど鳴いていたが、白井しらいりょうの耳にはほとんど届いていなかった。なにしろ、憧れの同級生である上山かみやま美祢みねから、突然被写体になってほしいと頼まれたのだ。西日に照らされた埃が浮かび上がる、夕暮れ時の美術写真部の部室には、白井と美祢の二人しかいない。部活引退を控えた高3の夏休み、白井たちは最後の卒業制作を終え、後輩たちからささやかな壮行会を催してもらった後だった。

 

 熱心にベストポジションを模索する美祢を、白井は姿勢を変えないまま盗み見る。平凡な制服の黒ブレザーとスカートが、細身な美祢が着こなすと突然お洒落に見えてくるスタイルの良さ。前下がりのボブに切り揃えられた柔らかな髪が、色白な小顔によく合っている。愛用の一眼レフのファインダーを楽しそうに覗く彼女は、白井の思いをよそに再び指示を繰り出す。

 

「少しだけ俯いて、5度ぐらい。うん、完璧!いいねいいね~」


「上山さん、ほんとに写真やめちゃうの?もったいないと思うけどな」


 思わず、水を向ける。硬質な風景写真を得意とし、大人顔負けの実力で全国的な公募展に入選すらしていた美祢だが、最近になって美術写真部の引退と一緒に写真から足を洗うことを表明していた。大学でも写真を続け、ゆくゆくはプロになる道も思い描いているのだろうと予想していた白井たち部員一同は驚いたが、美祢の決意は固いようだった。

 

「決めたことだからね。それに、今は受験に集中しないと、、あ、動いちゃダメだよ」


 美祢はファインダーを覗きながら白井の質問に切り返し、表情を窺うことはできなかった。白井の中で、モヤモヤとした思いが広がる。


「俺は、、美大に行って、写真の勉強を続けようと思ってる」


 口をついて出た言葉に、自分でも驚いてしまう。進路の話は、まだ誰にも言わないつもりだった。

 

「え?了くん、美大いくの」


 はじめてファインダーから目を離した美祢は、本当に心から驚いた顔をしていた。会話の文脈を忘れ、彼女に見惚れそうになる。白井は、慌てて目を逸らした。

 

「あ、ああ。上山さんがこれだけ活躍してるし、俺も自分にできることを探したいなって思って、、」


 自分で決めた進路の話を人に話すのが、これほど恥ずかしいとは思わなかった。それとも、相手が美祢だからなのか。

 

「そっかあ、、すごいね。了くん努力家だし、きっと美大でも実力を発揮できると思うよ」


 なぜか寂しそうに呟いた後、美祢は気を取り直したように一眼レフを構えなおした。

 

「西日がちょうど良く当たってる。やっぱり、今が一番いいタイミングだね」


 ついにアングルを決めた美祢が、ふとファインダーから切れ長の目を上げて白井を見る。美祢の視線に射られ、白井は一瞬血液が逆流するような感覚をおぼえる。彼女の細い指が、シャッターボタンに触れた。

 

「じゃあ、撮るね」


                 ◆      


「例のベタンクール展の企画、白井君にお願いしようかな」


 東京都渋谷区の東部、明治神宮外苑にほど近い大通り沿いに所在する私設写真美術館「外苑美術館」の学芸課長、三田みた浩平こうへいは、もったいぶったように言うと、白井に関連書類の束を手渡した。小役人然とした三田を、白井は普段から虫が好かず、内心軽んじていたが、この時ばかりは40がらみの風采の上がらない上司を思わず凝視してしまった。5階建ての美術館ビルの最上階に位置する、こじんまりとした事務所の窓外に広がる空の色も、いつになく鮮やかに見える。

 

「分かりました。うちでベタンクール展ができるなんて、本当に夢みたいな話ですね」


 27歳の白井は、学芸員として来るべき試練がついに訪れたと感じていた。フランス出身のニコラ・ベタンクールは今年、20代半ばにして世界的に権威のある写真コンペ「アルマ世界写真賞」で最優秀新人賞を受賞した気鋭の若手写真家だ。現代的で鮮やかな色彩を大胆に操り、ソーシャルメディアを通じて幻想的な世界観を積極的に発信しているベタンクールの作風は、若年層を中心に圧倒的な人気を博しており、アルマ賞の受賞特典としてアルマ本社の所在する東京で開催される企画展の行方を、白井は密かに気にかけていた。


 元画廊経営者の名物館長、矢矧やはぎ嘉一郎かいちろうが創設した外苑美術館、通称「苑美えんび」は、写真と映像に特化するポリシーも相まって、界隈ではある程度知られている。しかし、国立や都立の大規模美術館群とは規模・知名度ともに比較にならず、だからこそベタンクール展のような話題性のある企画は、白井の胸を躍らせた。


「まあ、そこはうちの館長の人脈だよ。矢矧翁はいろんなコネを隠しもってるからねぇ。まだ苑美で開催すると確定したわけじゃないけど、とにかく企画展の担当者として、アルマ文化財団との調整は任せたよ。先方の担当者は、えっと、、竹川ミレイさんという方だね」


 美大でメディア芸術を専攻し、大学院を修了した3年前に知り合いのツテを辿って苑美に学芸員として採用されて以来、いくつかの常設展・企画展を担当し、ある程度腕に覚えが出てきた頃合いではあった。しかし、ニコラ・ベタンクールのように世界的に著名な写真家の企画展をメインで担当する経験は、白井にとって未知の領域だった。ついに大きな仕事ができるという高揚の裏で、自らの価値が試されるような不安も心の中に生じていた。

 

「白井せんぱーい、ベタンクールの企画やるなんてズルいですよぉ。私も担当なら友達に自慢できたのに」


 三田とのやり取りを隣で聞いていた新人学芸員、武藤むとう恵里佳えりかの声に、白井は意識を引き戻される。23歳、2ヶ月ほど前に白井と同じ美大を卒業し、彼を勝手に先輩呼びする恵里佳は、白井がメンターとして指導にあたっている。入館当初はしおらしく振舞っていたていた恵里佳だが、すぐに慣れて持ち前の図太さを発揮するようになり、小悪魔的な仕草で白井をからかうこともしょっちゅうだった。茶髪をポニーテールに結び、小柄で活発な恵里佳を、白井は手のかかる妹のように感じていた。

 

「武藤さんは、仕掛中の常設展の準備があるでしょ。内覧会には呼んであげるから心配しないで」


「はぁーい」


 口をすぼめてパソコンに向き直る恵里佳を見て思わず微笑みながら、白井は再び、自分のもとにやってきた大仕事に思いを巡らしていた。

 

                 ◆           


 アルマ文化財団の竹川に挨拶のメールを送り、ベタンクール展に向けた準備を一心に進めていると、外はあっという間に暗くなった。誰もいなくなった事務所を後にし、温かい春の夜風に吹かれながら地下鉄の駅に向けて車が行き交う大通りを歩いていると、ポケットのスマホが鳴った。この時間に誰だろうと思いながら画面に表示された名前を見て、白井は呆然としてその場に立ち尽くした。震える手で、スマホを耳に当てる。

 

「了くん、だよね?電話番号、変わってなかったんだ、よかったあ。上山美祢です。久しぶりだね」


 10年ぶりに聞いた美祢の声は、高校時代と変わらず優しかった。口の中が乾くのを感じながら、なんとか返事をする。

 

「上山さん、、ほんとに、本当に久しぶりだね。元気だった?」


「うん、急に連絡してごめんね。なんだか、久しぶりに了くんと話したくなっちゃって。今週末とか、空いてるかな?」

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