第38話 妹夜にかける
この世界に来て、兄の顔に少しだけ自身が満ちてきた。
些細な変化かもしれないが、私にとっては飛び跳ねるくらい嬉しいことだった。
どこか昔の兄の雰囲気がして、それを懐かしみながら眺めていた。
私、吉見鈴蘭は何を隠そうブラコンなのである。
今はそう見えない様に振る舞っているから、バレてはいないだろうが、昔は重度なブラコンだったのだ。
毎日の登下校は兄と一緒だったし、ただ兄と過ごす時間が好きだった。
恋愛感情とかそんな野暮な話ではない。
ただ一緒にいるのが好きだったのだ。
でも、そんな私にとっての当たり前が、いつからか周りから浮いてしまっていたらしい。
『兄妹なのに、なんでいつも一緒にいるの?』
兄妹だから一緒にいるのだ。
『兄妹なのに距離近くない?』
兄妹だから距離が近いのだ。
『お兄ちゃんのこと好きなの?』
大好きに決まっている。
小学生の頃は私みたいに仲の良かった兄妹だっていたはずなのだ。
それがどうして今でも仲が良いだけで、変な目で見られなくちゃならないのか。勝手に変な解釈をして、変な目で見られなくてはならないのか。
私に投げかけられていた質問はいつの間にか兄に向けられ、その質問が冷やかしに変わり、悪口に変わっていった。
周りからよく見られないと知りながら、それでも一緒に居られる場所がある。その事実だけで十分だった。
そんな私の幸せな日常は、ある日を境に音を立てて崩れてしまった。
ある日、いつものように私達をからかう声に対して兄が反応した。
『吉見はいいよな、重度のブラコンの妹がいてくれて』
ただ兄と廊下ですれ違っただけ。その時に、小さく手を振っただけなのに、それが気に食わなかったらしい。
なんでこんな知らない人に、そんなことを言われなくちゃいけないのか。
じろりとそちらに視線を向けてみたが、その知らない人は私ではなく、兄を見ていた。
まただ。また私じゃなくてお兄ちゃんのことを悪く言う。
兄のことを悪く言うのはやめてくれ。そういった所で、きっと何も変わらない。
もうどうすればいいのか、分からなかった。
兄に向けたはずの笑みが、少し困ったような笑みに変わってしまったのが自分でも分かった。
「そんなんじゃないって」
その笑みをちらりと確認すると、兄はそんなことを口にした。
「またまた、学校中で噂になってるぜ」
「本当に違うよ、そんなんじゃない」
「またまた」
いつもの兄とは何かが違っていた。どこか諦めたような何かを投げたような態度。何かがおかしいと思った時には、すでに遅かった。
「鈴がブラコンなんじゃない。俺が重度のシスコンなんだよ。鈴が俺を異性として見てたんじゃない。俺が鈴を異性として見てたんだよ。鈴に俺しか見るなって命令までしてんだぞ」
言っている意味が分からなかった。
いつも私からべたべたしてたし、兄が異性として私を見ているなんて感じたことさえなかった。
私には見せたことのない愛想笑い。それがどこか不気味で、私を見ているのに私を見ていなかった
「もう卒業するからいいか。俺が鈴の弱みを握って、ブラコンを演じろって言ったんだよ。鈴は可愛いからな。俺よりもカーストが上の奴らが、俺を羨ましく見るのが心地良くてな」
周りの空気が変わる瞬間というものを目撃した。
そこでようやく理解した。
兄は自ら嫌われようとしているのだ。私が困っている様子を見て、私が悪く言われていることを知って、その矛先を全て自分に向けようとしているのだ。
「でも鈴、もういいや。卒業まであと数日だし、今までありがとうな。十分に優越感に浸れたし、最高の気分だった。もうお前とは通う学校も違くなるし、弱みも誰かに公表とかしないから、もう自由にしていいーー」
違う。私はそんなことをして欲しんじゃない。
兄と一緒にいる時間が、その場所さえあればよかった。
その場所自体が兄の手によって崩されている。私の知っている兄ではない、いつもと違う兄によって。
ぱんと空気が裂ける音がした。
どう止めればいいのか分からなかった。ただ、兄に正気に戻って欲しいと思ったのだろう。
強く睨んで軽く頬を叩けば、止まってくれる気がしたのだ。
ただその私の浅はかな行動が、より一層周囲の空気を重くした。
「……ばかっ」
あの発言の後にこんな行動を取ればどうなるのか。そんなことさえも分からない自分に対して、言葉が漏れた。
大勢の前で兄の言葉を否定できない自分の弱さに腹が立った。
兄の優しさにもたれることしかできない自分に腹が立った。
気がついた時には、その場から逃げていた。
色んな感情がごちゃごちゃになって、それが涙として溢れ出た。休み時間が終わっても止まらぬ涙は、兄への風評被害を加速させた。
一日にして兄の悪評は校内に広がり、私を悪く言う噂は全てなくなった。誤解をしていたとクラスメイトに謝られ、温かくクラスに迎えられたのだ。
その謝罪を受け入れないこともできた。兄の言っていたことはでたらめだったと言ってしまえば良かったのだ。
でも、ここで否定したところで私の言葉を信じはしないだろう。
私の否定する言葉は全て、兄に言わされたものだと思われてしまうのだ。
もうどうしようもなかった。
兄への風評被害を加速させないためにも、私はクラスメイトからの謝罪を跳ねのけるようなことはしなかった。
その日、私はしばらく振りにクラスメイトと下校した。
「おかえり」
玄関に入ると、階段を下りてきた兄と出くわした。
兄は少しだけ気まずそうな表情をしていた。それなのに、いつもと変わらないように接してくれていた。
その声を、その顔を見た瞬間、そのまま思いのたけをぶつけてしまうかと思った。
本当は兄のことを悪く言う人達の言葉を否定したかったこと、用意してくれた逃げ道に逃げてしまったことに対する謝罪。
それらをすべて吐き出して、謝りかったのだ。
でも、それだけはしてはならないと思った。
だって、自分だけ家庭では兄に甘えるなんて、そんな身勝手な行動はできなかたのだ。
学校生活を捨ててまで私に居場所を作ってくれた兄に、私だけ甘えることはできなかった。
「……ただいま」
小さな声で返事だけをし、私はろくに兄に顔を合わせることなく階段を上っていった。
大好きなお兄ちゃんと距離を取る。それが私が自身に課した罰だった。
私は兄に優しくされる資格はない。気を抜けば兄に甘えてしまいそうになる自分を律するために、極力兄と目を合わせないようにした。
それでも、陰ながら兄のことを想っていた。
自分に罰を与えるのはただの自己満足だった。それには気づいていたので、私を助けてくれたように、兄を助けたいとか何か応援したいと思うようになった。
もう野球の試合がないから前みたいに声援は送れない。だから、小説の新人賞の応援をすることにした。
小説の大賞の締め切りが近くなれば、甘い物をさりげなく差し入れしたり、栄養ドリンクを買ってみたりした。
兄は気づいていないようだが、バレない様に応援を続けた。
気づいて欲しいわけではない、ただの罪滅ぼし。
いや、そんな綺麗な物ではないのかもしれない。結局これも自己満足だった。
正面から兄に接することができないから、せめて支えていたかった。
兄が笑えば嬉しいし、悲しめば悲しい。
だから、許せなかった。
そんな兄にあんな顔をさせたやつが。
ギース当人の屋敷での兄の顔を思い出して、私は何かに突き動かされていた。気がついた時には、宿から飛び出していた。
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