第2話 異世界へ転移

「知らない天井だ」

 いや、言ってる場合か。

 目が覚めると、ウッドデッキのような天井が広がっていた。

 茶褐色の天井は重みがあり、どことなく森の香りをゆったりと放っているように感じた。

……こんな匠が造り上げたようなペンション風の天井には覚えがない。

 我が家の天井は少し年季が入ったクリーム色だ。こんなコーヒーとセットで絵になるような天井を俺は知らない。

 となると、この天井はなんなのだろうか。

 瞬きを数度繰り返したところで、正解にはたどりつけない。

 分かったことと言えば、俺が今見知らぬ天井を見つめながら、見知らぬベッドで横になっていることくらいだ。

他の情報を求めようとしてか、俺は自然と体を起こしていた。

そのまま周囲に視線を向け、情報を集める。

必要最低限の家具が供えられたビジネスホテルのような間取り。十二畳ほどの部屋にベッドが一つと小さな机と椅子が一つずつ。

「たしか、頭をぶつけて……」 

 頭が冴えていくのに伴い、徐々に意識がなくなる前の記憶を思い出す。

 そうだ、俺は階段から落ちて頭をぶつけたのだ。

 頭をぶつけて、知らない場所にいる。普通に考えれば、ここが病院だと思うのだが妥当だろう。

 いや、ここは病院なのか? 

 改めて周囲を確認するが、とても病院のようには思えない。

 コンクリートを知らないような木目が目立つ壁。人工的に清潔が保たれているとは思えない自然な空気。独特の消毒液の香りどころか、森の中にいるかのようなヒノキの香り。

俺が知る病院とは対極に位置するような場所だ。

 いや、病院じゃないなら、一体ここはどこなんだ?

 そんなことを考えていると、窓の外の景色が目に入った。

 自然と足はその窓へと吸い寄せられていた。当然、見たところでここがどこなのか分かるわけがない。それでも、ここが首都圏なのか、田舎なのかくらいは景色から想像がつくだろう。

 そんなことを考えながら、何気なしに窓の外に景色に目を向けた。

「……ん?」

 可笑しい、何か夢でも見ているのだろうか。

 ベタだと思いながらも、自然と頬を抓って現状を確かめていた。

 抓っても抓っても、頬は痛い。

 痛いということは、目の前の景色が現実だということになってしまう。現実? この目の前に広がる光景が?

「嘘だろ」

 目の前に広がっていた景色に驚愕し、しばらくの間意識が停止してしまった。

 首都圏か、地方か。

その判断のために窓まで足を運んでみたが、そのどちらでもなかった。

結論から述べれば、ここは日本ですらなかった。

 中世ヨーロッパを舞台にした異世界転生系アニメ。その世界をそのまま引っ張ってきたような景色が目の前に広がっていた。

 レンガ造りの褐色をした建物。その間を埋めるように敷かれた石畳に、現代日本で見る機会がない石橋まで見受けられる。

 待ちゆく人々は彫が深く、日本人のような平ら顔はいない。

金髪や赤い髪をした人達が自然に街を歩いており、その誰もが人工的に染めた不自然さは感じられない。

さらに、その中には動物のような耳を生やした人々などもいる。

 腰からは剣をぶら下げ、騎士のような姿の人が通ったかと思えば、あちらではワンドを持って歩いている人が談笑している。

 コスプレとして見られるための恰好ではなく、それらが日常だとでも言わんとばかりに生活に溶け込んでいる。

 俺が知る限り、こんな世界を示す言葉は一つしか知らない。

「異世界?」

 初めに浮かんだその四文字。近年、聞き飽きると言うほど聞いたのに、未だに消えないその人気ワード。

そして何より、俺が強く望んで自作で小説まで書いた世界。

 それが今、目の前に広がっているのだ。

 俺は今、異世界に転生したのだ。

「うぉっしゃあああ!!!」

 心の奥底から湧き上がる感情は、自然と雄叫びのような声を引き出した。何度も何度もアニメやラノベで見た世界。そこに俺はいるのだ。

 当然、興奮しないわけがない。

 俺は元の世界で階段から落ちて死んだのだろう。でも、何も気に病むことはない。異世界生活ということは、俺はこの世界でアニメやラノベの主人公のような活躍ができるということだ。

 異世界転生ということは、あらゆるチート能力を手にして、ご都合主義で世界を渡り歩く。努力も葛藤も、全て天から受けた恩恵で解決できるのだ。

そんな主人公としての生活が、今始まろうとしている。

 今までモブでしかなった人生に転機が訪れたのだ!

「んんっ……ん」

「ん?」

 そんな人生を変える感動に浸っていると、女の子の寝言のような声が聞こえた。

寝起きを思わせるその声色に引かれて、振り返る。

すると、そこには少し盛り上がったままのベッドがあった。訝し気に見ていると、布団が小さく動いている。

 俺が寝ていたはずのベッドの中に誰かがいる?

 心当たりがないかを逡巡してみるが、当然思い当たる節がない。

 当然だろう。高校一年生の非モテ手男子に同じベッドで一晩を過ごす女の子はいない。そんなハーレム主人公だったら、異世界に憧れを抱いたりはしない。

身に覚えはないはずなのだが、なぜだろうか。

 今の声には聞き覚えがあった。

 どこで聞いたかは覚えていないが、凄く聞き慣れたような声だった気がする。

 ベッドの側まで近づくと、一定のリズムで布団が動いているのが分かる。

俺は恐る恐るベッドに掛けられている布団に手を伸ばし、一気に布団を持ちあげた。

 すると、そこには目を閉じているセーラー服を着た女の子がいた。

 光を反射しそうなほど白い首筋を露にしながら、心地よさそうなに顔を緩めていた。今にもご機嫌そうな、ふりふりと動き出しそうなポニーテールが印象的だった。

「……」

 寝ている姿を久しぶりに見たためか、一瞬誰だか分からなくなった。

しかし、よく見るまでもなく、この姿には見覚えしかない。

 俺の妹、吉見鈴蘭がそこにいた。

「んんっ……? え?」

 妹は眠たげに目をこすると、寝起きのような声を上げた。ぼーと俺に目を向けてはいるが、未だに焦点が合っていない。現状把握のために脳の回路を再起動でもしているのだろう。

 それから妹の脳の回路が正常に動くまで数秒。ぱちくりと開けられた瞳は、俺から自身の寝ているベッドに向けられた。そして、すさまじい速度で俺を二度見した。

「え、な、なんで。え、まさか……」

 俺を見る妹の目は大きく見開かれ、顔は真っ赤に染まっていた。俺を指す指先が小刻みに震えているし、顔の赤さが伝染して耳までも赤く染めている。

 異世界に転生した。それを認識した顔つきという訳ではなさそうだ。

 現状の何をどう捉えたらこんな表情をするのか、少しばかり妹の視点で現状を考えてみようと思う。

 寝て起きたら見知らぬ土地。というのは、まだ把握できていないだろう。

となると、その要因を除いて現状を把握してみよう。

この場には兄妹二人だけ。二人いるはずなのにベッドは一つしかない密室。そして、寝ているところを兄に無理やり布団をはがされたという状況。

あれ? なんだかすごく勘違いを生みそうな……。

 そんな風に状況を整理していると、剥いだはずの布団を妹に強く引かれてしまった。不意に力づくで引かれ、俺は前のめりに倒れていしまった。

 顔を上げると、奪い取った布団で身を隠すようにしている妹と目が合った。

俺が倒れ込んできたのに驚いたのか、さらに強く布団を引いて身を隠そうとしている。

その顔の熱量は先程から冷めきらず、何か抗議をしたそうな表情をしていた。

「き、兄妹なんだから! 私達兄妹なんだから!」

 ぐっと閉じられた目で何を言いだすのかと思ったら、妹はそんなことを口にした。

「……え、ああ。そうだな。兄妹だな」

「理解した上でこんなことしてんの?!」

「いや、こんなことって……」

 ただ異世界に飛ばされただけで、俺も被害者なのだけれど。

 そんなことしか頭には過らず、その答えが妹の求めている物とは違うのだろうなと思うことしかできないでいた。

 ここまで取り乱す妹は久しぶりに見た。

 俺と距離を置き始めてから、負の感情以外は俺に見せることがなかったはずだが、今や目の前の妹の目はぐるぐると回っているように見える。

 慌てる妹と対照的に冷静な気持ちで妹を見ていると、視界の端に何かがあることに気がついた。

 妹のすぐ脇。そこに手を伸ばそうとすると、妹は一段と身を縮めた。

「ちょっ、本気なの?」

 その言葉の意味が分からず、そのまま手を伸ばし続けると、妹は覚悟を決めたように強く目を閉じた。

「なんだこれ?」

 伸ばした手が掴んだ物は一枚の紙きれだった。ベッドに張り付けるように残されていたメモ書き。

その内容は次の通りだった。

『もう疲れました。ちゃんと責任取ってください。神様より』

 短すぎるのに、深い意味が込まれていそうな文面。淡々と書かれた文字には少しのやっつけ感が伝わってくる。

 そして一番の問題は、このメモ書きを残した存在だ。

『神様より』

 普通に考えればいたずらとしか思えない。しかし、今の状況を考えるとただのいたずらで済ましてはならない気がする。

 異世界転生という常識外れの状況に巻き込まれたのなら、神様が俺達に天命を授けたと考えても可笑しくない。

 そうなると、このメッセージの内容についても真剣に考えた方がーー。

「……して」

「え?」

 メモ書きの暗号を解くように考え込んでいると、か細く震える声がした。

 この部屋には俺と妹の二人しかいない。俺が声を出していないのだから、この声の主は妹ということになる。

 恐る恐る隣にいる妹の方に顔だけ向けると、声だけではなく何かの感情に動かされるように体までも震えている妹がいた。

「説明して!!!」

 まるで何か壮大な勘違いをしていたかのように、真っ赤な顔をした妹の怒涛が飛んできた。

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